日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】忘れ去られた故郷の英雄・赤松小三郎

2017-04-29 | 日日の幻燈



■「赤松小三郎ともう一つの明治維新」
■関良基 著
■作品社 2016年

故郷・長野県上田市の知る人ぞ知る偉人、赤松小三郎。彼についての伝記を見かけて、これは買わねば…と思っていましたが、ようやくにして購入できました。
赤松小三郎、名前くらいはもちろん知っていました。が、自分の認識では幕末の洋学者で兵学者。京都で暗殺された人物。そんな程度。
上田に住んでいたころ、上田城址の市立博物館に行くと、ほとんど誰の目にもつかない2階の片隅のケースの中に、彼の遺品だか手紙だかが、こじんまりと展示されていたのを記憶しています。


彼の来歴を記すと、ざっと次の通り

1831(天保2)年
 信濃上田藩の下級武士・芦田家に誕生

1848(嘉永元)年
 江戸へ遊学

1854(嘉永7)年
 上田藩士の赤松家へ養子に入る
 この頃、勝海舟に入門

1864(元治元)年
 英国人アプリンに入門、英語を勉学

1865(慶応元)年
 「英国歩兵練法」を翻訳(共訳)

1866(慶応2)年
 幕府へ建白書を提出
 薩摩藩の要請で京都で英国兵学を教授

1867(慶応3)年
 会津藩洋学校の顧問に就任
 幕府、越前松平春嶽、薩摩島津久光に「口上書」を提出
 京都で暗殺される


さて、本書で著者が力説している、1867(慶応3)年に幕府、松平春嶽、島津久光に提出した「口述書」。要約すると、

今後は朝廷と幕府・諸藩が合一した政治体制を採用する。

公家、諸侯、旗本のうちから選挙で選ばれた30名からなる上局と、一般庶民の誰もが立候補でき、その中から選挙によって選出された代表者たちの下局からなる二院制の議政局を設置する。この議政局が国家の最高権力機関であり、天皇の権限をも上回ること。

教育は必須であり、各地に大学を設けて人材を育成すること。

国民は皆、平等であり、職業の選択の自由を有すこと。

農民だけではなく、それぞれが応分の納税義務を負うこと。

軍隊については、最初は諸藩士を中心に必要最小限の人数を置き、おいおい、国民皆兵(徴兵制ではなく、誰もが国防の義務を持つ)の方向へと進む


著者は、これぞ日本初の議会制民主主義を掲げたものであり、普通選挙、人民平等を盛り込んだ、現代日本の憲法の先駆けである!
そしてさらに、坂本龍馬が提唱したとされる船中八策は、赤松小三郎の口述書を基にした後年の創作ではないのか?と推理しています(「船中八策」の真贋についてはいろいろ言われているようですね)。
しかし、この建白によって武力倒幕に傾きかけていた薩摩藩の重鎮たちに邪魔者扱いにされ、ついには暗殺されるに至る…。
この辺り、事細かに小三郎の事績を追いかけていくにつれて(著者の推理も含めて)、思わず時間を忘れて、のめり込んでしまいました。


やるじゃん、赤松小三郎。


ただ、残念なことに…


この本、政治臭がプンプンしすぎるのです(著者の前書きの段階で、すでにちょっとイヤな感じがしたのですが)。


明治維新時にそれなりの働きをしながら、その後脚光を浴びることがなかったこの手の人物を取り上げるときにありがちな、薩摩、長州が政権を握らず、彼(この場合は小三郎)が政治の舵取りをしたら、その後の日本は戦争に突き進むことなく、もっとまともな国家になっていたはずだ…から始まって、今の与党、というか長州の流れをくむ政治家への反発をむき出しにしています。


とくにヤリ玉に挙げられているのが、現首相とその政策(中でも改憲について)。


結局そういうことか…と。

赤松小三郎、現代の政治批判のダシに使われただけなのか?


