対馬守藤原親光
『対馬守親光は頼朝の外戚』と様々な本に書かれているが、そこから突っ込んだものが見当たらない。想像でも良いので、知りたいので、調べてみることにした。
東京大学史料編纂所の研究報告に中原清業から藤原親光に「対馬守」を交代させた経緯が載っていたが、清業に過があった訳でもなく頼朝の要望で交代させられ「親光」となったことがわかる。
その註(41)に
『尊卑分脈』には親光は右大臣内麿孫として実光│ 資憲│親光という系譜で見え、親光の姉妹が平教盛の室で通盛・教経の 母であることは見えるけれども、頼朝との関係は定かではない。~~~とある。
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/23/kiyo0023-01.pdf
私は、「親光」という人物が中原親光ではないのかどうかに興味があったのだが、当の中原親光が「対馬守」となった形跡はない。また、他にも厳島神社の藤原親光が二名いたが、いずれもどのような人物であったかを確かめることができなかった。
で、この報告の中の註にも記載のあった「実光ー資憲ー親光」を探してみると、「藤原北家日野流」であった。
日野氏と源頼朝の接点は、私の知る限りで二つある。
ひとつは「親鸞」である。
親鸞の父は日野有範と言われており、母親は「吉光女」(きっこうにょ)と言われており、この吉光女は清和源氏・八幡太郎義家(1039-1106)の孫娘と言われている。
http://www.heibonnotomo.jp/japaneseworld/id383.htm
二つ目は、一つ目とも関連するのだが、
為義の母親が日野から出ていたのある。ということは頼朝にとっては曽祖母が日野だったのである。
この二つ以外にも接点はあったかもしれないが、私が調べることができたのはこれらであった。
「日野」と聞いただけで、曽祖母、祖父為義に思いを馳せてしまったのだと思う。そして、親鸞は頼朝の甥という説も、私的には合致する。
実は日野流には他にも有範という人物がいて、この曾祖母となる方の近くに居たので、その方もアヤシイのでは…と。
でもそこは深入りはしないでおこうと思う。調べていらっしゃる方が多数なので、きっと他の方が調べてくださると思う。
そこよりも、もっとすごいことが見つかってしまったのだ。
日野の中に、源有仁の勾当をしている人物が二名いたのである。しかも、号猫間って、義仲の時に聞いたことのある名前!(時代は違うが)
この勾当のことは、今まで調べてきた「散位源行真申詞記」の解明につながったようなのである。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/友員
『対馬守親光は頼朝の外戚』と様々な本に書かれているが、そこから突っ込んだものが見当たらない。想像でも良いので、知りたいので、調べてみることにした。
東京大学史料編纂所の研究報告に中原清業から藤原親光に「対馬守」を交代させた経緯が載っていたが、清業に過があった訳でもなく頼朝の要望で交代させられ「親光」となったことがわかる。
その註(41)に
『尊卑分脈』には親光は右大臣内麿孫として実光│ 資憲│親光という系譜で見え、親光の姉妹が平教盛の室で通盛・教経の 母であることは見えるけれども、頼朝との関係は定かではない。~~~とある。
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/23/kiyo0023-01.pdf
私は、「親光」という人物が中原親光ではないのかどうかに興味があったのだが、当の中原親光が「対馬守」となった形跡はない。また、他にも厳島神社の藤原親光が二名いたが、いずれもどのような人物であったかを確かめることができなかった。
で、この報告の中の註にも記載のあった「実光ー資憲ー親光」を探してみると、「藤原北家日野流」であった。
日野氏と源頼朝の接点は、私の知る限りで二つある。
ひとつは「親鸞」である。
親鸞の父は日野有範と言われており、母親は「吉光女」(きっこうにょ)と言われており、この吉光女は清和源氏・八幡太郎義家(1039-1106)の孫娘と言われている。
http://www.heibonnotomo.jp/japaneseworld/id383.htm
二つ目は、一つ目とも関連するのだが、
為義の母親が日野から出ていたのある。ということは頼朝にとっては曽祖母が日野だったのである。
この二つ以外にも接点はあったかもしれないが、私が調べることができたのはこれらであった。
「日野」と聞いただけで、曽祖母、祖父為義に思いを馳せてしまったのだと思う。そして、親鸞は頼朝の甥という説も、私的には合致する。
実は日野流には他にも有範という人物がいて、この曾祖母となる方の近くに居たので、その方もアヤシイのでは…と。
でもそこは深入りはしないでおこうと思う。調べていらっしゃる方が多数なので、きっと他の方が調べてくださると思う。
そこよりも、もっとすごいことが見つかってしまったのだ。
日野の中に、源有仁の勾当をしている人物が二名いたのである。しかも、号猫間って、義仲の時に聞いたことのある名前!(時代は違うが)
この勾当のことは、今まで調べてきた「散位源行真申詞記」の解明につながったようなのである。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/友員