栗太郎のブログ

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ゼロ泊2日、姫路城の旅。

2017-09-21 03:42:50 | 見聞記 箱根以西

話は先月のこと。8月に入り、手持ちの青春18きっぷの残りは二日分となっていた。
いつもの都内往復もいいのだが、せっかくの青春18きっぷなのに、毎回千円ちょっとの得にしかならないんじゃもったいない。
ふと、始発で乗って出かけたらどこまで行って帰って来れるのか?と気になった。
調べてみるとどうやら米原までは行けるようなのだが、速攻折り返しに乗らねばならず、ここのところほぼ休日を費やしてる落語を捨ててまで行く気にはなれなかった。
あ、そうだ、「ムーンライトながら」があった!、前夜これにに乗りこんだらどうだ?
年末に乗った強行夜行電車を思い出して調べてたところ、なんと姫路まで行っても3時間程度の余裕があった。
おいおい、これなら行けるじゃないか姫路城!
なんて素敵なアイデアだろう。休みの一日を丸々使って、お化粧直しをしたあとの姫路城に行って来るなんてオツじゃないか。
しかもこれは新幹線じゃ意味がない。安あがりにしたうえに、在来線だけで行くから意味があるのだ。

ということで当日。
自宅を20:30に出て、宇都宮駅から東京駅へ。
案内板には「始発快速ムーンライトながら」の文字。行先の「大垣」を確かめただけで気が高ぶる。



ホームには、貧乏旅行を好む老若男女でごった返していた。
ムーンライトながらの古ぼけた車両がホームに滑り込んでくると、周囲の空気がそわそわしてきた。
23:10発。車内は、案の定冷房がよく効いていた。寒い。
なのに、Tシャツ一枚の若者が何人もいる。目の前の60歳を越しているであろうおオジサンも、スワローズの深緑色のTシャツに短パン姿だ。
エアコンが苦手な僕は、長袖を羽織り、靴下を履き、持ってきたバスタオルを掛けて大垣まで寝た。
大垣に着くころにもなれば、皆、荷物をまとめて臨戦態勢に入りだすのはいつもの車内風景。
大垣ダッシュで乗換時間3分の次の電車に乗り込み、米原では2分で乗り換えて姫路行きに乗る。
席に座るとまもなく、安心感からかさっき読みだしたばかりの本を開いたまま眠りに落ちた。気づいたときは京都を通り越して島本まで来ていた。
この日の朝の関西地方は、警報が出るくらいの大雨だった。
空にたち込める雲は重く、叩きつけるほどの大粒の雨が続いていたが、スマホで天気図を見ると、大阪さえ過ぎてしまえば雨雲は消えていた。これなら姫路は大丈夫だろう。
ぼんやりと窓の外を眺めると、大阪に向かう途中にいくつも越えていく川は、たぷたぷの水量だ。上流から流されてきた土砂が混じり、茶色く濁っている。
目が覚めたので手にしてた本をまた読みだした。それは、宮本輝『泥の河』。戦後復興のまっただ中の大阪が舞台。車窓から見える情景に多少リンクしてくる感覚がたまらない。
ただ、雨水で水位が増している川の岸はいづれも、きれいにコンクリートで護岸工事が施されていて当時の面影は消えている。
決壊の心配はないのは結構なのだが、小説の気分に浸るには、人工的な川の風景ではやや味気なかった。
小説の当時、どの川べりも草むらが生い茂る土手がずっと続いていたはずだし、生活の一部であった舟が大小お構いなく浮かんでいただろうに。
もしもこのとき、走る電車の窓から雨に濡れた古びた屋根船でも見かけようものならば、一気に『泥の河』の世界へと漂うことができただろう。

電車は、僕にとって久し振りの新大阪、大阪、尼崎、、と停まるのだが、駅周辺の風景を眺めても当時の記憶と全然被ってこないことに驚いた。
僕の住んでいた25年前にくらべると随分と風景が変わっていたからだ。どこの駅舎も綺麗になっているし、真新しい高いビルがいくつも並んでいた。まるで知らない町に来てしまったみたいだった。線路脇のグリコやヤンマーの工場を見つけて、ようやく関西であることを実感できた。
こんな無機質な街だったか?、もっとごちゃごちゃとしてなかったか?と、傘をさして歩く出勤途中のサラリーマンの群れをぼんやり眺めながら考えていた。まるで、アリの巣を見つめるような気分で。
雨は、西宮を過ぎたあたりで完全に上がっていた。三宮まで来ると道路も乾いていた。
西明石で、東京駅から乗り換えを繰り返しながらもずっと近くの席に座っていたスワローズおじさんが降りて行ったので、軽い戦友気分で見送った。
懐かしい播州平野を見渡しながら、ようやく姫路に着いた。9:17。ホームから姫路城が見えた。
宇都宮から12時間かかったが思っていたほどの疲労は感じていなかった。
今から帰りの電車までおよそ3時間。3時間しかないのか、3時間もあるのか、それはこれからの手際次第だ。