本の後半は小三郎のことより、現在の政治情勢についての著者の恨みつらみにも似た思いが滔々と綴られています。
著者がどんな政治信条を持とうが、それはもちろん自由ですが、予期せぬところでいきなり語られだすと、興ざめしてしまうのです。この前読んだ小説(昭和初期の時代設定)も、いきなり後書きで、著者が政治信条を語りだして、一気に続編を読む気が失せたっていうのもありました。

純粋に小三郎の人物について知りたかっただけなのになぁ。

「私は郷土の英雄・赤松小三郎が好きだ!だから彼を抹殺した長州や薩摩の元勲たち、西●や大●保や木●や品●は大嫌いだ!」
と、大声で叫んだほうが、とってもすっきりするのに。期待して読み始めただけに、なんとなく後味の悪い終わり方だったのでした。

ま、それはそれとして、忘れていた故郷の英雄・赤松小三郎のことを思い出させてくれたことは事実。今度、上田に帰ったら、小三郎の足跡をたどってみようと思い、本を閉じたのでした。


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【note】甲州街道・与瀬宿から吉野宿まで歩いてみた(3)-吉野宿へ到着-

2017-04-22 | 旧甲州街道を往く

【子の入】


かつての間の宿・橋沢で休息することもなく、しばらく歩くとまたまた道はU字にターンします。その地点に「子の入」の標識。「ねのいり」と読むのでしょうか?

【子の入付近の甲州街道】


子の入でターンすると、道は下りながら相模湖方面へと向かいます。

【天奈橋から中央道を見下ろす】


中央道の横断橋・天奈橋。写真は橋の手前での1枚です。

【赤坂の標柱】


天奈橋を渡って中央道を越え、赤坂の標柱。
この標柱付近で道は観福寺を真ん中にして、左右へY字型に分岐します。本来は右手へと小道を進むのが正解でしたが、我々は気づかずにそのまま左側、舗装道路を歩いてしまいました。普段なら気づいていたかもしれないルートミス。下調べの重要さをあらためて思い知らされたのでした。

【桜野の標柱】


そんなわけで、本来の道筋から外れてしまったわけですが、観福寺を回り込むようにして、結果的にすぐ旧道と合流します。その合流地点に建っているのがこの桜野の標識。

【矢部の標柱】


桜野の標識からすぐのところに矢部の標識が建っています。「新編相模国風土記稿」の吉野宿の項に、小字(こあざ)として矢部の地名が挙げられています。


【矢部の標柱付近の甲州街道】


矢部の標柱が建っている場所から、右折して石段を下っていきます。

【椚戸の標柱】


「くぐど」と読むようです。「新編相模国風土記稿」吉野宿の項に小字「椚々戸、久具土」と記録されています。ガイドブックによると、ここら辺りが吉野宿の江戸側のはずれとなるようです。

【石塔群】


右端が蚕影山(こかげさん)の碑、ひとつおいて二十三夜塔、その他。
蚕影山とは、養蚕の神さまを祀る信仰で、茨城県つくば市にある蚕影神社が総本社とのこと。吉野宿近郊も織物が盛んだった地域だったそうです。

さて吉野宿です。
「甲州道中宿村大概帳」によると

本陣…1軒
脇本陣…1軒
問屋場…1ヶ所
旅籠…3軒
宿場内の家数…104軒
宿場内の人口…527人

とのこと。
街道に沿って流れる相模川はこの辺りでは桂川と呼ばれるため、桂の里とも。なんとも風流な言い回しです。相州四ヶ宿のうち、東隣の与瀬宿へは1里、西隣の関野宿へは26町(2.9キロ)。

【高札場】


椚戸から道は下り坂となります。その坂道が国道20号線に合流する場所に、高札場跡の標柱が建っています。

【お地蔵様】


高札場の後には6体のお地蔵様。もともとここに建っていたものなのか、後から移されたものなのか、その由来などはとくに案内されていません。

【高札場付近の甲州街道】


高札場で道は国道20号に合流し右折、西へと向かいます。「新編相模国風土記稿」の吉野宿の頁に「一条の大道東西にわたり」と記されていますが、ここから先のことを言うのでしょう。

