wikipediaより
【穂積 祖足】(ほづみ の おやたり、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物。カバネは臣。穂積磐弓の子。
推古天皇8 年(600年)に初の征新羅副将軍に任命された。『日本書紀』に記載がある。
経歴
祖足は父とともに推古天皇に出仕した。推古天皇8 年(600年)に任那日本府救援のために境部摩理勢が征新羅大将軍に任じられると、祖足は征新羅副将軍に任ぜられ、約1万の軍勢を率いて新羅に出征した(新羅征討計画)。結果、五つの城を攻め落として新羅を降伏させ、さらに多多羅、素奈羅、弗知鬼、委陀、南迦羅、阿羅々の6つの城を攻略して倭国への朝貢を約束させた。
系譜に関して『日本書紀』に記載はない。
父:穂積磐弓
母:笠味夫の娘、黒斗売(くろとめ)
生母不詳の子女
長男:穂積咋
次男:穂積人足
三男:穂積乙咩
四男:穂積古閉 - 子孫は紀伊国「藤白神社」社家、藤白鈴木氏。
【穂積咋】
(ほづみ の くい)は、日本の飛鳥時代の人物。カバネは臣。大化元年(645年)に初の東国国司に任命された。父は穂積祖足、子に穂積百足と穂積五百枝がいた。冠位は、小乙下、大山上。
概要
大化元年(645年)に初の東国国司として派遣される。同年9月19日に地方の国司に対して善政を行うよう孝徳天皇の勅命が出されたが、大化2年(646年)年3月、任国で咋が行った不正が報告されている。しかし大赦によって大きな処分は免れている。
大化5年(650年)3月には天皇の命を受け、謀反の嫌疑がかかった右大臣・蘇我倉山田石川麻呂にその真意を問い質した。その後、石川麻呂の討伐軍として蘇我日向とともに出兵、逃亡先の山田寺を軍兵をひきいて包囲し、すでに妻子らとともに自殺していた石川麻呂の首を斬らせた。
父:穂積祖足
生母不詳の子女
長男:穂積百足
次男:穂積五百枝
【推古朝の新羅征討】
日本書紀によれば、飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事行動が計画された。西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。これを回復するための「征討軍」が推古朝に3度、計画され、1度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している。
第1次新羅征討
1度目は推古8年(西暦600年)2月で、任那を救援するために新羅へ出兵した[1]。蘇我氏の一族である境部摩理勢(境部臣)が征新羅大将軍に任命され、副将軍は穂積祖足(穂積臣)であった[1]。五つの城が攻略され、新羅は降伏した[1]。さらに、多多羅(たたら)、素奈羅(すなら)、弗知鬼(ほちくい)、委陀(わだ)、南迦羅(ありひしのから)、阿羅々(あらら)の6つの城が攻略された。難波吉士神(なにわのきしみわ)を新羅に派遣し、また難波吉士木蓮日(なにわのきしいたび)を任那に派遣し、両国が倭国に朝貢を約させた。しかし、倭国の軍が帰国したのち、新羅はまた任那へ侵攻した。
翌推古9年(601年)3月には、大伴連囓于(おほとものむらじくひ)を高麗(こま)に派遣し、坂本臣糠手(さかもとのおみむらて)を百済へ派遣し、任那救援を命じた[1]。
推古9年(601年)9月8日、新羅の間諜(うかみ。スパイのこと)である迦摩多(かまた)が対馬に上陸したところ、捕えられて、上野国に送還された11月5日、新羅への第二次征討計画が図られる。
第2次計画
推古10年(602年)2月、聖徳太子の弟来目皇子が征討将軍として軍2万5千を授けられる。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営した。6月3日、百済より大伴連囓于と坂本臣糠手が帰国する。しかし、来目皇子が病を得て新羅への進軍を延期とした。なお、10月に百済の僧侶観勒が倭国に訪れる。
来目皇子は、征討を果たせぬまま、翌推古11年(603年)2月4日、筑紫にて薨去。来目皇子は、周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山)に殯し、土師猪手がこれを管掌した。
第3次計画
推古11年(603年)4月、来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が征討将軍に任命される。推古11年(603年)7月3日、難波より出航し、7月6日に播磨に到着するが、妻の舎人皇女が明石に薨去したため、当摩皇子は朝廷に帰還し、計画は潰えた。
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穂積祖足と聖徳太子の弟来目皇子や当麻皇子が、同じ任務に就いていた。が、来目皇子は病で亡くなり、当麻皇子は妻が無くなったために中止し、二人は結局は進軍していない。
穂積皇子と何等か関係があるのだろうか?
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=uyZEOgR4sGAJ&p=%E7%A9%82%E7%A9%8D%E4%BA%94%E7%99%BE%E6%9E%9D&u=www7a.biglobe.ne.jp%2F%7Ekamiya1%2Fmypage491.htm
上記のweb情報には、
日本書紀を紐解くと天智天皇の大津遷都により、滋賀大津京に来ていたと思われる穂積一族でしたが、壬申の乱により穂積百足(ももたり)、弟五百枝(いおえ)らは彼らの古里に近い明日香に派兵され、武器庫の警備にあたっていました。
ところが天武天皇側の舎人、吹負(ふけい)の計略により急襲され、穂積百足は殺され、穂積五百枝らは許され、天武軍に組み入れられたのです。そんな中で穂積皇子がうまれたということになります。
・・・とあります。
米沢でも珍しい苗字なのですが、米沢には九里学園という高校もあり、何か関係のあるお家なのかな?ぐらいに思っていました。
全国の九里さんとのつながりはどうなのでしょうね・・
すみません、ついつい気になって書き込んでしまいました。苗字の歴史を探ることは面白いですね。
とても勉強になります。
久利・九里・久里~みんな繋がっているのでは?と思って、その足跡を探しています。
山形の九里さん周辺は、まだこれからです。
その周辺、なかなかきっかけが見つからないでおります。。。
山形の九里さんの事、私も知りたいです!
お知り合いの方、無事に見つかるといいですね。
kunorikunori