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衝撃 用明天皇と崇峻天皇は平安時代末期の写本の【日本書紀】であった。+広姫と広媛

2023-09-06 | 古代からのつながり
八木書店さんのページより
『日本の古代を知るためにもっとも重要な史料の一つが、『日本書紀』です。奈良時代の720年に成立した、いわゆる六国史(りっこくし)の第一にあたる歴史書で、本文全30巻と系図1巻とがあったとされます。本文、系図ともに奈良時代の原本は現存していませんが、本文の全30巻については後世の人々により書き写された本が残っており、原本を知るよすがとなっています。』




日本書紀 : 秘籍大観 巻第21・22


*****

さて、息長広姫(息長真手王の娘)の陵が近江国坂田郡にあることがわかった。





息長真手王の娘(麻績郎女)は継体天皇の妃として荳角皇女を産みんでいる。‥‥とwikipediaにある。
荳角(ささげの)皇女(伊勢斎宮) と、コトバンクにある。

しかし、二人の娘と言われている麻積郎女広姫は年が離れすぎており、
どちらかの伝承が間違いなのではないか…ということである。




上記を見ると、継体天皇に嫁いだ【広媛】がいるではないか!
ともに継体天皇に嫁いだ女性なのだろう…と思った次第である。



継体天皇の妃となった女性の父はどのような家柄であったのか。




これまでに天皇に嫁いだ例があったかどうか。

上記の広媛と広姫の問題の答えと思われる記事を見つけた。↓



息長氏を継いだのは末子「沙禰王」でその子が息長真手王である。
この真手王の娘とされた「広姫」は実は分家息長氏出身の26継体天皇の実子「阿豆王」(記紀にも記録あり)と真手王の娘との間に出来た娘である。 

つまり、広姫も継体天皇の血を継いでいたのである。
阿豆王…を調べてみよう。

継体天皇の妃であった和珥荑媛はえひめ。和珥臣河内の女)
  • 稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
  • 円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)
  • 厚皇子(あつのみこ。阿豆王
なるほど!
ココで和邇氏かつ息長氏・継体天皇ともつながる女性が【広姫】となり、敏達天皇の嫁ぎ【押坂彦人大兄皇子】を産むことになる。

押坂彦人大兄皇子の息が舒明天皇(諱・田村)と茅渟王 となる。

茅渟王は桜井皇子の女の吉備姫王(吉備島皇祖母命)を妃とし、
宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)を儲けた。 

共に欽明天皇から生まれた敏達天皇と用明天皇であったが、妻とした家系は違い、そのあたりから蘇我氏と離れようとしてきた敏達天皇の系が爆発したのが『乙巳の変』のように思えた。


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