【国道20号線に合流】


いよいよ吉野宿のメインストリートへと入ります。

【吉野宿本陣】


吉野十郎右衛門が本陣を勤めました。吉野家は鎌倉時代に奈良の吉野から移り住んだとのこと。吉野宿の地名の起こりは遠く奈良県なわけですか。
現在、本陣跡には「聖蹟」の碑が建っています。明治天皇が明治13(1880)年に行幸された際の行在所でした。

【当時の吉野宿本陣(現地の案内板より)】


天皇の行在所にもなるほどの吉野宿本陣、何と五層の楼閣(明治初期の建築)だったそうです。失礼ながら小さな吉野宿には似合わぬ威容ぶりです。写真はその頃の様子。残念ながら、明治29(1896)年の大火で焼失してしまいました。
それにしても、私たちが思い描く江戸時代の本陣とは、まったくイメージが違いますね。

【吉野宿本陣・土蔵】


本陣跡には土蔵が残っています。明治の大火を生き残った唯一の建物だとか。建築年代は江戸時代にまでさかのぼる可能性があるそうです。


【旅籠藤屋跡(吉野宿ふじや)1】


街道をはさんで本陣の向かい側にある江戸時代の旅籠「藤屋」は、明治29年の大火で焼失、翌年、再建されました。再建後は養蚕農家として利用されたようです。現在は「吉野宿ふじや」としてこの地域で出土した遺物、民具などを展示する郷土資料館的な施設となっています。
建物は相模原市の登録文化財に指定されています。

【旅籠藤屋跡(吉野宿ふじや)2】


入館料は無料、開館時間は10時から16時。月曜日が基本的に休館日のようですが、平日は閉館していることもあるとの情報も。ここを目当てに行くなら、事前に確認した方がよさそうです。
じっくり見たかったのですが、先を急ぐため、ちょっとだけ覗いて失礼しました。吉野宿のジオラマや本陣五層建築の模型はなかなか迫力ありました。

【吉野バス停】


吉野のバス停を通過。
見よ、この空模様!我々が急ぐ理由がおわかりになるでしょう。

【庚申塔】


街道沿いの石碑。ガイドブックによると庚申塔とのことですが、表面が摩耗していて何が書いてあるか読み取れませんでした。

【小猿橋跡】


江戸時代に沢井川に架けられた欄干付の板橋の跡。長さ14間(約25.5m)、幅2間(約3.6m)、川からの高さは5丈8尺(約17.5m)だったそうです。名前の由来は大月の猿橋に似ていたからとのこと。

【小猿橋(新編相模国風土記稿より)】


案内板によると、元禄11(1698)年の橋の架け替え工事は幕府によって行われ、400両(約4800万円、1両=12万円で計算)かかったそうです。
欄干付とはいえ、渡るにはちょっとドキドキしそうな橋です。

【百万遍と二十三夜塔】


小猿橋の案内板とともに百万遍と二十三夜塔が建っています。「百万遍」は念仏を100万回唱えると願いが成就されるとされ、その記念の碑ということのようです。

【吉野橋】


現在は昭和8(1933)年に完成した吉野橋で沢井川を渡ります。

【中華福龍で昼食】


相模湖駅を出発したのが11時。お昼を食べるお店を探しながら歩いてきましたが、ようやくたどり着きました。中華料理店です。
時刻も1時半をまわり、さすがに空腹に耐えかねた我々、冷たい生ビールと中華でお腹を満たしました。餃子も美味しい、焼きそばも美味しい…。

久しぶりの旅に疲れが出てきたころにビールとくれば、もう何となくこの辺までで今日はいいんじゃない?的な雰囲気が流れ出します。とりあえず、最寄りのJR藤野駅までは歩かねばなりません。それでは、いざ…と店を出たら、何と大粒の雨がパラパラと。これを恐れて先を急いでいた我々ですが、ビールでいい気分になっているうちに、ついに雨雲に捕まってしまいました。

傘、雨具…誰も持っていない。
東京では昼には雨は降らないとの天気予報。でもここは神奈川県。

そんなとき救いの手が!
お店の方が車で駅まで送ってくれるというのです。なんて親切な!