駅ロータリーに降りて驚いた。ぴかぴか過ぎる。しかも水が流れている広場。なにこのオアシス感?、いつのまにこんなにモダンな駅に生まれ変わったんだろう。姫路らしくないと思った。
そんなことよりも、駅ロータリーからまっすぐ正面に堂々たる威容の姫路城だ。どう考えても、城の位置にあわせて駅の場所を決めたに違いない。

いる、いる!! 

感覚的には「会う」気分。うれしさのあまり軽く身ぶるいを覚える。



城までの15分足らずの道すじ、常に正面にでんと居座る天守閣が視界にある。大通りはまるで参道のようだ。街の人々にとれば、まさしく崇めたてる本殿のようであろう。
いつも視野のどこかで認識することができる存在感たるやハンパないわ。

さあ、いよいよ!



橋を渡り、城内に入る。かつての三の丸跡は、今は何もなく広場のよう。
どうやらここではたまにコンサートも行われているようだ。たしかにこれは格好のロケーションだわな。
はるか石垣の上には白亜の城が悠然とそびえる。本丸姫山標高45.6m、大天守は46.36m、あわせて91.96m。東京タワーの3分の1にも満たないのだが、負けず劣らず、大空を我が物顔に独り占めしている。
廻し一本で慄然と立ちはだかる横綱のような、ゆるぎない風格さえ感じた。さすが、ミシュランに唯一ランクインした城だけある。僕は、ぶつかり稽古を申込むものの軽くいなされる下っ端の気分だ。




姫路城の始まりについて、 築城は「14世紀半ば、赤松氏が建てたとする」のが通説だったが、現在、発見された古文書から推測するに、「16世紀の半ば、黒田氏の築城をもって始まりとする」新説もある。
どちらにしても戦国時代初期はまだ、いち支城ていどの城だった。その城主だった黒田官兵衛、中国地方を攻略する織田信長の武将としてやってきた羽柴秀吉に城を差し出す。
その秀吉が、ここを中国戦略の拠点として活躍したのは周知のこと。西国街道筋であるうえに、北には但馬、因幡へも便がいい。
生野銀山もあり、特産物も多かった播磨で経済力をつけた秀吉が、信長への盛大な歳暮の品々を献上したことは「信長記」にも記載があるほどだ。
そして、本能寺の変が起こる。
いわゆる「中国の大返し」、毛利と対峙していた備中高松から天王山まで、ざっと200kmもある。
姫路は測ったようにその中間点にあった。まさに休憩地としてはもってこい。秀吉は、姫路で1日たっぷりと将兵たちに休養をとらせ、さらに惜しげもなく財を分け与え、士気を鼓舞したという。どうせ、信長の仇討ちが果たせなければ手放すしかない富なのだ。そう割り切った秀吉ならではの気前良さだ。その甲斐あって、通常2週間、早くて10日の行程を6日でたどり着いた。これこそ、当時の姫路城がまぎれもなく秀吉の居城であったがゆえの僥倖といえよう。
その後、城の主は秀吉の義兄木下家定を経て、関ケ原の戦いののち、その軍功により姫路は家康の女婿池田輝政に与えらた。これにより輝政は、三河吉田15万石から播州52万石の大大名となる。さらにその後、弟・長吉が因幡鳥取6万石、子・忠継が備前岡山28万石、その弟・忠雄が淡路6万石を与えられた池田家は、まるで日本海から瀬戸内にまたがり居座るごとく、親子兄弟で合計約100万石を領することとなる。
かつて小牧長久手の戦いで父と兄を徳川方に討たれた輝政も、ついには親徳川派の有力者として西国大名への備えの役割を任され、「西国将軍」と呼ばれるほどに出世した。
その後に転封してくる大名といえば、本多、榊原、松平、酒井等々、徳川家臣のうちでも名門の名が連なる。しかし、輝政のころと違い、太平の世にとなってしまっては西国に睨みを利かす役目も薄れた。名門とはいえ、身代15万石となっていた姫路の藩主たちには、立派な城郭はむしろ重荷となっていただろう。


さて、そんなことを思い巡らしながら、炎天下の城内を歩く。
三の丸を抜け、菱の門をくぐり、左手高台に西の丸、右手に三国堀を見ながら、白壁の土塀に添って天守へ向かう。
毎度このアングルを見るにつけ、暴れん坊坊将軍のテーマ曲が脳内を駆け巡ってしまうのはいかがなものか。



