栗太郎のブログ

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出羽三山の旅(6) 海向寺

2015-09-17 19:28:52 | 見聞記 東北編


南岳寺を辞して、高速に乗り、右手に広がる庄内平野の広々として豊かな田園を感嘆のまなざしで眺め、酒田市内へ入る。
土門拳記念館をあきらめ、本間家を素通りし、進路をナビにまかせながら海向寺へ向かう。
庄内地方にある湯殿山系と言われる即身仏6体のうち、4体が鶴岡市内にあるが、残り2体がこの海向寺にいらっしゃるのだ。

「庄内って映画のロケ地が多いけど、どこか寄って見たいとこってあった?」と、どうせ寄る気もないくせに、そんな会話をしていた。
そのせいではないのだろうが、ナビが目的地をアナウンスしたとほぼ同時に、妙に既視感を感じる風景が現れた。




ん?ん?
あれ?これって、『おくりびと』の葬儀社の社屋じゃね?
車を降りてよく見てみれば、やはりそうだった。映画の看板もあった。
建物を見上げながら、あれ?じゃあ即身仏のあるお寺はどこよ?とぐるりと後ろを振り返ってみれば、まっ正面に海向寺の入り口があった。





今日はお祭りでたくさんの幟もあがっていた。粟島観音夜会式(やえしき)というらしい。
その粟島観音がいらっしゃっるのが、本堂右のお堂の中。
「粟島(もしくは淡島)」といえば同じ名の神様がいるが、ここの観音さまとおなじく、女性に関わること一切を請け負っている。
結局、神様か仏様かのお姿が違うだけで、中身は一緒なのだ。

しおりによると海向寺のあるこの場所は、1150年前に空海が東北巡錫のおり、「アビラウンケン」の梵字が浮かんでいるのを発見した場所という。
なるほど空海ね、と眉に唾しつつ、そのあとにご本尊を勧請したという真然上人というのも、調べてみれば空海の甥にあたる高僧だった。
結論として、創建は不明、ということか。言い換えれば、いつからあるのかさえわからないほど歴史のある、ということ。
この小高い山の海側には、文人墨客の歌碑がいくつも並んだ日和山公園という公園があるが、「日和(ひより)」というくらいだから、海の眺めがいいはずだ。
逆をいえば、遠くからも目印になるような山。つまり、寺の立地としてはいいところなのだろう。

ホトケ様がいらっしゃるところはコンクリ造りで、「即佛堂」とある。

案内いただいたのは、どこかの博物館にいそうな学芸員かと思える若い女性。
大きな自作のパネルを用いて丁寧に説明してくれた。これで、見学に来た小学生などのグループに即身仏を解説するのだとか。
ずいぶん熱心なひとだなあと思ったら、ここのお嫁さんだという。
即身仏という「観光資源」に頼り切らずに、参拝者に伝わりやすいように、パネルやチラシを準備する、そんな姿勢に好感を持った。

中に入ると二つの厨子が並んでいる。
左側、唐破風様の厨子には、忠海上人。もと庄内藩士、宝暦5(1755)に58歳にて入定。
右側、お神輿の屋根のような厨子に、円明海上人。農家にうまれ、文政5(1822)に55歳にて入定。
ここのホトケ様、その説明のなかにはなかったが、土中入定で完全な即身仏になりきれずに、仕上げに燻製にされている。
身体の表面がいままでの即身仏よりは黒く見えたのは、あながち漆のせいだけじゃなく、そのせいなのだろう。
おまけに、忍び込んだネズミに少々食い散らかされている。(先述の水銀値を調べたネズミとは、このネズミのこと。)
それでもご本人の、衆生の救済のために、代わりに苦しみを請け負おうとする入定の決意は揺るがないものだ。


この日から三日間、お祭りにあわせて毎日夜6時半から、即身仏の特別ご開帳が行われる。
仏身堂の扉が開かれて、そとから即身仏のホトケ様を拝観できるのだ。

  この左側の扉が開く


ここから観る月は名物らしい。うまいことに前日が満月だったので、この日の月は十六夜。ほぼまん丸のお月さまだ。
このとき、5時すぎごろ。1時間半も待てば、照明に照らされたホトケ様のお姿を拝めるし、月山のあたりから月も出てくる。
もうこの後の予定もないし、いいね、見ない?とJ君に言ってみたが、乗り気ではなかった。
僕にはほんの1時間だったのだが、J君にはあと1時間も?という気分のようだ。
それよりも、彼の頭の中は晩飯をどこで食うかに支配されていた。






