昨日の鏡大明神の部分に書いたように、神功皇后が関係していたらしい。
鏡が神にささげるための祭祀の重要な物(姿が映し出されることを考えても、祭祀をする人の分身的な存在)であったと思う。
久里双水古墳で見つかった鏡は、古墳時代前期前半「平縁盤龍鏡」との説明がある。
同時代なのだろうか?
神功皇后の夫であった【仲哀天皇】【応神天皇】に関して、調べてみた。(歴代天皇年号事典 米田雄介 編 吉川弘文館)
【仲哀天皇】
『古事記』『日本書紀』に第十四代と伝えられる天皇。和風諡号は足仲彦尊。
景行天皇の皇子日本武尊の子。母は垂仁天皇の女 両道入姫皇女。
紀によれば、子に皇后気長足姫尊(神功皇后)の生んだ誉田別皇子(応神天皇)…
九州南部の熊襲征討のため、穴門豊浦宮から進んで筑紫かし日宮に至ったが、西方の新羅国を征討せよとの神託を信じなかったため、筑紫に没したという。
紀はそれを九年二月のこととし、年齢は記紀ともに五十二歳とする。天皇没後神功皇后は新羅を征し、帰還後九州で応神天皇を生み、かご坂・忍熊両皇子の反抗を排して大和に至り、皇后の没後応神が皇位についた。
【応神天皇】
『日本書紀』『古事記』に第十五代と伝える天皇。和風諡号は誉田別尊。
『日本書紀』応神紀には、もと去来紗(いざさ)別尊といったが、太子になってから角鹿の筍飯(けひ)大神と名前を交換して誉田別尊と称するようになったとの別伝がみえる。
応神朝は前朝から引き続き武内宿禰が勢力を有したと伝えるが、この朝になると、王仁(わに)・阿知使主(あちのおみ)・弓月君其の他の帰化人の渡来、それに伴う大陸の文物・技術の導入、中央における大規模な耕地開発などの所伝が急に多く現れてくる。またこのころから鉄製農工具・武具が普及して中期古墳時代に入ったとみられ、記紀の記述にもある程度史実性が加わってくるなど、前期までとかなり様相を異にする面がある。・・・
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…ということは、久里双水古墳も古墳時代前期、仲哀天皇・神功皇后も古墳時代前期であるようだ。
仲哀天皇の叔父にあたる成務天皇(仲哀天皇のひとつ前の天皇)は、『古事記』には穂積らの祖。建忍山垂根(たけおしやまたりね)の女 弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶り、和け奴気王(わけぬけおう)を生んだとある。(け=言遍に可)