歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈





5月28日のNHK「ブラタモリ#204」は八王子の紹介でした。
その中で、八王子の「はじまりの町」(=江戸時代の八王子宿)をつくった大久保長安が、しっかりとアピールされていました。
よしよし。
何もないところからのスタート。軍事と商業、両方を見据えての町づくりの構想。そして弱点である浅川の氾濫対策。

予想していた通り、タモリさん、大久保長安をご存じなかったです。長安は戦場を駈け廻るような派手な武将ではないので、そこそこの歴史好きではない限り、まぁ、そんなもんでしょう。
しかし、今回の「ブラタモリ」は千載一遇の好機!ぜひとも、大きく全国区へ羽搏いてほしいものです。



浅川も話題に出ていましたので、散歩がてらに行ってきました。そうか、もう紫陽花の季節ですね。
テレワーク中心で外出が極端に減っているので、こういった季節の移り変わりにも疎くなっている今日この頃です。



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「八王子〜八王子はなぜデカい?〜」 - ブラタモリ

「八王子〜八王子はなぜデカい?〜」 - ブラタモリ

人口58万・山手線もすっぽり入る大きさを誇る八王子市。大正6年の誕生時は小さかった八王子がどう大きくなったのか?その秘密をタモリさんがブラブラ歩いて解き明かす!...

「八王子〜八王子はなぜデカい?〜」

 

【番組HPより】
人口58万・山手線もすっぽり入る大きさを誇る八王子市。大正6年の誕生時は小さかった八王子がどう大きくなったのか?その秘密をタモリさんがブラブラ歩いて解き明かす!

「ブラタモリ#204」で訪れたのは東京都・八王子市。旅のお題「八王子はなぜデカい?」を探る
▽八王子は家康がつくった宿場町・軍事拠点だった!?
▽八王子の原点「はじまりの町」をつくった大久保長安とは!?そのスゴい町づくりを探る!
▽浅川のはん濫をどう防ぐ!?信玄ゆずりの長安の治水対策を見る
▽消防車メーカーの工場へ!居抜きでつくられた工場の秘密とは!?
▽最後に合併した村はなぜ住宅街や学園都市に開発できた?

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NHKの「ブラタモリ」、5月28日は八王子の特集です。
そして、我らが大久保長安が参陣する模様。
今から楽しみです!



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大久保長安の聖地巡礼at八王子、第3回目は八王子市街から北東方面、浅川を渡って大和田地区に残る庚申塔です。東光寺の塀沿いに古い石の塔が3体並んでいます。JR八王子駅から徒歩だと30分程度。バスなら10分弱、大和田坂下のバス停で下車。
「大久保長安に迫る」(揺籃社・2013年)の記述には、長安が甲州街道の大和田坂から高幡不動尊に向かう分かれ道に建立したと云われている、とあります。出典がわからないので、そういう伝承が残っている程度にとらえておくといったところでしょうか。道路や住宅地の整備により、元の場所から今の位置に移されたと思われます。

大和田は現在は八王子市ですが、江戸時代、この辺りは上大和田村(その南側に下大和田村)。江戸方面から歩いてくると八王子宿に入る直前の集落です。
東光寺は「新編武蔵風土記稿」など、江戸時代の地誌や紀行文に短いですがその名が記されています。

【大和田の庚申塔】


3つのうち、真ん中にあるのが庚申塔。青面金剛(しょうめんこんごう)と、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が彫られています。802ちず楽会様のサイトによると、この庚申塔は「甲州街道の大和田坂の坂上から稲城へ向かう道の分岐点にあったものだという」とのことです。

【三界萬霊塔】


左側の石碑は「三界萬霊(さんがいばんれい)塔」と刻まれています。三界とは仏教で無色界・色界・欲界を指し、そこに棲むすべての霊を供養するための塔とのこと。寺院にはよくあるそうですが、今までは意識していなかったので、スルーして気付いていませんでした。
台座には玉川連と彫られています。側面には年月が刻まれているようですが、摩耗していることもあり、素人の私には読み取れませんでした。

【高幡不動道標】


右側の石碑は「高幡山不」とあります。802ちず楽会様のサイトによると、「元は甲州街道の南側、八王子往還の日野市の高幡不動へ通じる道の分岐点にあったという」とのこと。文字が「不」で終わっているのは、下部が破損してしまったということでしょうか。


調べた範囲では、長安との直接の関連を示すような資料などは見当たりませんでした。彼は八王子の町づくりを差配し、また全国的な街道整備にも中心的な役割を果たしたことから、長安に絡めた伝承となったということかな、と思います。


今回、記事を参照・引用させていただいた、802ちず楽会様のサイトはこちらです↓

802ちず楽会 様






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大久保長安聖地巡礼の旅in八王子、2回目は浅間神社・富士塚です。
八王子市街から西方の台地上に、市民の憩いの場として親しまれている富士森公園があります。四季折々の自然に触れられ、また野球場などのスポーツ施設もあり、休日になると、散策する親子連れや、スポーツを楽しむ人たちで、けっこう賑わっています。夏には花火大会の会場にもなります。
その富士森公園の一角にある、浅間神社と富士塚を目指します。

