日日の幻燈

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そうだ、ご先祖様を探してみよう!(3)-ご先祖様にゆかりのある人たち-

2015-01-12 | がんばれ!ご先祖様

先回は、ご先祖様・神丹波守が

【1】津軽為信の家臣だったこと。
【2】石田三成の遺児・隼人正源吾を津軽信建の密命で匿った。

この2点が本に載っていたことを発見したというところまででした。
で、ご先祖様にゆかりのある人たちについて、簡単に調べてみました。


【津軽為信】
もともとは奥州南部氏の家臣だった大浦為信は、津軽において独立を志して南部氏と争いました。南部氏から見たら謀反人ということでしょうか。
その後、着実に勢力を拡大し、ついに秀吉から津軽の領主として認められ、南部氏から独立を果たします。1590年のことです。この時、苗字を大浦から津軽に変えたとか。
関ヶ原の戦いでは東軍・徳川家康に味方して、江戸幕府が成立すると弘前藩の初代藩主となりました。
尚、有名な弘前城は為信の子の2代藩主・信枚(のぶひら)の時代に建てられたそうです。


【津軽信建】
為信の嫡男。関ヶ原の戦いの際は父・為信とは別に西軍に属して大坂城にいたそうです。西軍の敗報に接し、三成の子・隼人正源吾を津軽へ脱出させたのは信建といわれています。
為信が東軍に属したため、戦後、とくに処罰されなかったようですが、家督を継ぐ前に為信に先立って亡くなりました。


【石田隼人正源吾】
三成の子。関ヶ原の戦いのとき大坂城にいましたが、西軍が敗れると北陸を海路津軽へ落ち延びたとのこと。津軽で匿ったのがご先祖様・神丹波守ということのようです…。
源吾は深味で若くして亡くなったようですが、その子・吉成は弘前藩の家老になり、子孫は弘前藩士として明治を迎えたそうです。


津軽為信と信建父子が関ヶ原で東西両軍に分かれたのは、真田父子を思い出させます。
津軽為信は石田三成に対し、南部家からの独立の際に何かと世話になったため、恩義を感じていたといわれています。秀吉への取り成し役が三成だったようです。そのため、源吾を津軽へ匿ったのだと。
石田隼人正源吾の津軽行きとご先祖様。う~ん、何か歴史のロマンを感じさせる話です。

嘘かまことか…。

いや、真実であってほしいです。そうすれば、ご先祖様の面目躍如といったところなんですけどね~。


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