歌舞伎の演目といえば、江戸の時分から人気を博しているのは『義経千本桜』と『仮名手本忠臣蔵』である。今夏に歌舞伎座で興行していた『義経千本桜』は、幕見席で「木の実・小金吾討死」と「すし屋」を観た。昨年、吉野に行ったとき、この演目のモデルの「つるべすし弥助」(食事はできなかったが)に立ち寄ったので興味が沸いたのだ。暑い中、幕見席用のチケット売り場の列に並び、どきどきしながら専用エレベーターで座席のある4階まで。そそり立っているような傾斜の客席に面食らう。はじまってみると、あらすじは知ってはいても、所作の形や台詞の言い回しについていけない。せめて音声ガイドを借りておけばよかった。まるで、ウインブルドンのセンターコートに立ったはいいが、シード選手にケチョンケチョンにやっつけられた気分だった。
それでも、歴史ものの知識の下地が多少あったのが幸いして、ようやく聴き取りができた英会話のように、おおよそ話はよめた。観ている最中は、正直、こんな古臭い芝居、今の若い世代に受け入れられるのだろうかという要らぬ心配までした。そのくせ自分では、観劇中にさした感動もなかったくせに、あとからぼつりぼつりと、また観てみたいなあという気分がタケノコのように顔を出す。タケノコだけに根も深い。そんな、張りだした根っこが地べたを盛り上げだしたころ、ちょうど今回の『仮名手本忠臣蔵』に出くわしたのだった。全部やろうとすると、大序からはじまり最後の十一段目まで、一日かかっても終わらない『忠臣蔵』である。それを三つに分け、それぞれを10月、11月、12月に半蔵門の国立劇場で一か月公演をしているのだ。運よく手にしたチケットの11月の演目は、五段目から七段目であった。
言わずもがなの「元禄赤穂浪士事件」を材にした『仮名手本忠臣蔵』。実際の事件においては吉良贔屓の僕であるが、歌舞伎はまた別物である。(そのくだりは「上野介の忠臣蔵」のレビュー)『義経千本桜』の同じ轍は踏むまいと、予習を思い立った。まずは、落語だ。歌舞伎は今よりもずっと庶民の身近にあったものだったので、当然落語にもよく出てくる。しかも、でてくる芝居は『忠臣蔵』がほとんどだというのだから、江戸庶民の『忠臣蔵』好きもずいぶんと度を越しているというもの。客をほったらかしにして、質草で芝居に夢中になる丁稚の定吉(たいてい粗忽者の丁稚は定吉と相場が決まっている)と番頭の噺は「質屋芝居」。これは三段目、塩谷判官が高師直にいびられる場面だ。仕事さぼって芝居を観に行くほどに芝居好きの丁稚の定吉が旦那様に怒られる「四段目」は、その名の通り四段目のネタ。判官切腹の場面。(上方では「蔵丁稚」)「淀五郎」も四段目で、判官役に抜擢されながら散々ダメ出しをされた淀五郎が、思案極まりながらも見事に役を自分のものにして見せるクライマックスは、聴くものを引き込ませる。(この話、談志だと淀五郎ではなく嵐民之助となる。設定も若干異なるが、やはり談志はうまい。)「七段目」は、芝居好きの若旦那と丁稚の定吉が、祇園一力茶屋の場面、お軽と平右衛門を演じだし、♪互いに見合わす顔と顔ぉ、じゃらぁ、じゃらぁ??、、読めたぁ!とくるあたりは滑稽至極。