姥ヶ石(うばがいし)を見つけた。
秀吉が築城にあたり石垣を組む石集めに苦心していると、城下で餅売りをしていた婆さんが、使っていた石臼を差し出したのだとか。ただ、この石垣は池田輝政が築いたものというから真相は違うらしい。よそ者が地元に歓迎された、という趣旨のエピソードだったのだろう。




はてさて、暑いだけが理由ではないだろうが、何度来ても、いつしか方向が不明瞭になってしまう。そして、いつの間にやらぽっと出たように天守の入口へたどり着く。
中に入れば、お天道様に照らされないだけでも楽になった。
襖や戸が外されていても薄暗い城内、それらをはめ込めば更に暗かったことだろうと感じた。特に1階の暗さはわずかに陽が差し込む地下室のようなのだ。だけど、当時の目的としては、この階あたりは武器庫、食糧庫。むしろ武器や食糧の為にはその方がいいだろう。

もう少しで最上階というところ(何階だか忘れた)まで来ると、東西2本の大柱がむき出しになってよく見えた。高さ24.6m、最下部では直径2m近いという。




天守閣最上階にやって来た。軽く息が上がり、汗ばんでいる。
小さなお社があった。姫路刑部(長壁)大神、播磨富姫神の地主神を祀る。



刑部大神(長壁姫)には、池田輝政の時代に妖怪となって輝政を悩ませたという伝説が残っている。
城の鬼門(との三門)に刑部神社を勧請、さらにその横に八天塔を建てて、ようやく妖怪騒ぎは収まったという。
太古よりこの小高い丘に住んでいた神様が、人間によって棲み処を奪われ、それを恨み、ようやく小社を建てさせそこで心を静めた、ということか。
のちに剣豪宮本武蔵にも、妖怪退治を頼まれて単身天守に乗り込み、刑部大神から刀を賜って無事帰還したというエピソードが残る。

泉鏡花に、『天守物語』という戯曲がある。怪談である。
こちらに出てくる富姫は、刑部大神とともに祀られている女神だろう。
猪苗代の妹神がやってくるところから物語が始まり、神を怖れぬ人間をいともたやすくあしらう富姫がおぞましい。人間界の出来事は彼女たちの意の内という雰囲気に気が呑まれてしまいそうになるが、残忍な描写でさえも気品の漂う文章はさすがだ。

そして今は、主なき城となった姫路城の最上階に二柱ともに鎮座。これだけ多くの見学者に賑やかにされても怒ったりしないのだから、二柱の神様とも、根は優しい守り神なのだろう。
わいわい騒いで参拝している人たち、わかっているのかなあ、いわばこの神様は動物園で寝ているライオンと同じ、大人しく伏せているけど怒ったら恐いんだからね。(;^_^A アセアセ・・・


窓から南面、駅方面を眺める。はるか遠くに播磨灘。殿様気分。




横に眼をやり、千鳥破風の瓦を間近に見る。
瓦の目地(継ぎ目)に白漆喰が塗られてあるのがよく見える。2015年に竣工した平成の大改修ののち、まるで屋根に万年雪が乗っかったかのように白くなった姫路城に驚いた人たちから「白すぎ城」と揶揄されたものだが、その理由はこの白漆喰なわけだ。
まあ、いずれこの白い漆喰にも黒カビが生えだして、また以前のような黒い屋根の容姿に戻るのだろうが、それまではこの白粉でおめかしした「白鷺嬢」を褒め称えようと思う。




西に目を向ける。
西ノ丸は、かつて千姫が住まいした武蔵野御殿があった場所。




暑いのにキッチリと制服を着こんでいた警備のオジサンに、ちょっと話を聞いてみた。
1日、だいたい7、8000人の来場者があるという。土日となると1万人にのぼるらしい。
頭の中で算盤をはじいた。
入場料大人1,000円、子供300円。子供が何割か、無料の高齢者等が何割か混じったとしても、ざっと1日400万円は下るまい。多い日は600万円の入場料収入にもなるだろうか。つまり、年間10億円をゆうに超す。人件費や維持費に経費がかかるとはいえ、まるで打ち出の小槌のような観光資源。江戸時代に、権威の象徴というよりも財政を圧迫する無用の長物であったろう姫路城は、平成の現代、地域経済を潤す大黒柱となったわけだ。
平成の修理は大まかに言えば、屋根瓦の吹き直し、壁面の塗り替え、耐震補強工事であった。(事業費見積は28億円)
それに比べれば昭和の修理は大規模だった。石垣以外全部ばらした。柱はほぼ築城当時のものをまた組み直したらしいが、床板は張り替えたという。
ふと、階段がどの階も二つあることが気になって訳を聞くと、やはり昭和の修理のときに増やしたのだとか。なるほど一方通行にしてすれ違わないように工夫したおかげで見学者の流れがスムーズになる道理だ。昔からあるのは全部、上り側に使われているらしい。そういわれて下り側の階段を確かめてみると、手摺りは金属製だし階段も新しかった。





