「姨捨山って月の名所だというから、老人はそこへ棄てられても、案外悦んでいたかも知れませんよ。
今でも老人が捨てられるというお触れがあるなら、私は悦んで出掛けて行きますよ。」
と、井上の母が言う。
自虐的にも聞こえながら、どこか快活さをともなっている台詞に、僕も面食らってたじろいだ。
表題作『姨捨』は、井上と兄弟と母の話だ。
姨捨の話題から、家族の心理をあぶりだす。わがままというか、孤高というか、井上兄弟はそんな母の言動についていけないようだ。
今どきならば、「私のお葬式は派手にして参列者には喜んで帰ってもらってね。でも、お墓はいらないわ。」とか言う状況に近いか。
お墓の話題がでて、老人が思い描いているほど、ほかの家族は死の現実味がないことに気づく感じ。
先送りしていた近い将来の課題を口にして、軽くたじろぎながら、あらためて家族ひとりひとりとの関わり加減を振り返る。そんな話の流れだ。
そんな会話は、健全な家族関係ならばどこの家庭でもいつか話題にのぼること。
そして、それに対してたいてい長子がなんらかの行動を起こす場合が多い。
井上の場合は、九州にいる妹に会おうとする。そして、何度も車窓から眺めていた姨捨の地をじかに訪ねてみようとする。
無関係のことのような、答えなどないような、だけど直接会っておこう、この目で見ておこうとする行動は、今の僕にうまく説明はできないのだけど、無駄ではない気がする。
たぶん、それはいづれ、僕が親と「そのとき」の会話をしたときにわかるかもしれない。
その他、気に入った短編は2編。
『グウドル氏の手套(テブクロ)』。
井上少年を育ててくれた、曽祖父の妾・おかの婆さんの大事にしていた大きな手套。「套」の字を使うところが、ものの良さを表しているように思える。
若い時分、公式の場に招かれた曽祖父に付き添って行ったおかの。しかし、彼女は会場には入れなかった。
たぶん、彼女の立場が妾だったからだと、僕も思う。
冷たかったであろう周りの対応の中、ほかの婦人と同じように接してくれたのがグウドルさんだったのだろう。
そのとき貸してくれて、ついぞ返せずじまいだった手套は、それからあとの湯ヶ島で過ごした生活での彼女の自尊心でもあるようだ。
グウドルさんの手套は、たぶん大きくて、牛ではなくて羊あたりのなめし皮で拵えた品のいい上物だろう。
おかのはそれを、使うのではなく、大事にしまっておいた。近隣の好奇の視線にも耐えた、心に秘めた気丈な矜持のように。
たとえば、机の引き出しに、ふだん見ることもなく、ただし、大事にしまっておく思い出の品のように。
「あのとき」の自分を忘れないように。そんな自尊心の形見ならば、小さいながらも僕だって持っている。
『四つの面(マスク)』。
中学教師・斉田斉三いわく、人間には、他人に見られてはいけない四つの面(顔、表情)があるらしい。
お金を勘定している顔、人に嫉妬している・人を呪っている顔、性交しているときの顔、そして、厠の中の顔。
前三つはたしかにそうだろうが、厠の中は、見られては、ではなくて、見ては、のほうの気がするのだけど。
厠の顔を見られた故事をひきあいに、ヒヤリとして話を結ぶ。
ともかく。
幼少期を伊豆の山中にて、曽祖父の愛妾とふたりで過ごした経験をもつ井上靖。
そんな少年期をもつ人間はそういない。
好むと好まざるとに関わらず、その経験は井上の創作活動において、生涯、トラウマのように意識の底にこびりついていたのだろうという思いを持った。
そう、どの短編も、「姨捨」という場所や、子に執着するちか女や、孤猿を体現している石村や、面という表情や、手套という物や、または月や川など、
何かにとり付かれているような、トラウマや執着とでも言うような語り口だったような気がする。
井上自身が、「俘囚」となっているかのように。
それは吉村昭の初期の短編のような、脇汗が引かない感覚の主人公と読者、といった具合だった。
満足度は6★★★★★★
姨捨 (新潮文庫 い 7-16) | |
井上 靖 | |
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