そうしていろいろ聴いていた中で特に気に入ったのは、五段目、山崎街道の場面に出てくる斧定九郎を演じた「中村仲蔵」の噺だ。当の仲蔵、自伝を書いている。そのタイトルが「手前味噌」とは、さすが名題にまで上り詰めた自負がたっぷり。これが噺の元ネタになっているのだろう。彼がそれまで野暮ったかった定九郎の役に工夫を凝らしたのは明和3(1766)のこと。これがきっかけで後世に名を遺すほどの役者になったと言っていい。歌舞伎は、屋号で言えば成田屋、音羽屋、高麗屋等々、江戸時代から血縁が多い世界だ。その歌舞伎が始まってこのかた、血縁でもないのに名題(なだい)にまでなった役者は、たったふたりしかおらず、仲蔵はその一人なのだ。
ありがたいことに、仲蔵が工夫した定九郎が出てくる五段目は、ちょうど11月公演の演目のうちだった。ようつべでまずは僕の好きな志ん朝を聴き、ほかにも志ん生、圓生、八代目林家正蔵、柳家小満ん、林家彦六、春風亭一朝、十代目金原亭馬生、しめに五街道雲助を聴き比べる。姿、口上、役者の身分、オチ、そのほかにも落語の中身に違いはいくつもある(間違いもあった)が、それぞれに聴かせ処を心得ている。志ん朝や雲助もいいが、なかでも、圓生が上手い。(ただ、上手いが面白くはないけれど)これは笑いネタというよりは講談のような話で、歌舞伎の蘊蓄を軽くいじってから、仲蔵の半生記を語りだしていく。
(若干言葉を足してます。聴き間違いはご勘弁。わからないのはカタカナにしてあります)
・・・初代中村仲蔵(1736‐1790)は、江戸時代の歌舞伎役者。屋号を栄屋、俳名を秀鶴(しゅうかく)と言った。仲蔵は、下っぱの稲荷町(いなりまち)からでて、三座(幕府から許可を得て興行していた中村座、市村座、森田座のこと)の座頭に上り詰めた。血縁者の多い歌舞伎の世界、いままでに下回りから出て座頭までになったのは、この仲蔵と幕末の市川小團次の二人しかいない。10歳で中村伝九郎の弟子となり、子役として舞台に立った。15、16歳になってくると役のつけにくい歳となり、本人も役者を諦めていったんは素人になっていた。しかし、役者の道を忘れられず、19歳で再び中村座に。稲荷町から始めることとなる。歌舞伎の世界は、下から稲荷町、中通り(なかどおり)、相中(あいちゅう)、名題(なだい)と上がっていく。中通りになっても、せいぜい「申し上げます」くらいのひとこと台詞があるくらいで、収入はすくなく、桐の下駄の内職をしていてしのいでいた。
ある舞台の最終幕、御殿の大広間の場面。座頭4代目市川團十郎の舞台にて、台詞を忘れてしまった仲蔵。とっさに、「御免」と言うなり団十郎のそばににじみ寄り、「親方、台詞を忘れました」と耳元で囁いた。心得た団十郎も、仲蔵が言うはずだった台詞を復唱する形でその場をしのいで事なきを得た。舞台のあと、団十郎に呼び出された仲蔵。𠮟責を受けるかと思いきや、思いのほか機転の良さを褒めてもらう。気に入られた仲蔵は、団十郎の家に住み込むことになり、団十郎の息子・高麗蔵とともに芸に励んでいく。ようやく名題になり、座頭格の工藤佑経の役を任された。すり狐の面をつける工夫をしようとすると、立作者・金井三笑に難癖をつけられたが自分の思い通りに演じてきった。無視された三笑は、生涯仲蔵と仲違いとなる。