江戸時代なら、駕籠に揺られて楽ちん旅といったところでしょうか。車の中でのお話によると、甲州街道を歩いて立ち寄る人も結構いるとか。ほんと、お世話になりました。

【JR藤野駅】


JR藤野駅、時刻は2時半。
この日、我々の歩く旅にはここで終了。歩く旅史上、最短距離、最短時間となりました。ま、久しぶりだったし、みんな日ごろの疲れも溜まっていたので無理せずに…と、それぞれが自己弁護しつつ、反省会開催のため八王子に向かうのでした。
そして、疲れが溜まっているとか言いながら、反省会は延々夜遅くまで盛り上がってしまうことだけは、いつもと変わらないのでした。


さらに、夜遅くに帰宅した直後、39度の発熱が襲いかかることなんて、もちろん夢にも思っていない午後2時半、藤野駅で最後の写真を撮り終えた私なのでした。


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【note】甲州街道・与瀬宿から吉野宿まで歩いてみた(2)-古道復活路を進め-

2017-04-19 | 旧甲州街道を往く

【与瀬神社付近の甲州街道】


旧街道は与瀬神社の前で国道20号線と分岐して、集落の間をぬう長閑な道となります。やはり騒がしい国道を歩くよりは、こちらのほうが風情があっていいものです。

【再び国道と合流】


このまま長閑な雰囲気で進むのか、と思うとそうでもなく、再び国道と合流します。上の高架は中央道、左下には線路(JR中央本線)。旧街道、国道、中央道、中央本線が交差するこの地点、昔だったら交通の要衝とでも記されたのでしょうね。

【いざ、古道復活路へ】


合流してすぐに、国道は大きくU字型に曲がります。ここにラーメン店があるのですが、その手前で山道のような(林道かな?)細い道へと進みます。ここが数年前に歩けるように整備された「古道復活路」への入口。以前は、そのまま国道に沿って歩くしかなかったようです。それにしても、「クマ出没注意」とは…。

【古道復活路1】


まさに山道。すでに埋もれていた道なき道を探し出して整備したのでしょうか。小仏峠を彷彿とさせます。ガイドブックには「砂利道」「足元が悪いので注意」と記されています。そんな山道を沢に向かって下っていきます。

【貝沢橋】


小さな川に架けられた貝沢橋。古道の復活時に作られたのだと思いますが、けっこうグラグラしています。飛んだり跳ねたりすると崩落の恐れがあるので、はしゃがずに静々と渡りましょう。ま、川に落ちたとしても水面まで20センチ程度なので怪我はしないと思いますが、濡れた靴で歩くのはこの先ちょっと辛いかと…。

【古道復活路2】


橋を渡ると今度は上り坂。渡河した直後がいちばんの悪路。木や蔦を掴んで急勾配をよじ登るような感じです。確かにガイドブックの言うとおり「足元が悪いので注意」が必要です。せっかく無事に渡った川に転がり落ちませんように…。
写真はそんな急勾配が落ち着いてからの古道。

【与瀬の一里塚】


沢から山道を登っていくと、突然開けた草地に出ます。ここに一里塚の標柱が建っています。日本橋から16番目。ガイドブックによると、片塚でモチノキが植えられていたようです。一里塚というと榎が定番のような気がしますが、場所により様々なのですね。ここも残念ながら当時の痕跡は残っていません。

