歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈





1999年に結成された、Tobias Sammet率いるドイツのメタル・オペラ・プロジェクト(色んなミュージシャンたちとコラボしながら、コンセプトアルバムを発表しています)の最新作。
少しダークで、それでいてファンタジックな動画と相俟って、引き込まれてしまいます。
曲調は王道まっしぐらという感じで、とても聴きやすい楽曲だと思います。



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「町歩きと語りで学ぶ大久保長安」、昼食をはさんで午後の部は「語り」です。会場は、まちなか休憩所八王子宿。

高尾山とんとんむかし語り部の会のメンバーによる、八王子宿を題材にした昔話。
演目は
■長安さまの町づくり
■とっくり亀屋
■とんがらし地蔵
■子喰い閻魔

「長安さまの町づくりは」は、八王子の成り立ち・大久保長安による町づくりを昔話風に語ったもの。「とんがらし地蔵」は、禅東院のとうがらし地蔵の伝承です。このふたつは、午前中に町歩きして見聞きしたばかりなので、頭に情景がすっと入ってきます。
「とっくり亀屋」は、八日市宿にあった旅籠についての伝承。噂によると、マンガ日本昔話でも題材になったとか。
「子喰い閻魔」は新町の一里塚付近にあったお堂に安置されていた閻魔様のお話。この閻魔様(なのか、新しく作られたのか…)、現在は新町会館に安置されているようです。実は、数年前から興味があるのですが、今のところご縁がなく…。
ところで、八王子は浅川の付近に閻魔様が安置されているところが他にもあるとこと(私はどこにあるか知らないのですが…)。町歩きの際に鈴木さんが「川を渡れば閻魔様」と仰っていたのも印象に残っています。


語り部の皆さんによる昔話の後、午前中の町歩きでの質疑応答の時間。私も以下、3点ほど質問しました。


【Q1】浅川の渡しの場所


江戸方面からやって来て、八王子宿に入る際の浅川の渡し(渡河点)は、どこだったのか?

【A】当時、橋は架かっておらず、旅人が歩いて渡ったり、無理な時は川越人足に渡してもらったり、水の少ない時期には仮設の板橋が設けられたとのこと。場所も、ここ!と決まっておらず、現在の大和田橋近辺の渡れそうな場所を選んで、ということだったそうです。


【Q2】成敗場(処刑場)の場所について


現在の大和田橋付近(八王子宿の江戸側入口付近)には、俗にいう江戸の三大処刑場のひとつ、大和田の処刑場があったと伝わるが、場所は特定できるか?

【A】処刑場は2か所あったのではないか?と推測している。浅川の河川敷と竹の鼻(八王子宿の入り口・新町)。


【Q3】御所水弁財天の水路について


御所水弁財天の川の水が、江戸時代には大久保長安の小門陣屋までめぐっていたと想定されるとのことだが、現在、その流れは確認できるのか?

【A】現在、御所水弁財天へ向かう参道は暗渠に蓋をしたかたちになっている。この暗渠が流れの跡(↓の写真参照)。かつては真ん中に水の流れがあり、その両側に社殿へ続く参道があったと思われるとのことでした。



もっといろいろと質問したかったのですが、時間に制限もあり残念。鈴木さん、たいへん丁寧にお答えいただき、ありがとうございました(面白みのない質問で申し訳ありませんでした…)。


その他にも、何人もの質問に答えていただきました。興味深い話が次々と。
長安と西洋の技術(キリスト教)とのつながり、石見土手のこと、江戸時代の浅川堤防の跡と思われる遺構のこと…などなど。
う~ん、時間が足りないなぁ。できれば、午前中に実地見学、午後は座学で詳細を。次回に期待します!

ん?次回?
そう、次回は浅川の治水をテーマに実施しましょうかね…なんて話が出ていました。
おお!絶対に参加したい!!

そんなわけで、たいへん有意義なイベントを企画していただいた「大久保長安研究会」「高尾山とんとんむかし語り部の会」「株式会社清水工房(揺籃社)」の方々に感謝いたします。



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2022年7月3日、大久保長安研究会主催のイベントに参加しました。町歩きしながら、八王子の成り立ちについて学ぼうというこの企画、講師はブラタモリで大久保長安を熱く語った鈴木泰さん(大久保長安研究会代表)。

朝10時にJR八王子駅に集合。
午前と午後の2部構成です。
午前は実際に町歩きしながら、八王子と大久保長安の関係などを学びます。
午後は「高尾山とんとんむかし語り部の会」の皆さんによる、八王子宿にまつわる昔話のおはなし会と、実際に町を歩いてみての、鈴木さんへの質疑応答。

まずは午前の部です。それでは、いざ!


