日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】はじめての浅草(3) 隅田公園はまだまだ花盛り

2015-04-20 | 江戸の面影


隅田川の両サイドに広がる隅田公園。
隅田川を挟んで台東区と墨田区にまたがっていたんですね。
さてその墨田区側の隅田公園。
桜の季節は終わってしまって、閑散としてはいたのですが、ソメイヨシノだけが花じゃない!
まだまだ、花盛りだったのでした。




そもそも、(墨田区側の)隅田公園は水戸藩の屋敷だったとか。
新宿御苑もそうだけど、やはりそれなりの規模の公園は、かつての大名屋敷の跡地が多いんでしょうね。


花にはまったく疎い私、名前をプレートで確認しても、みんな同じに見えてしまう。
風流を解さないがゆえ?
いいじゃないの、綺麗だなぁ…って眺めているだけでもさ。


ちなみに、後方にぼんやりと写っているのはスカイツリー。
ここまで来たらスカイツリーも、ほんと、目と鼻の先だ。
でも、どういうわけか、私は東京タワー派(そんな派閥的なものがあるのか定かではないが)。
とくに思い入れがあるわけでもないんだけど。


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【note】はじめての浅草(2) お昼は天ぷらの老舗・三定で

2015-04-19 | 江戸の面影


浅草に行ったら、お昼は天ぷらの老舗・三定で。
これは前から思っていたことで、念願かないました。

「三定の創業は、天保八年(1837年)江戸時代の事でした。以来170年以上に渡り、天ぷら屋として最も古い暖簾を継承しております」(三定ホームページより)

江戸時代の創業。
天ぷら屋として最も古い暖簾。
この謳い文句に魅かれてしまいます。

ではでは、恋い焦がれた天ぷらを食しに、いざ、雷門脇のお店へ。


おおおおおおおおおおおおおおおおおおお!


ここも外国人で埋まっている。
並ぶのはある程度覚悟していたけど、ここまで外国人が「占拠」しているとは。たぶん、旅行業者と提携しているほかに、海外のガイドブックにも載っているのでしょうね。
それでも、15分くらいで席へ案内されました。


【上天丼(三定ホームページ内、メニューより)】

私が食べたのは、上天丼。1820円也。
これが待ちに待った老舗の味。美味しくいただきました。

さて。

いちおう、事前に三定について下調べをしていったのですが、食べログなどのレビューを読むと、けっこう辛辣な評価が目に付いたのです。

天ぷらが油を吸っていて、サクッとしていないとか。
店員さんのサービスが良くないとか。
コスパが悪いとか。


で、実際にお店で食べての感想。

天ぷらの食感については、これは個人の好き嫌いだな、と。
サクッとした天ぷらが今の主流のようですが、私はしっとり派なのでまったく問題なし。カップ蕎麦の天ぷらも、「あとのせサクサク」じゃなくてお湯を注ぐと同時に入れて、3分後、しっとりしたのを味わうのが好きですし。

店員さんのサービスも、これだけ混んでいるなら、ある程度仕方ないかと。大雑把な感じもなきにしもあらず…でしたが、べつにどうのこうの言うほどでもなく、許容範囲。
不満だった人は、天ぷらの老舗というイメージから料亭なみのサービスを期待していたのかな?

コスパについては、そうですね、ちょっと値段設定が高めかと。
でも、ディズニーランドのレストランもそうだけど、こういう観光地や行楽地のお店はある程度仕方ないと割り切るべし。

あえて言わせてもらうなら、店員さんの応対。
私も何度か声をかけても、混んでいてなかなか席に来てもらえなかったのですが(個人的には仕方ないと思っているのですが)、外国人はどう思ったのかな?ツアコンが仕切ってくれる団体様御一行はいいとして、個人グループで来ている観光客も大勢いたので、こういった人たちは、ちょっと不満、というか不安だったのでは。言葉が通じない国でのお店で注文、海外旅行の経験がある人は、よくわかると思います。
これから、ますます増える外国人観光客に対して、このあたりは改善したほうが…と思ったのでした。


…ご馳走さまでした。


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【note】はじめての浅草(1) 浅草寺の人混みにビックリ

2015-04-18 | 江戸の面影

【浅草寺雷門】

私、何を隠そう、20数年東京近郊に住んでいながら、浅草に行ったことがなかったのです。なので今年こそは!と思っていましたが、ついに念願かない、昨日、浅草を初体験してきました。

で、地下鉄銀座線の浅草駅を出てビックリ。
人、人、人、人………。
土日は混むことを見越して、平日にしたのに。
見通しが甘かったのか?
外国人、外国人、外国人、外国人、修学旅行生、外国人……。
そして中国人、多いですね。
ま、日本も積極的に海外からの旅行客を誘致しているわけだし、ある意味功を奏しているわけですが、それにしても…。

平日だよ、平日。

【仲見世】

仲見世も、はい、この通り。
しかも、この混雑の中、通りのど真ん中で結婚式の写真撮影をしていたり。でも、日本人じゃなくてアジア系だった。何か、浅草寺に思い出があるのかな?出会いの場所だったとか。
日本人も外国に出かけて挙式するカップルも多いし、これはお互い様か。