その年の9月「仮名手本忠臣蔵」の割り当ては、斧定九郎、たった一役だった。当時これは相中が務める程度の役。実は、しくじらせようとした金井三笑が仕込んだことだった。気を取り直して、役を自分らしく工夫しようと考えた仲蔵。だいたい、それまでの定九郎の拵えが良くなかった。縞の平袖(どてら)、まるごけの帯、山刀を差して草鞋掛け、山岡頭巾をかぶってのそのそと出てくる、どうみても山賊の拵えなのだ。この衣裳から考えようと思うも、いっこうに妙案が浮かばず、しかたなく神仏にすがろうと柳島の妙見様を日参。ちょうど八日目。帰り道、法恩寺橋あたりで大雨に出くわし、蕎麦屋で雨宿り。ザルを一枚頼んだ。そこへ「許せ」と入ってきた浪人態の男。年頃三十四、五で、月代をのばしている。背は高く、肌は色の抜けるように白い。着ているものは黒羽二重の引解(ひきとき、合わせの裏をほどいたもの)、茶献上の帯に合わせた雪駄を腰に挟んでいる。尻を高々に端折り、蝋色艶消しの大小を落とし差しにしてスっと立っている姿の実にりりしいこと。破れた蛇の目傘をぽーんと放りだし、冷酒を所望したその男が、雨に濡れた月代をなぜつけるとだらだらっと滴が流れた。その様を見た仲蔵は、「これだ!祇園あたりで散々遊んで、遊びの金に困って山崎街道あたりで追いはぎをするんだから、山賊みたいななりをしているわけはない。」と喜んだ。さらに、破れた傘も見せてもらい、これで定九郎をどう拵えるかの目途がついた。役者は衣裳を自分で拵えるもの。早速仲蔵は古着屋に出向く。紋は丸に鷹の羽のぶっ違いで、拝領の衣装が古くなった風の羊羹色の着物を見つけ、これを引解きに。舞台で映えるよう、帯は白献上に、刀も朱鞘に変える。腰に挟んでいた雪駄も、山崎街道にでる山賊にはおかしいので福草履にした。カツラには熊の毛を張った。伸びた月代は本来なら後ろに張るものだが、これを前に向くようにし、水を含ませてからぐっと抑えると滴がたらたらたらと流れる塩梅にした。
で、こちらが初代中村仲蔵演じる斧定九郎を描いた浮世絵。安永5(1776)五月中村座の上演に取材したものらしい。なるほど、金に困った浪人者が追剥ぎを働こうとする様子がよく出ている拵えだ。
さて、いよいよ舞台。楽屋入りし、全身に白粉を塗りだす仲蔵。定九郎と言えばいつもは砥の粉を塗って赤黒く顔を拵えるのに、芸きちがいがまたなにかはじめるのか?と、相部屋の他の役者が常と化粧が違うのを問いただしても知らんぷり。この日、舞台の初日だから客はいっぱい入っていた。当時の歌舞伎は昼興行。そのため、大序は朝の7時頃から始まった。四段目になれば判官切腹は大きな見せ場、それだけに「出物止め」と言われるように人や物の出入りが許されない緊迫した幕だ。六段目も、勘平腹切り、おかるの身売りと見物客の人気の場面。しかしその間の五段目といえば、ちょうど昼どきに差しかることもあり、「弁当幕」と言って、弁当やお茶をしてろくすっぽ見やしなかったらしい。
五段目の幕があがり、勘平と仙崎弥五郎の場面から始まった。仲蔵はカツラをつけ衣裳を抱え湯殿に降りていき、頭から手桶で水を五、六杯浴び、揚幕にかかる。山崎街道の舞台には、正面に掛け稲、下手に松の立木が五、六本。お軽を身売りした帰り道の、手付金を持った父・与市兵衛が出てくる。そこへ、揚幕の中にいた仲蔵が、水桶に突っ込んでおいた蛇の目の傘をとって半開きにして顔を隠し、「お~ぃ、とっつぁ~ん!連れになろうぉ~!」と声を掛けてタタタタッと駆け出していった。さて、花道の脇の、芝居も見ずに弁当を食べている見物客に、定九郎の手にした濡れた傘の雫がぴちゃぴちゃっとはねた。なんだなんだとふと見物客が舞台をみると、例のドテラを着て山刀をさして出てきていると思っていた定九郎が、足のほうがまっ白で、着ているものが真っ黒のなりをしていたから驚いた。