【与瀬一里塚付近の甲州街道】


右側が山、左側が相模湖方面。山の中腹に沿うように道は伸びていきます。

【甲州街道から相模湖を望む】


相模ダムの建設に伴い、相模湖が出来たのは昭和22(1947)年。ここは人造湖だったのですね。それ以前は相模川の渓流が流れ、その流れに沿うように相州四ヶ宿の宿場が並んでいました。広重の味覚には合わなかった与瀬宿の名産・鮎も、相模川で釣ったのでしょうね。湖底には与瀬の集落の一部が沈んでいるそうです。
なので江戸時代の旅人の目には、今と全く別の風景が見えていたことになります。

【横道】


しばらく進むと山道は終わり、住宅地の間を抜けるようになります。横道の標識が出ているこの辺り、江戸時代の地誌「新編相模国風土記稿」の与瀬村の項に「横道組」と記されているので、昔から続く集落なのでしょう。

【古仏石碑群1】


道端に並んだ古い石仏・石碑。右からお地蔵様、供養塔、不明、庚申塚、二十三夜塔。

【秋葉神社】


古仏・石碑群の後ろ(山側)には火伏せの神様・秋葉神社の鳥居と常夜燈が見ます。現地では気づきませんでしたが、あとで写真をよく見ると鳥居は竹で作られているようです。社殿は街道からは見えません。奥に進んでいけば社殿があるのか定かではないまま、道端から手を合わせて先へ進みます。

【秋葉神社前の甲州街道】


秋葉神社前の旧街道。春の暖かな陽射しのもと、またまた長閑な雰囲気です。

【古仏石碑群2】


しばらく進むと橋を渡ってU字に道は曲がります。そこにたたずむ古仏と石碑群。真ん中に見えるのが二十三夜塔。あとは、ちょっとわかりません。こういう古い石碑を見て即座にこれが何なのかがわかると、街道歩きももっと楽しいだろうに…と、いつも思うのです。

【集落の間を往く甲州街道】


僅かながらですが、道は上り坂になっていきます。相模湖駅の観光案内所で入手した「甲州古道案内図」(無料)には勾配図なるものが載っていて、それによると相模湖駅前交差点は201m、その後、徐々に上ってゆき、この辺りからもう少し先のポイントが300m、そして道は下りとなり吉野宿本陣付近は179mとのこと。気づかなかったけど、相模湖駅から100m近くも上ったのでした。

【馬頭観音】


道の左手に馬頭観音。比較的新しいもの?…とは言っても、馬が行き交っていた明治初期までのものでしょうね。

【菜の花と甲州街道】


この時期、どうしても桜にばかり目が行ってしまいがちですが、菜の花も見事に咲き誇っていました。

【橋沢】


「新編相模国風土記稿」与瀬村の項に横道とともに記されている橋沢。ガイドブックには間の宿(あいのしゅく)とも。間の宿とは、宿場と宿場の間にあって、茶屋など簡単な休憩施設が設けられていた場所のこと。与瀬宿と吉野宿との距離は34町(約3.7キロ)。距離の数値だけ見たら茶屋などなくても大丈夫そうですが、やはり険しい山道の多い甲州街道、単純にそうはいかないということを、このとき、我々が身を持って体験してる最中なのでした。単に運動不足なのか?

【橋沢付近の甲州街道】


さて見渡しても、現在の橋沢には茶屋に代わるものも見当たらないので、このまま吉野宿へと急ぐ一行4人。何やら空模様も怪しくなってきました。家を出る際の天気予報では、雨は昼間には降らないとのことでしたが、ここは東京ではなく神奈川県だったのが大きな誤算になるのかならないのか…。


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【note】甲州街道・与瀬宿から吉野宿まで歩いてみた(1)-与瀬宿を往く-

2017-04-16 | 旧甲州街道を往く

去年の11月26日以来、久しぶりの甲州街道歩く旅です。メンバー全員、仕事が繁忙期に入り半死状態でしたが、ようやく一段落ということで、4月15日、2017年の旅をスタートさせました。

【JR相模湖駅】


集合はJR相模湖駅。前回の最終地点です。前回は小原宿までだったので、今回は与瀬宿から。11時集合としましたが、なんだか電車が止まっているだか遅れているだか…との情報だったので、早めに家を出ました。なので駅に着いたのは10時。
そう言えば、前回に来たときは駅は工事中でしたが、すっかりきれいに生まれ変わっていました。

