歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈




ご先祖様・神丹波守(じん・たんばのかみ)

子供の頃は無邪気に喜んでいただけですが、大人になって、じゃあ調べてみようと。
でも、なかなか「神丹波守」なる人物の記録に出会えない。
そもそも青森のほぼ無名の人物を東京で探すのに無理があったのか。でも、青森は遠くてそう簡単に足を運ぶわけにもいかないし…そこまでしようとも思わなかったけど。

で、本当は「神丹波守」なんて人物はいなかったのでは?あれは、祖母や母が歴史に興味を持ち始めた少年りすにゃを喜ばせるために作ったお話しだったのかな?
そんなことも思い始めていた矢先。

見つけました。

本にちょっとだけ出ていました。ほんとうにちょっとだけ。



●「歴史と旅臨時増刊 戦国大名家臣団総覧」
 秋田書店 1992年

その中の「津軽家臣抄伝」という項目にこう記されていました。

「桜田宇兵衛、梶仁右衛門、奈良岡豊後、小比内藤蔵、神丹波、阿保中務、相馬伊賀、八木橋左衛門四郎、新岡源次郎、同弥三郎兄弟、宮舘与五郎の面々は大浦十勇士と呼ばれる。為信決起の初めから側近にあって働き、みな身命をかえりみず、いずれも為信の危機に身を挺して敵をしりぞけている。」

※為信…弘前藩初代藩主・津軽為信のこと。



●「歴史群像NO.13」
 学研 1994年

「石田三成の子孫は生きていた」という小特集が載っています。
三成の子・隼人正源吾が、関ヶ原の戦いの後に密かに津軽に逃れた。子孫は津軽家の重臣として存続し現在に続いている…といった内容なのですが、その隼人正源吾が津軽へ来た経緯に関してこうありました。

「9月15日、三成敗報を聞くや敦賀港を出港。(中略)信建の本城・堀越城に入ったのである。
時を待たず、源吾は深味の地に移った。深味には、信建の密命を受けた神丹波がいた。丹波は津軽氏生え抜きの功臣であり、この辺り一帯の知行を得ていた。」

※信建…津軽為信の子。



以上、2冊。
たったこれだけでも、それはそれは嬉しかったのを覚えています。
とくに、石田三成の子・隼人正源吾とご先祖様の関係については、三成ファン(でも、あんまり知識は持っていない)の私にとっては、なにか不思議な因縁めいたものを感じさせたのでした。

では、ここに登場するご先祖様に関係の深い人物はどういう人たちなのか…。
それを次に調べてみたのですが、それはまたの機会に。


にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ    






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする



« そうだ、ご先... そうだ、ご先... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。