天守閣から備前丸(本丸)に出てきて、大天守を見上げてみる。
白漆喰総塗籠、5層の屋根に、多様な破風を飾る。
この大きさの木造建築を江戸時代に建てたと改めて思うに、当時の技術力の高さに感嘆せざるを得ない。




備前丸の石垣に寄って、大天守と相対してみる。大天守と、そのほか三つの小天守からなる連立式天守の安定感に惚れ惚れ。
佇まいの凛々しさから、だんだん、各層の庇や破風と石垣が、武家の裃姿に見えてきた。脇に控える小天守がお小姓とすれば、まるでお殿様だ。
この備前丸は、かつて御殿があったが、今では小学校の校庭のように何もなく広々としている。まるで、端っこにブランコや雲梯があってもおかしくないような錯覚になる。





現在の見学順路として備前丸から上山里曲輪へ向かうときには、この備前門から降りていく。
ひと際大きい方形の石は、かつて古墳の石棺だった。



門の左側の石垣にも、石棺が利用されている。
今ではとんでもないことだろうが、当時なら立派なリサイクル利用、責められることではない。



備前門からの下り道、土塀の左下の曲輪は腹切丸。
いやに陰気な名なので気になっていた。正しくは帯廓櫓(おびくるわやぐら)という。敵が城内に侵入したときの備えに兵を潜ませておく隠し曲輪だというが、それにしては広すぎないか?と思う。ほんとはここで、不祥事をしでかした幹部クラスの切腹が内密に行われ、いつしか蔭で「切腹丸」と言い伝えられた、という話かも。実際、姫路藩では宝暦元年(1751)、藩主酒井忠恭時代に、家老同士が当事者の殺害事件が起きている。そんなことも影響しているのだろう。
大き目の矢狭間から覗いてみる。鉄格子で塞がれた井戸が見える。首洗いの井戸、なのか?
残念ながら、曲輪に降りて行こうとしたが道がなかった。工事中だったがそのせいなのか、もう立ち入り禁止なのか?




さて、上山里曲輪に。
またここにも怖い話が残っている。曲輪の中央に、石で囲まれた「お菊井戸」がある。



そう、これこそが「播州皿屋敷」で有名な、お菊さんが投げ込まれた井戸なのだ。
落語にも、怖いもの見たさの町人がやってきて、井戸から出てきたお菊さんが皿を数えてワイワイ騒ぐ噺「お菊の皿」がある。
ただこちらの場合は怪談ではなく滑稽噺。町人たちは10枚まで数える前に逃げりゃあいいのだと言い出す始末、しまいに出てくるお菊さんは次第にアイドル並みの人気者になり、毎夜ステージが行われる、というスジ。最後に、働き詰めのお菊が、いつもの倍の数を数え、いぶかしんだ観客に「明日は休むからその分だよ」というオチがある。

あれ?
まてよ、その井戸って、江戸じゃないの?姫路にあったの?

どうやら、皿屋敷の怪談話は、姫路にも江戸にも、そのほか日本全国にいくつもあるというのだからビックリした。
だけど当然、その本家本元はやはりここらしい。
永正年間というから戦国時代のこと、当時の城主小寺則職の執権青山鉄山(やはり、ちゃんとこの名前なのに驚いた)がお城乗っ取りを企て、それを知った忠臣衣笠元信の探索方として青山家に潜入したのが、御当人お菊。結局お城は乗っ取られたのち、正体のばれたお菊は切り殺され、この井戸に投げ込まれた、と案内板にある。
でも、それが本当ならば、後の城主の誰かがこの井戸を埋めて慰霊しててもおかしくなないか?たぶん、腹切丸と同じで、じゃねえの?的な、学校の怪談的な、そんなところだろうな。むしろ、そんな話がずっと残るのは、どこか平穏な時代の雰囲気と言うか、豊かな土地柄ゆえの余裕というものを感じてしまうものだ。