その定九郎、舞台中央にいる与市兵衛の肩をポンと叩いて上手にやり過ごし、クルッと回って傘を開くと肩に担ぎ、初めて顔をみせてカァッと見得をきった。自分の工夫に自信たっぷりの仲蔵は、そこで「栄屋~」と声がかかるかと思ったがなにもなかった。どうして声がかからなかったのかといえば、実は、あまりにも良すぎたのだ。それまでと違った定九郎の良さに、あまりにもびっくりした見物客は感心しておもわず首を振っている。これが一人や二人でない。一瞬しんとして、それから、ううぅわぁと騒めいた。ところが、仲蔵はこれを、客が喜んだと思えず、笑われ、悪口を言っているのだと勘違いした。しかしそこは仲蔵、しくじった!と思いつつもここで芝居を投げず、定九郎も今日限り、と一生懸命にやりきろうと考えた。「前の宿からつけてきた。金の高なら四、五十両。二、三日こっちに貸してくれぇ。」と強請る定九郎。いやがる与市兵衛を殺して懐から財布を奪い、下手へ蹴倒したあと、左足を前に出し、そこへ刀を据えて、ぐぅ~とふきあげの見得になる。その姿のいいことに客がまた唸る。月代をぐっと抑えるとたらたらたらと滴がたれると、またぐぅ~と唸る。刀を鞘へ納め、口にくわえている財布の紐を首にかけ、いざ金勘定。十分に金を数えて、ここで「五十ぅ両ぉ~!」と大見得をきった。財布をぐるぐると巻いて懐にいただいて、与市兵衛の死骸を谷底に。♪はね込み蹴こみ泥まみれ、はねはわが身にかかるとも、知らずたったりむこうより、一目散に来る手負い猪(しし)ぃ~。てれつくてん、てれつくてんと鳴り物に煽られるように、一頭の猪がこっちに駆けてきた。立ち去ろうとしていた定九郎は慌てて戻り、傘を放り出し大小を抜いて掛け稲に割って入る。そして、走り去った猪の行く手を見送りながら、後ろ向きに掛け稲を出ていったところに、♪あわやと見送る定九郎が、背骨をかけてどっさりとぉ~。♪あばらに抜けるぅ、二つ玉ぁ~。猪を追いかけてきた勘平の放った鉄砲に撃たれて倒れる定九郎、大小を放り出してそこに転んだ。そして、正面を向いて二度目に起き上がったとき、定九郎の胸から腹へ血糊がべったりとついていたから見物客はびっくりした。これも仲蔵が考えた工夫だった。それまで、血を吐いて死ぬなんて演出は誰もしたことがなかったのだ。仲蔵は、溶いた蘇芳紅を入れた卵の殻を口に含んでいて、起きたときに卵の殻をかみ砕いたのだった。これが口からだらだらっと流れ、右の腿にかかる。股を広げて苦しむ。十分に苦しんで、下手を向いて、仰向けにだぁんと倒れると、見物客がまた割れかえるように沸く。そのあと勘平が出てきたところで、定九郎に釘付けの見物客はろくすっぽ見ちゃあいない。勘平が倒れている定九郎の懐に手をやると、財布がある。それを手にした勘平、「天より我に与えし金ぇ。かたじけなしぃ!」勘平が去ろうとすると、財布の紐が定九郎の首に引っかかっていて、拍子に死骸がぐうっと起き上がる。目をぱっちりあいて口をあんぐり開けているその顔の恐いことと言ったらありゃしない。見物客が憎いと思い違いをしている仲蔵が恨めしいと思っているからその恐さはなおさらで、があぁと睨みつけているので子供なんぞは泣き出してしまう。勘平が紐に気が付き、小刀でぷつっと財布の紐を切る。だ~んと倒れると同時に、ここで幕となるのだが、興奮した見物客はわんわんわんわん騒いでいる。やりそこなったと勘違いをしたままの仲蔵は急いで湯殿へ行き、血ベニや白粉をおとし、楽屋へ。だれか褒めてくれやしないかと入っていくと、あんまり度外れに良すぎたせいで一同ポカンと顔を見ている。ここでもまた勘違いを重ねる仲蔵。