【仲見世~宝蔵門へ】

だからといって急ぐわけでもないし(いや、なんか空模様が怪しかったのでちょっとだけ急いでました)、人の波に乗っかって仲見世から宝蔵門へ。
両側のお店をのぞきながらゆっくり歩くのも、楽しいものです。あ、あの外国人、あれをお土産に買うんだ~とか観察(?)しながら。でも、浅草土産ってなにが有名なのかな?外国人にしてみれば、別に「浅草」らしくなくても「日本」らしければいいのかな。
間違っても、「根性」とか「友情」とか、漢字がプリントされたTシャツなんか買って帰らないでね…と祈るばかりです。

【宝蔵門(山門)】

そうこうしているうちに、宝蔵門。浅草寺の山門です。雷門が山門なのかと思いきや総門なのだとか。

【宝蔵門と五重塔】

宝蔵門と五重塔。
このあたりは戦災にあい、戦後の再建されたものがほとんどらしいです。

【本堂】

本堂に到着。
さすがに大きい。規模がやっぱり違う。
これだけの威容。江戸時代、崇拝が厚かったというのを身をもって感じたのでした。
寺院建築、ヨーロッパで言えば教会建築は、信仰を深める(深めさせる)ための舞台装置みたいなものだったんだろうなぁ…と、あらためて思ったのでした。
現代の私たちでさえ、何か敬虔にも似た気持ちになるのですから、信仰と生活が表裏一体だった昔の人たちにとっては、なおさらだったのでしょうね。


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【note】服部半蔵の墓から壮大な妄想へ

2015-04-12 | 江戸の面影

【西念寺山門】

黒装束に身を包み、闇に紛れて江戸をゆく…伊賀忍者・服部半蔵。
その半蔵の墓があるということで、行ってきました。
東京・新宿の西念寺(浄土宗)。
ここは半蔵が開いた寺なので、そのままそこに葬られたということですね(半蔵が亡くなったときは今とは別の地にありました)。そもそもは、徳川家康の長男・信康の供養のために1594年に建てた庵がはじまりなのだそうです。
西念寺一帯は、江戸時代には伊賀町と呼ばれ、伊賀衆の組屋敷があったのだとか。忍者のにおい濃厚ですね。その辺の路地から見張られていたりして。

【西念寺本堂】

住宅地の中なので、於岩稲荷みたいに狭いのかなと想像していましたが、思っていたよりも広い境内でした。半蔵は信康の菩提を弔うため出家し西念と号しました。西念寺とはこの法号からとったそうです。
寺が江戸城拡張のため、それまであった麹町からこの地に移されたのは1634年。その後、太平洋戦争で戦災にあい、本堂は戦後に再建されたものだそうです。
境内には徳川信康の供養塔があるとのことでしたが、たどり着けませんでした。そうそう、半蔵が使っていた槍も保存されているのだとか。お願いすれば見学させてくれるのかな?

【服部半蔵の墓】

そして目指す半蔵の墓。
山門から本堂を左手に奥へ進んでいくとすぐ。案内板も建てられているのでわかりやすいです。


【服部半蔵肖像画】

さて、服部半蔵と言えば忍者の代名詞みたいな存在。
でも、なんか実際は違ったみたいですね。肖像画だって忍者らしくないし。調べてみると、忍者というよりもれっきとした武将。家康に仕え徳川十六神将のひとりに数えられているほど。
「半蔵」とは、服部家の当主が代々受け継いで名乗った通称のようなもの。普通、私たちが服部半蔵といってイメージしているのは、この家康に仕えた服部半蔵正成のことです(たぶん、みんなそうだと思います)。
彼は伊賀者からなる同心(伊賀同心)の差配を任せられています。江戸の治安を守る警察の長って感じでしょうか?
この半蔵正成、江戸時代に入る前の1596年に亡くなっています。服部半蔵…江戸時代のイメージだけど、やはりそこは史実とは違うんだ。それとも、私は誰かと混同しているのかな?


そして正成亡き後、服部家はどうなったか?

正成の後を継いで半蔵を名乗った長男の正就(まさなり)は、伊賀同心に対しての尊大な振る舞いが彼らの反感を買い、同心支配を罷免されたそうです。伊賀者たちにクーデターを起こされ失脚したと。さらに大坂の陣で行方不明に。

正就が江戸を去った後、あとを継いだのは弟の正重(まさしげ)。
しかし、これまた大久保長安事件に巻き込まれて失脚。各地を転々として、最終的には桑名藩(今の三重県桑名市)の松平家に仕え、子孫は幕末まで代々家老職にあったとか。

兄・正就は伊賀者にそっぽを向かれ、挙句の果てに行方不明。弟・正重はわけのわからない大久保長安事件で失脚し桑名へ。
う~ん…ほんとうに行き方知れずや失脚だったのかな?

