栗太郎のブログ

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杜の都仙台を行く(3) 大崎八幡宮

2015-12-03 04:11:58 | 見聞記 東北編

大橋を渡り、左手の公園に「源吾茶屋」の看板を見つける。
さっそく食べログで検索すると、地元では有名な店らしく、創業130年を超えるらしい。
ずんだ餅が名物とのこと、こりゃ疲れた身体にちょうどいいい一服。




でてきたずんだ餅、620円也。
枝豆をすりつぶしたブツブツ感がよい。でも、お漬物ってこちらでは添え物として普通なのか?




5分もかからず平らげ、外に出ると、正面にはイチョウの木。
黄色い葉っぱに埋もれたぎんなんを拾う家族あり。




市民会館前でバスに乗り換えようとするも、次のバスは1時間後。
もう、残り全部レンタサイクルで周る決意を固めて、一路、大崎八幡宮へ。
地元民にでもなったような気分で街を走り、神社下にたどり着く。
鳥居脇にレンタサイクルを停めて、参道の石段を見上げる。けっこう、気持ちをへし折られそうになる。




息も絶え絶えに石段を上りきると、狛犬が出迎えた。
長髪のパーマ頭は、天龍源一郎のようだった。ずいぶんと細い前足で、左右がずれている。すぐにでも走り出す準備はできているようだ。








境内にはまず、唐破風、こけら葺きの長床が正面に建つ。
まるで長屋門のような印象を受ける。割拝殿様式という。
観光ボランティアのオジサンによると、左側が神楽殿。右側は何に使っていたのかよくはわからないらしい。




この八幡宮の元をたどれば、平安初期の坂上田村麻呂にさかのぼる。
田村麻呂が蝦夷を征圧し胆沢城(今の奥州市水沢)を築いたとき、その鬼門に九州の宇佐八幡宮を勧請し、鎮守府八幡を創建した。
のちに室町時代になって、それを奥州探題の大崎氏が自領(今の大崎市田尻、ここから北東の方角)に遷し、大崎八幡宮と呼ばれるようになる。
その大崎氏は、秀吉の小田原仕置きの結果領地召取りになり、伊達家が入部してくるわけだ。
はじめ岩出山に居城を構えた政宗が仙台に本拠地を移してきたのにあわせて、大崎八幡宮はここに遷されてきた。
そのとき、伊達家の旧領米沢にあった成島八幡宮も合祀された。由来、ここに鎮座し、仙台の鎮守社として今日に至る。

なぜ政宗は、わざわざ他から遷してきてまで祀ったのか?、遷してきたといっても名前を改めたりしないのか?、ということを疑問に持たないこともない。
由緒正しき宇佐八幡宮から新たに勧請すれば、格式のうえでも申し分がないわけなのだから。
その答えを司馬さんの言を借りると、
< 政宗は、旧大崎領を自領としたとき、この八幡宮を大切にすることによって、旧権威をひきついだ。 >ということになる。
足利一門である大崎氏は、いわば名門ブランドだった。「伊達」では家格が落ちる。
だから、その「大崎」の名を冠した社を祀ることは、前支配者から禅譲を受けたかのような印象さえ残るのだ。
それこそ政宗らしい、土地の人間に対するうまい政治的配慮なのだろう。

長床をくぐり抜けると、千鳥破風と唐破風向拝をもつ桃山様式の拝殿。
主祭神はもちろん、八幡宮だけに応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の親子を祀る。