このままでは江戸にいられぬと早合点して急いで旅支度。上方へ行こうとした道すがら、忠臣蔵を観てきたという親父の話が耳に入ってきた。「相中がやる定九郎を名題の栄屋がやる訳が分かった。いつもとはまるっきり違う。定九郎ってのは、五万三千石のご家老の倅なんだ。それが山刀差して山岡頭巾をかぶってでるなんざ、俺はどうも拵えがおかしいと思っていたんだ。それがどうだ、今度のはいい。なんだな、江戸で言えば、吉原で散々遊んで金に困って追いはぎをしようってんだ。黒羽二重の単衣、白献上の帯に、朱鞘の大小、敗れた蛇の目傘を広げて見得を切ったところなんざ、まるでおめえ、錦絵から抜け出したようだ。あとの仕草がまたいい。鉄砲で撃たれると口から血を吐いてな。見ていてぞっとした。あんな定九郎、これから先にやろうったってやれる奴はねえだろう。いい定九郎だ。」と褒めてくれた。その言葉を聞いて思い返した仲蔵。その話を妻おきしに話してやろうと家の戻ろうとする途中、芝居帰りの客とすれ違いざま、みな、定九郎を褒めている。家に着くとそこには師匠から迎えの使い。行ってみると、師匠も仲蔵の定九郎を褒めたくれ、褒美に脇差をいただいた。死のうと考えていたと言った仲蔵に、師匠が「お前を仏にできるか、お前は芝居の神様だ」とオチがつく。(ただ、他の噺家には、師匠にもらった煙草入れにかけて「煙に巻かれる」というオチが多い)
なお、小説もある。『仲蔵狂乱』(松井今朝子)
仲蔵狂乱 (講談社文庫) | |
松井 今朝子 | |
講談社 |
「狂乱」という言葉に、なにかミステリーじみた結末を想像してしまったが、けしてそんなスジではなかった。仲蔵の生い立ちからその終焉まで、じつに事細かにおさらいをし、仲蔵という人間を見事に浮き上がらせている。さらに、歌舞伎の世界の華やかさ、時代背景、それから舞台裏の闇の部分までも描く。むしろ、その描写があったからからこそ、血縁もないひとり身から辛抱と苦労で出世した仲蔵に心から喝采を送りたくなる気分になった。
解説で萩尾望都氏が、<まさに数百年の伝統を持つ歌舞伎の世界の一枝を伐り、中村仲蔵という伐り口を見せてくれた。そこにはやはり、瑞瑞しく生の人間の香り立つ世界があった。>と書いている。僕の気持ちもまさしくその通りだった。
満足度は7★★★★★★★
さあここまでしていよいよ当日、♪さあさあさあ、とばかりに逸る気分で国立劇場へ。
はじめのほうに五段目があるだけに、こちらの気分も最高潮。
『狂言通し 仮名手本忠臣蔵 第二部』
・浄瑠璃 道行旅路の花婿
・五段目 山崎街道鉄砲渡しの場/二つ玉の場
・六段目 与市兵衛内勘平腹切の場
・七段目 祇園一力茶屋の場
ロビーに飾ってある、平櫛田中翁の鏡獅子。一度拝見したかっただけに、さらに気分を盛り上げてくれる。
いざ幕があがり、間もなく件の二つ玉の場。
僕は、与市兵衛を呼び止める定九郎の登場を待ち構えて、花道に視線を向けていた。するとどうだ、掛け稲の前に腰を掛けていた与市兵衛が、突然ぐわっとばかりに倒れ込み、掛け稲の中からすでに財布を奪った定九郎がのっそりと現れた。
刀に付いた血ノリを着物の裾でず、ず、ず、ずっと拭い、じっくりと財布を広げて金勘定。溜めに溜めて、「五十ぅ、両ぉ~ぅ!」と見得を切った。
え?