さあ、壮大でいい加減な歴史妄想スタートです。

正就は戦死を装って、実は隠密として各地の情報を密かに探る役目を与えられていたりして。お、なんか父半蔵より忍者っぽいぞ。
正重は徳川一門の桑名藩で西国の動きに目を光らせていた。
伊賀者の反逆も偽装。
大久保長安事件での失脚も偽装。
桑名と伊賀は地理的にも近いし…。

なんていうのは、どうでしょう?
服部半蔵隠密大作戦が、勝手に頭の中をグルグルしているのでした。


【半蔵門】

半蔵門。
服部半蔵の屋敷が門前にあったから名付けられたとか。江戸城の城門で個人名が城門についているのは、もちろんこの半蔵門だけです。
日本橋を起点にする甲州街道は、江戸城を半周してこの半蔵門に至り、ここから一路、新宿~八王子~甲府へと向かいます。江戸に危機が迫ったときは、将軍はこの甲州街道を甲府へ向かうことになっていたとか。

【甲州街道】

そして、この街道沿いに伊賀同心の屋敷地があり、半蔵の墓所・西念寺があります。家康の伊賀越えの案内役を務めた伊賀者たちに、いざという時、同じような働きを期待したのでしょうかね。

ニンニン。





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【note】将門の首塚、怨霊の地からパワースポットへ

2015-04-05 | 江戸の面影


東京大手町にある将門の首塚。ついに噂の場所へ行ってきました。

将門の首塚と言えば、言わずと知れた怨霊の地。
平安時代に関東で反乱を起こした平将門が、朝廷側の藤原秀郷に討たれ首は京に晒されました。その首が関東目指して空を飛び、落ちたのがこの場所だとか。
行ってみたら、まさにオフィス街のど真ん中。ある意味、とても異空間的。土曜日だったので比較的人通りも少なかったのですが、見学やお参り(?)に来る人もそれなりにいました。


異空間的ではあったのですが、自分が想像していたのとは若干違った雰囲気でした。
もっと鬱蒼とした木立の中にでもあるかのような、そんなイメージをしていたのですが、小奇麗に整備された場所でした。

現代に伝わる将門の首塚の怨霊話、とくに明治以降のいわく話は一度くらいは耳にしたことがあると思います。
関東大震災で倒壊した大蔵省の庁舎を建て直したら、大蔵大臣はじめ官僚が次々に亡くなった…とか、
GHQが首塚を取り壊しモータープールにしようとしたら、工事中に死者が出た…とか、
周囲のビル工事の際、お参りしなかったら事故が起きた…とか。

でも、それは明治以降の話で、じゃあ、江戸時代以前にはそういった怨霊話はなかったのでしょうか?

ちょっと調べてみました。

鎌倉時代、この付近の民びとが将門の怨霊に悩まされ、荒廃していた首塚をあらためて手厚く供養したとのことです(千代田区観光協会ホームページより)。
ということは、鎌倉時代以前にすでに首塚(あるいはそれに類する供養塔のようなもの)があったということなのでしょうね。
そうか、すでに鎌倉時代には怨霊のパワーを発揮していたんだ…。

将門を祀った神田明神の氏子は、将門討伐を祈願した成田山に詣でてはいけなかったそうです。
また、藤原秀郷の子孫である佐野家では、もちろん神田明神に参詣などできなかったですし、その前を通ることさえ禁じていたようです。さらに神田明神の祭礼の神輿が屋敷前を通るときは、固く門を閉ざして人の出入りを禁じていました(「伝説探訪東京妖怪地図」 田中聡著 祥伝社 1999年)。
江戸市民には直接害をなさなかったものの、大いなる宿怨はずっと続いていたわけですね。


江戸時代になると、この場所は酒井雅楽頭の屋敷となります。
首塚は屋敷の中にあったということになるのでしょうが、どんな状況だったのかな?明治になって大蔵省の庁舎が建てられる前はこんもりとした塚だったそうです。大名屋敷の庭に場違いな塚があったということ?酒井家の人々、それはそれは気を遣ったことでしょう。

【懐寶御江戸繪圖-天保14(1843)年-より】

【東京大繪圖-明治4(1871)年-より】

明治4年の地図によると、この地の所有者は酒井家から長州藩に替わっています。天皇を推したてて幕府を倒した長州が、逆賊とされた将門の首塚の地を得ているのは、なんの因果でしょうか?

かつては「怨霊」と呼ばれた将門の首塚が、今ではパワースポットと呼び方も変わってきています。怨霊というと負のイメージですが、パワースポットと言い換えると、なにかポジティブな感覚に聞こえます。と、同時に怨霊をまるで愛玩動物でもかわいがるような、キャラクター化して遊んでいるような気もするのですが、どうでしょう?
今はおとなしくしている将門の首塚が、ある日突然、パワースポットから怨霊の地に逆戻りする日がくるのでしょうか。

そんなことがないことを祈りつつ、
そう言えば、道路を挟んだ向かいのビルが工事真っ最中だったけど、ちゃんと首塚にお参りしたのかな?なんて気になった私でした。





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