落語ついでに言えば、江戸時代の吉原には高尾太夫と言う有名な花魁がいた。この名は何代も名乗っているので、売れっ子の看板みたいなものだ。
で、元文年間(1736~)、その三浦屋の高尾太夫を落籍したのが当時の姫路の殿様榊原政岑。身請け料は2500両、筆頭家老の棒緑並みの大金であった。
これが、将軍吉宗の主導した享保改革の真っ最中に見過ごされるはずもなく、政岑は隠居、謹慎。榊原家は越後高田へ左遷の憂き目にあう。厳罰にあうことが分かりながらのこの行為に、反吉宗派の尾張徳川の当主宗春との連携を示唆する向きもある。つまり吉原通いは密会のカモフラージュだったというのだが、さて、そのために大枚をはたくのでは誉められたことではあるまい。
なお、落語「反魂香」にも、高尾太夫を身請けしようとした殿様が出てくるが、こちらは仙台伊達藩主綱宗。この殿様も暗愚の藩主の評価がされている。

戦時中、当然この姫路の町にも空襲があった。町中が焼け野原になりながらも、なんとお城は無傷。市民たちは、高くそびえる威風堂々たる天守に見守られながら、戦後復興の勇気をもらった。おそらく、米軍は姫路城の文化的価値を重んじてくれて空爆対象から外してくれたのかもしれない、とも考えられた。
しかし、最近になってその真相がわかった。元米空軍兵の証言によると、お城があったなんて知らなかったらしい。当時のレーダーの性能はそう高くなく、夜半の空襲時、城の周りの水濠が湖か川だと誤認したようで爆弾を落とさなかっただけらしい。
なんとも拍子抜けする真相である。まあ、そういう程度のことが奇跡を呼ぶものなのだなあと、不思議に思う。


城をでて、まだ時間があったので、動物園の前を抜けて北に向かった。
隣接地に姫路文学館もある。ずいぶん前に安野光雅の『平家物語展』をやっていたところだと思い出し、開催中の特別展を見てみたが、興味がなかったので寄るのはやめた。




野里地区に足を延ばし、慶雲寺へ。



こちらにあるのは、お夏・清十郎の比翼塚。
寛文元年(1662)、但馬屋の娘お夏と、奉公人清十郎のかなわぬ恋の事件があった。悲しい結末をふたりを慰めようと建てられた石碑である。




案内板によると、元は室津の造り酒屋に生まれた清十郎が、姫路の但馬屋で奉公を務めることになり、そこでお夏と知り合い、身分違いの恋をしてしまったとある。美男で律義な清十郎は皆にも好かれたが、主人九左衛門は二人の仲を許さなかった。故なき罪で処刑されてしまった清十郎、その冥福を祈るために出家し読経三昧に暮らすお夏をみて、九左衛門もようやくふたり純愛に打たれ、この塚を建てて霊を慰めた、とある。
事件は、井原西鶴『好色五人女』、近松門左衛門『五十年忌歌念仏』などの作品のもととなった。作者の創作がまじり、出生地やら諸々の設定は異なるところもあるが、悲しい物語であるには変わりがない。




さて帰り道、気付くと身体に疲れが出てきた。さすがに歩くのはしんどくなって、バスを待つ。
ようやく来たバスに揺られながら、寄るつもりだった射盾兵主神社を見つけて、忘れてた!と軽く舌打ちをする。
駅前で降り、穴子飯を食らおうと何軒か覗いてみるが、どこもすでに混んでいた。
諦めて、駅に向かった。
買いそびれていた平岩弓枝の小説「お夏清十郎」を買おうと思い出し、街中の書店で聞くも在庫なし。駅中の書店ならと期待したが、地元本コーナーにも文庫棚にもなかった。せっかく帰りの電車の供にしようとしたのに残念。
(あとで密林で入手するも、話の設定は現代で、お夏清十郎の戯作をめぐるミステリー調の話だった。なるほど、地元ゆかりというにはちょっと違っていた)

駅のコンコースには、何枚かの青春18きっぷのポスターが掛けられていた。
こういう風景にそそられる情緒をいつまでも持ち続けられる青年、いや万年青年でありたい。




さて、食いそびれたリベンジに、駅弁当は穴子飯!



それと、瀬戸内ならでは鯛寿司!




12時間をかけてやってきた姫路。3時間の滞在を経て、12:27発の電車に乗って、また12時間の帰り道。
青春18きっぷ2日分4,740円、ムーンライトながら指定券520円、沼津からのグリーン券980円、日付越した乗り越し分500円、しめて6,740円で姫路城を観てきたとこになる。なんて安上がりだ。我慢と頑張りがあればさらに安く、足代5,260円で行けた計算だ。その分、充足感に満たされたゼロ泊2日の旅であった。



帰りの電車で描きだしたスケッチをようやく仕上げました。





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