( ゚Д゚) ぽかん...。
だ、出し抜かれた!そうくるとは思わなかった僕はあっけにとられてしまっていた。このあと早野勘平に間違って鉄砲で撃たれて絶命する斧定九郎、台詞はたったこれだけだった。あれれ??「おーい、とっつぁん!」は、ないのか??やり過ごしてから、どうだとばかりに見得を切るんじゃなかったのか???後で知ったのだが、どうやら、仲蔵ののち、いい役となってしまった定九郎は看板役者が掛け持ちをするようになって、与市兵衛殺害の場面が簡略化されたようだった。そうとも知らず花道ばかり気にしていた僕は、まるで、一条寺下り松の決闘で宮本武蔵の奇襲に遭った吉岡一門のようだった。
帰ってから、『仮名手本忠臣蔵』を現代訳にした読み物を読んでみた。
能・狂言/ 説経節/ 曾根崎心中/ 女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/ 義経千本桜/ 仮名手本忠臣蔵 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集10) |
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岡田 利規,伊藤 比呂美,いとう せいこう,桜庭 一樹,三浦 しをん,いしい しんじ,松井 今朝子 | |
河出書房新社 |
他にも『千本桜』や『菅原』、能、狂言、説教節まであるてんこ盛りで、当然分厚く、税別3500円もする。このシリーズ、けっこう面白くて、今昔物語の載っているものまでついでに買ってしまった。
で、『忠臣蔵』の訳者は『仲蔵狂乱』の今井今朝子だった。定九郎が与市兵衛に追いつき、追いはぎを働く場面が克明に描写されていていい。呼び止め、金をせびり、脅し、凶行に及ぶ一連の二人のやり取りがしっかりと描かれている。そりゃあ、やり過ごして見得きって、ブスリとやって「五十両~」っていうのは、歌舞伎流にデフォルメされた形なのだ。逆をいえば、その簡素に強調された、言い換えれば「煮詰めた」形こそが歌舞伎の芸術性なのだろうと思った。
ついでに、安野光雅が歌舞伎の場面場面を切り抜きに描いた「絵本」もある。歌舞伎好きの彼自身の視線からの鑑賞記のようなものなので、あらすじ本としての期待には物足りないが、絵本としてのクオリティがやはり高い。
繪本 仮名手本忠臣蔵 | |
安野 光雅 | |
朝日新聞出版 |
なお、忠臣蔵を読み解くのにもってこいの本としては、上村以和於『仮名手本忠臣蔵』がおすすめ。
仮名手本忠臣蔵 | |
上村 以和於 | |
慶應義塾大学出版会 |
作者は、<忠臣蔵とは共同幻想である>という。元はと言えばひとつの芝居の名題に過ぎなかった「忠臣蔵」。『仮名手本忠臣蔵』=『元禄赤穂事件』ではない。なのにその文字が歴史を考証する場にまで登場してくるのは、「忠臣蔵」の世界がいかに世間に認知されたかの表れなわけだ。だいたい、「忠臣蔵」を謳う時点で虚構が混じっているのに、現在では、仮名手本忠臣蔵のなかの登場人物が、あたかも史実のような印象さえある。(それは、義経についてもしかり。)
また当時、事件の起きたあとに、それを模した先行作はいくつもあったのだという。しかも肝心の「忠臣蔵」の初演自体は、49年も経ってからだったというのだからちょっと驚いた。復讐劇は、小栗判官や曽我兄弟などいくつもあるのだが、最後にしっくりと赤穂事件がはまったのが太平記という「被り物」だった、ということなのだ。この本、単なる解説本にとどまらず、謎解きからサイドストーリーまで、小ネタ、解説が満載である。ああ、頭の中に「っとわや!」「っらいや!!」の掛け声がまだこだましている。これでまた、『忠臣蔵』が観たくなってしまった。
※別の舞台ですが、よろしければわずかでも忠臣蔵の世界へどうぞ。
仮名手本忠臣蔵~五段目1
仮名手本忠臣蔵~五段目2 (定九郎登場はこちら)
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