いたるところに、極彩色の彫刻がちりばめらている。
向背の柱を突き抜ける龍の彫刻に至っては、全身が黄金色に光り輝いていた。



拝殿と本殿、それをつなぐ石の間、いわゆる権現造り。あわせて国宝に指定されている。



青い色をして変わったダルマだなあと思ったら、地元の特産「松川だるま」というのだそうだ。



お約束の御朱印。




帰りがけ、石段を下ろうとしてふと右手に建つお社が気になった。



少し戻って、観光ボランティアのオジサンに尋ねた。(もちろんこの人とも、さっきまで3、40分話し込んでいたが)
「あれは、大元社です。」という。
あ!それって司馬さんが「街道をゆく」のなかで、大崎八幡宮の章の最後に触れていたお社だ。
邪悪を懲らしめ福を招くという極めて密教的なこの大元帥明王を祀っている。
このお社は昭和56年に再建したらしい。司馬さんが訪れたのは、そのあとの昭和60年だったので、このお社がまだ真新しい頃だったわけだ。
このとき司馬さんは、大元帥であるはずの扁額の文字が「大元」となっていることに気付いた。

 これ。

それを神職に指摘すると、

  <   覚られたか。といったふうに言葉も発せずに、ただ背をそらせて謙虚に笑った。そのくせ大声だった。
   つりこまれて私も大笑いした。笑いながら、(いま東北にいる)という感動があった。           >

その場面に、間違いを糾弾する、といった雰囲気はない。
つまり、間違っていても、笑って鷹揚に流してしまう気風が東北にはあり、司馬さんはそれを愛している、ということになる。
たしかに東北には、仏像でもそういうところがある。
ホトケさんというよりは、変なオッサンのような容姿であったり、どこか造形がいびつだったりするものがあるのだ。
まるで、都で秀麗な美仏を観て帰ってきた地元の仏師が、たしかこんなだったっけ?と記憶を頼りに造ったのか、と思わせるような。
また、仏教上の約束事を無視したように、配置がおかしかったりとか。(山形の慈恩寺では、阿弥陀如来・持国天・弥勒菩薩・多聞天・聖観音の五体が横並びだった)
これが、ドラえもんやガンダムを模して(しかもすこぶる出来の悪い)シレっと澄ましてオリジナルだと言い切る悪びれない大陸人や、
五千年の歴史があるなどとデタラメを平然と吹聴し、すべては自分のとこが元祖とうそぶく厚顔な半島人であれば、笑ってすますのか!と腹も立つ。   
だけど元来東北人には、身に付いた朴訥さが、なぜだか欠点をむしろ美徳に見せてしまうような人柄の徳というものがある。
かつての都のあった関西からはるばるやってきた司馬さんにとっては、それも愛すべき気質なのだろう。

 


また、レンタサイクルを駆って走り出した。
道すがら、明治期の遺構なのかと思わせる門を見つける。



立ち止まり、google mapを開くと、ここは東北大学病院だった。
魯迅が学んだ学舎はここではないにしても、これまで、魯迅の碑以外に魯迅ゆかりのものを目にしなかった手前、ここが僕には魯迅のかすかな残滓のように思えて仕方なかった。


このあと地下鉄に乗り換えて泉中央にたどり着き、牛タン定食で腹ごしらえ。




そして、今日のメインイベント開演15分前に現地到着と相成りました。
サニーデイ・サービス。あいにくドラムの晴茂が体調不良のためサポートメンバーがつとめる構成であったものの、MCなしの怒涛の2時間。
三人だけのステージ。ギターなんて、とっかえずにテレキャス一本でやり切るシンプルさ。グルーブ感抜群のライブでした。
ただ、拍手さえも気兼ねする着席での鑑賞、っていうのはじれったいものでしたが。




ところで。
誰に言っても、「サニーデイ・サービスってだれ?」と返ってくる。なので、ひとつ、MVでも貼っておきます。
この歌、たぶん室生犀星の詩に触発されたのでしょう。

サニーデイ・サービス「愛し合い 感じ合い 眠り合う」【Official Music Video】



帰路、新幹線の車中。
バックの中に絵の具と無地のハガキがあるのを思い出し、また無駄な荷物をずっと持ち歩いていたのかと悔やみたくないので、さっき撮った政宗像を描きだした。
空の色を、着いた時の澄んだ青空にしようか、去り際のやや雲のかかった空にしようか、いまだ迷ったままである。



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