富士塚とは、江戸時代に富士山信仰に基づき、富士山に見立てて造られた小さな山や塚のことです。関東各地に、今でも残っているものが多くあるようです。

【浅間神社・拝殿】


拝殿横にある案内板によると、浅間神社は木花咲耶姫を祭神とし、富士浅間様とも呼ばれ、駿河国の本宮浅間神社を分社したものだそうです。
そして、長安の登場です。案内板は以下のように続きます。
「慶長年間、大久保石見守長安が高さ約2丈(約6m)、周囲60間(約109m)余りの塚を築き、頂上に浅間神社を勧請したのが当社の起源」
とのこと。
江戸時代初期、長安は八王子の町づくりと同じ時期に、浅間神社を建てたということですね。
なお、現在の拝殿は昭和28(1953)年に大正殿(大正天皇のご大葬の時多摩御陵に造られた式典用の建物)を移築し建て直したものだそうです(案内板より)。

【浅間神社・富士塚】


拝殿の後ろ、富士塚とその上に鎮座する本殿です。
「新編武蔵風土記稿」には、
「杉、樫、その他の雑木陰森として…その林中に高さ2丈ばかり、周廻60間あまりの塚あり。頂上の平垣4間半ばかり、是に浅間の社あり。往昔、大久保石見守が勧請せしと云う」と記述されています。
「武蔵名勝図会」では、ほぼ同様の記述の後、
「小高き丘地の上に高さ2丈の塚を築きたれば、富嶽を望む勝地なるが、近来は塚の四辺の杉その外雑木成木せしゆえ、いまは土人富士森と唱う」
とあります。
この地誌が書かれた江戸後期、すでに社殿はなく、小さな石の祠となっていたようです。「武蔵名勝図会」によると、社殿は人家から離れていて、悪党の住まいとなったため取り壊して石の祠にした、と。
それでも土地の人たちによって、その信仰は守られ続けていったということですね。

【富士塚頂上】


石段をのぼった富士塚の頂上には、本殿と「八王子富士」があります。本物の富士山は木々に覆われ望むことはできませんが、長安が建立した当時は、素晴らしい眺望がひろがっていたのでしょうね。


境内の案内板には、昔からこの地は藤森、藤塚と呼ばれていたが、長安が浅間神社を勧請後、富士森、富士塚と書くようになったとあります。
地名が先か、勧請が先か?
個人的には浅間神社ができたからこそ、富士森、富士塚という地名がおこったのかなと、何の証拠もなく、ただ漠然と思ってみましたが、さて、どうなのでしょうか?

それと…
Wikipediaによると、安永9(1780)年に江戸の高田水稲荷に造られたものが最古の富士塚とされている、とのこと。
え?長安の富士塚の方がずっと古いでしょ?
それとも、ここでも長安の事績は抹殺されているのか?
恐るべし、江戸幕府。
…なんて、ほんのちょっとだけ、陰謀説を疑ってみたりする私でした。



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八王子市夢美術館で開催中の「最後の浮世絵師 月岡芳年展」を観てきました。

月岡芳年って誰?
リーフレットの解説によると、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。歌川国芳に弟子入りし15歳でデビュー。無惨絵、武者絵、錦絵新聞の挿絵、美人画などを手掛けました。浮世絵というと江戸時代のイメージが強いのですが、彼はどちらかというと明治に入ってからの活躍が多い感じです。今回展示されていた150作品も、ほとんどが明治時代のもの。まさに「最後の浮世絵師」といったところですね。

では、展示されていた作品を、いくつか紹介します。
※下の画像はショップで購入した絵葉書です。美術館内での作品の撮影は禁止なのでご注意を!


【新形三十六怪撰 さぎむすめ】


「新形三十六怪撰」は妖怪画の連作。「皿やしき お菊の霊」「ほたむとうろう(牡丹灯籠)」「四ツ谷怪談」などの怪談話、鬼や土蜘蛛など伝説でお馴染みのものが中心です。
「さぎむすめ」は明治22(1889)年の作品で、文字通り鷺が娘に変じたというもの。鷺の白さを際立たせるため、帯は黒色としたそうです。


【風俗三十二相 うるささう 寛政年間処女之風俗】


「風俗三十二相」は、江戸後期から明治にかけての女性をテーマにした美人画の連作。「にくらしさう」「うれしさう」など、各々、「~さう(そう)」とタイトルが付されています。
「うるささう」は明治21(1888)年の作品。若い女性が猫をかわいがっているのですが、猫からしてみると、とても「うるささう」。今だったらタイトルは「うざさう」でしょうか…。


【月百姿 玉兎 孫悟空】


「月百姿」は月をテーマにした連作(全100点)。基本的に作品のどこかに月が描かれていますが、あえて月を描かず、影や人物の仕草などから月を連想させるものもあるようです。
明治22(1889)年の「玉兎 孫悟空」は、月に住むという伝説の兎・玉兎と孫悟空の対決を描いたもの。孫悟空の、歌舞伎で見得を切るような姿が凛々しい。この愛らしい兎は、なぜ孫悟空を怒らせたのでしょうか?


ところでちょっと気になったのですが、浮世絵と錦絵の違いって何だろう?
帰宅してから調べてみましたが、いくつかある浮世絵の手法の中で、多色刷りの木版画のものを錦絵と呼ぶとのこと。江戸時代後期以降は、ほとんどが錦絵の手法となるそうです。
なるほど。
私は単純に、明治時代以降のものが錦絵なのかな?と思っていました…。


150点を鑑賞するとそれなりに時間を要しますが、コロナ以降、久々の美術館だったのでじっくり見入ってしまいました。
そんなに混んではいませんでしたが、ソーシャルディスタンス(最近、表立ってあまり聞かなくなりましたね)に注意しながら堪能してきた、「最後の浮世絵」の数々でした。



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