【津久井の組みひも】


時間があったので駅前の観光案内所に寄りました。ここ相模湖一帯は「津久井の組みひも」が産業のひとつ。その起こりは大正時代とのこと。現在では20社ほどが組みひもを作っているそうです。
そんなわけで、私も5mの組みひもと、組みひもを使った奴さんキューピーの根付けを買いました。

【与瀬宿】


それでは歩き始めます。相模湖駅前の交差点は、すでに与瀬宿。前回歩いた小原宿、与瀬宿、吉野宿、関野宿は近距離に位置し、地元では相州四ヶ宿と呼ばれているそうです。

天保14(1843)年の「甲州道中宿村大概帳」によると、与瀬宿は

・本陣…1軒
・脇本陣…なし
・問屋場…1ヶ所
・旅籠…6軒
・宿場の家数…114軒
・宿場の人口…566人

とのこと。
東隣の小原宿と2宿セットの片継の宿場で、江戸方面へ向かう荷を小原宿を通り越して小仏宿へ継ぎ立てていました。逆に西へ向かう荷は、小原宿で継ぎ立てて与瀬宿を通過して西隣の吉野宿へと向かいました。
そうそう、ここは鮎が名物でしたが、歌川広重は高くて不味いと評したとか。

【本陣焼1】


歩き出してすぐ、街道沿いのお店で「本陣焼」なるものを売っていました。お饅頭です。中身は野沢菜とか餡子とか。

【本陣焼2】


私は餡子。他の3人は野沢菜。歩き出して数分なのにもう茶屋で一服みたいな感じです。ご馳走さまでした。
ちなみに本陣とは、与瀬宿の本陣ではなく小原宿の本陣のことで、正式には「をばら本陣焼」というらしいです。

【はるばる来たぜ与瀬宿】


そしてまだまだ先は長い…。

【与瀬宿本陣】



「明治天皇與瀬御小休所趾」の碑が建つあたりがかつての本陣。往時は建坪111坪だったそうです。

【与瀬本陣付近の甲州街道】


本陣前までは国道20号線が旧街道です。車の通行量も結構多いです。

【与瀬神社】


相模湖駅から歩いて数分、与瀬神社へ向かいます。ちょうどこの日は与瀬神社のお祭りでした。参道付近には露店も出ていて賑わっていました。

【与瀬神社・参道】


長い石段だなぁ~と見上げつつ、ここを越えれば目指す神社かな。
ところが、その先に思わぬ景色が広がっていました。

【与瀬神社・中央道横断橋】


階段を登りきると、こんな感じ。正面左の鳥居が与瀬神社。右側は慈眼寺。そして参道の下を通るのは中央道。この石段、中央道を越すために作られた横断橋だったのでした。昭和43年のことと記念碑には記されています。

【与瀬神社・社殿】


横断橋からさらに石段を登ってやっとの思いでたどり着いた与瀬神社。普段運動不足の身にはこたえました。
この神社、江戸時代には蔵王社とも称し、与瀬村の鎮守として崇められていました。創建年代は不明のようですが、天和2(1682)年に現在地に遷座されたとのこと。与瀬の権現さまの虫封じが名高いそうです。
虫封じ?最近は聞かない言葉ですね。調べてみたら
「幼児が消化不良や寄生虫を宿したりして身体が弱くきげんが悪い場合や、〈虫がおこる〉とか〈疳の虫〉と称するひきつけや疳が起こった場合に、これを防ぐ呪法のこと」(「コトバンク」より引用)