ついでに言うと、即身仏を扱った話はいくつかある。

井上靖の短編『考える人』は、かつて新聞記者であった私が、庄内地方の即身仏を訪ねた話だ。

名短篇、ここにあり (ちくま文庫)
北村 薫,宮部 みゆき
筑摩書房

実際に新聞記者時代の氏が庄内へ出向き、湯殿山や海向寺を訪れたて書いたのだろうと思われるがどうか。
ともかくその中で、氏がかつて見たというコウカイ上人(弘海、という字をあてていたが)という即身仏が気になった。
タイトルの「考える人」とは、その上人の姿が、ロダンの「考える人」の姿勢によく似ていたからだ。
氏は同行者と、コウカイ上人とはいかなる人物であったのか想像しながら、旅の移動の暇つぶしに興じる。
勢いあまって即身仏になる決意を表明してみたのの、尻ごみして、引き延ばし工作として様々な事業を試みたのだとか、
それが、本人の怠惰な意に反して衆生に対する慈悲の行いに見えたりして、図らずも崇高な生き仏のようにまつられていったのだとか、などなど。
同氏の『補陀落渡海記』の金光坊や、菊池寛『首くくり上人』に通じる滑稽さがある。
とにかく、行人になる人っていうのは犯罪者が多いのだと決めつけていることもあり、即身仏にいたる経緯の推理は、ずいぶんと邪推に満ちていた。
さてそのホトケ様、現在どこかにいらっしゃる即身仏なのか?調べてみても、出てこない。
本当はどこかの即身仏のモデルがちゃんとあるのに、興行師に連れ回されたりして見世物にされた過去を表沙汰にできなくて仮名にしたのだろうか?


中島敦にも『木乃伊』と題する短編がある。

中島敦全集〈1〉 (ちくま文庫)
中島 敦
筑摩書房

こちらのミイラは、古代エジプトのミイラ。
紀元前6世紀ごろ。エジプトを侵攻したペルシャ軍の部将パリスカスが、何の縁もないはずのエジプトの町や言葉に記憶があることに気づく。
ずっと不安を抱えたままの彼が、ひとつの墓地の中で出会ったミイラを見て「俺は、もと、此の木乃伊だったんだよ。たしかに。」という。そう、彼の前世はこの木乃伊だった。
そして、その祭司だったころの記憶がよみがえり、また、その前のまた他の木乃伊だった記憶もよみがえり、ずいぶん前に、こうして前世の木乃伊と遭遇した同じ体験までもよみがえり、まさに「合わせ鏡」のような無限の記憶のループに嵌って、パリスカスは狂気に至るというスジ。
「世にも奇妙な話」の一話に加えてもいいような、オカルトチックな気味の悪いストーリーだが、魂の蘇生がミイラになる目的であるならば、あり得る話である。


また、会津地方の怪談を集めた『老媼茶話』というものの中に「入定の執念」という話がある。(これが収録されている本が見当たらず、ネット上で読むしかない)
場所は大和の国、郡山高市。
55年前に修行を重ね土中入定をした僧の塚が壊れ、それを機に掘り起こしてみた。すると、入定の時は61歳だった僧がいまだ生きて、鉦を鳴らし念仏を唱えていた。
聞けば、入定のその時に見かけた19歳の娘に心を奪われて、いまだ往生ができないのだという。
その時の娘は健在だったので、その場に連れ来てみると、いまは93歳のよぼよぼの老婆。
そしてそれをしみじみと見た僧の愛執が消え去ったのか、そこには骨だけが残った、という話。これはこれで上田秋成の『青頭巾』のような話ではある。



さて、海向寺をあとにして。
 
酒田と言えば、「酒田ラーメン」らしい。J君の彼女からネタを仕入れたJ君本人が力説していた。
旅のほとんどの決定権を僕とJ君の彼女に握られているJ君にとって、飯だけは自分で決めなくては気が済まない聖域である。
チェーン店でなければどこでもいい僕にすれば、食べたいものを食べることでJ君の機嫌がいいのであれば御の字。
J君の探し当てたラーメン屋でラーメンをすすり、満腹感に包まれながら帰路についた。




帰り道の酒田市内は、やったら混んでいた。
しかも、ピクニックかと思わせるような荷物を持った人がずいぶんと歩いている。
J君の彼女が、あ!と声をあげ、今日は花火だ!と叫んだ。
ということは、もうすぐ日が暮れれば空いっぱいの花火が見れるのか、と思いながらJ君に話を振ると、花火にも興味がないようだった。
たしかに僕としても、花火を見てから帰るくらいなら、即身仏のお披露目を見ていたほうがよかったので、ここまま帰ることに即座に同意した。




と、この日は宇都宮へ帰ったのだが・・・。

(つづく)



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