【1】市守神社


最初に向かったのは、JR八王子駅北口から徒歩10分程度の市守神社。八王子宿の商売繁盛を願って1590(天正18)年に創建された、八王子宿の歩みを見守り続けて来た神社です。
表通りには店を、寺社は裏通りにという八王子宿の町割りの中、甲州街道に面している唯一の寺社ということです。
講師の鈴木さんは「八王子は宿場町というより市場町」と仰っていましたが、この市守神社、まさに面目躍如といったところでしょうか。
ここから西に向かって18町(約2キロ)、甲州街道は真っすぐにのびています。

【2】一里塚跡


八王子宿の東(江戸側)の入口近辺にあった一里塚。街道筋に一里(約4キロ)ごとに塚が造られ、榎をなどを植えて旅人の目印にしました。ここの一里塚は1897(明治30)年の八王子の大火災まで存在していたそうですが、現在は公園となっています。

【3】大義寺


創建は八王子宿が開かれる以前の室町時代。
八王子宿以前、この辺りは原野だったというのは間違えで、こういった寺院とその周辺に集落は存在していただろうと鈴木さん。
大義寺には江戸時代の女流俳人・榎本星布の墓があります。岩波新書の「女性俳人の世界」で、江戸時代最高の女性俳人と評されているとのことです。へぇ~、知らなかった…。
なお、この大義寺の西側の道が、八王子ではいちばん古い川越街道(古川越道)だそうです。

【4】八幡八雲神社


もともとこの地にあった八幡神社に、八王子城の牛頭八王子権現のご神体を相殿として祀ったのが八幡八雲神社。
八王子城の落城時に難を逃れたご神体は、1598(慶長3)年の洪水で浅川へ流出、それを発見した百姓が八幡神社の境内に持ち込んで…と言い伝えられています。
境内には、平安時代にこの近辺に勢力を誇った横山氏の本拠地跡を示す案内もあります。今、横山神社となっていますが、鈴木さん曰く、横山氏の本拠地はもっと南の丘陵地帯で、ここは横山氏滅亡後、鎮魂のために社が建てられたのではないか、と仰っていました。
※写真は以前のもの(2016年正月)です。鈴木さんの話に聞き入ってしまい写真を撮り忘れました…。

【5】八日町交差点


横山宿と八日市宿の境界に位置する八日町の交差点は、かつては札の辻と呼ばれ、高札場がありました。幕府のお触れなどが掲示された場所です。

【6】八日市宿碑


かつての宿場をしのぶ痕跡が少ない中、近年の建立とはいえ八日市宿を示す碑があります。この辺りがちょうど八日市宿の中央地点でしょうか。

【7】禅東院(とうがらし地蔵)


創建は室町時代と伝わる禅東院。江戸時代、この近辺で栽培されていた唐辛子を新宿で売ったところ、大評判になったそうです。それ以来、何かにつけお地蔵さん(写真の左側)に唐辛子をお供えするようになったとのこと。
とうがらし祭りが10月に行われています。

【8】八幡町交差点付近(八日市宿の西端辺り)


この辺り、市が立つ日には大いに賑わったそうです。八王子宿では月に6回、市が立ちました(六斎市)。八日市宿は、その名のとおり「8」のつく日(8日、18日、28日)に、東側の横山宿では4日、14日、24日に、それぞれ市が開かれました。
八日市宿の東端・八日町交差点(札の辻)を南へ行けば、小田原、横浜方面へと繋がり、西端の八幡町交差点を北へ向かうと川越方面と続きます。この間の甲州街道沿いに人を誘い込むような町づくりは、ブラタモリでも鈴木さんが大いに語っていたところです。

【9】傳法院


成田山の分院。もともとは八王子の西方、島の坊宿にありましたが、幕末に現在の地へと移りました。
ここで有名なのは石塀。伊豆の青石と呼ばれる凝灰岩で作られ、寄進者の商店や旅館名が刻まれています。ところどころボロボロに崩れているのは、1945(昭和20)年の空襲の際の火災によるものだそうです。


ということで、ここまでが午前の部、町歩きでした。
昼食後、午後の部となりますが、それはまたあらためて。

【参考資料】
当日配布された「新町一里塚から横山・八日宿を歩く」(大久保長安研究会編)


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