【与瀬神社・例大祭】


お祭りということで、境内には地元の人が多く集まっていました。法被を着ている人たちの他に、観光客と思われる人も随分といました。天気が良かったのでたまたま相模湖へ遊びに来たのか、それともお祭りが目当てだったのでしょうか…。
今登ってきた急な石段を神輿を担いで下っていくそうです。「ヤヨ、キヨ」と独特の掛け声をかけての神輿の渡御。迫力ありそうですが、残念ながら時間的にはまだ先のようなので断念。江戸時代後期に編纂された地誌「新編相模国風土記稿」にも「西より東より南より北より尊信して群参礼拝す」と、例大祭の賑わいが記録されています。


【慈眼寺】


与瀬神社の麓にある真言宗のお寺。江戸時代には与瀬神社の別当寺(神社を管理するお寺)でした。

【慈眼寺より相模湖をのぞむ】


山門から相模湖をのぞむと、まさにこれぞ絶景!。満開の桜と山の緑と相模湖。ついでに真下に中央道。


実は今回、忙しさのせいにしてほとんど下調べもせずに決行に至ったのです。あんまり立ち寄る場所もないだろうから、ひたすら歩いて上野原宿を目指す!という事前の甘い目標は、桜に見惚れ、湖の絶景にうつつをぬかし、お祭り気分に浸り、すでにここで大いに時間を取られてしまい、最初から暗雲たちこめる旅立ちとなったのでした。


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【note】八王子の桜めぐり(極々、近所のみ…です)

2017-04-09 | 新参者の八王子探検

桜が満開になったと思ったら、なんだか天気がよくない日が続く今日この頃ですが、来週ではきっと花も散ってしまうだろう…ということで、昨日(4月8日)、散歩がてらお花見してきました。

【浅川沿い1】


まずは浅川沿い、川の南側です。いい感じで咲いていますが、まだ蕾もありました。あと2、3日後が本当の満開でしょうか。川の北側は、遠目に見る限りまだ満開には遠い感じでした。川を挟んで南側と北側、それだけでも違うものなのでしょうか?

【浅川沿い2】


ようやく開いた花びら。春が来た!という喜びと生命の力強さを感じました。散り際の儚さはまだありません。

【浅川沿い3】


まさに花曇りの空。青空と桜もいいけれど、これはこれで可。

【浅川沿い4】


どこかで鳥が鳴いているなぁ~なんて見回したら、雉発見。田舎育ちの私ですが、野生の雉を見たのは実は初めてなのでした。ちょっと感動。


【八王子市街1】


JR八王子駅からまっすぐ北へ、甲州街道との交差点(「八王子駅入口」交差点)の枝垂桜。1週間前に通った時もかなり咲いていましたが、ここもほぼ満開。

【八王子市街2】


桜といえばソメイヨシノが真っ先に思い浮かぶのですが、最近、枝垂桜もいいなぁ~と感じるのです。歳のせい?

【八王子市街3】


下から見上げると、これまた圧巻。市街地ならではの風景です。


【八王子・子安神社1】


4月7日~9日まで夜間拝観で桜のライトアップがされている子安神社。境内には枝垂桜。あとで知ったのですが。境内裏にはソメイヨシノもあったのだとか。う~ん、残念。

【八王子・子安神社2】


まだちょっと蕾が多い感じですが、それでも神社での夜桜、荘厳な雰囲気でした。

【八王子・子安神社3】


神楽殿では巫女さんによるイベント(神楽の奉納かな…)があるようでしたが、時間に間があったので断念。


【浅川沿い・夜桜1】


再び浅川沿いへ。ここでも桜がライトアップされています。写真の左側が浅川になります。

【浅川沿い・夜桜2】


こうやって夜桜を観に来たのは何年ぶりかな?八王子に引っ越す前は、仕事帰りにかみさんと近くの霊園(一応、近所では桜の名所でした)に観に行ったものでした。

【浅川沿い・夜桜3】


夜桜を写すのは素人には難しいですよね。これもピンボケですが、でもちょっと幻想的に撮れたので、個人的には満足です。


そんなわけで、八王子での花見散歩でした。
八王子近辺には、続日本100名城に選ばれた滝山城跡など、桜の名所は多いようですが、近所のちょっとしたスポットでの桜もなかなか素敵なものです。


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