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源義経の息が「乾氏」となり、娘が源有綱の室(有綱=源頼政の孫)であった。(2)

2019-11-16 | 清和源氏

「義経記」関東より勧修坊を召さるる事…とある。
義経の息「乾氏」の母親「勧修坊女」のその勧修坊は、つまり勧修坊聖弘ではないかと思う。

とても興味深いので、wikipediaをそのままコピーする。

聖弘(しょうこう、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の興福寺の僧。塔頭の勧修坊を住坊とした。 聖弘得業、周防得業(すおうのとくごう)聖弘とも称される。

『吾妻鏡』によれば、文治2年(1186年)2月、源頼朝と対立し、都を落ちのびた源義経を匿った事により、翌文治3年(1187年)3月8日、鎌倉に召し出されて頼朝の尋問を受ける。

聖弘は義経と師檀の関係であり、平家追討の際には義経の依頼によって祈祷を行っていた。その縁により都落ちの際に南都に逃れてきた義経を一時匿い、頼朝と和解するように諫めて下法師らを付けて伊賀国へ送り出し、その後は音信不通となったという。

謀反人の義経を匿い、祈祷を行った事を詰問する頼朝に対し、聖弘は師弟のよしみで頼ってきたので迎え入れたものであり、祈祷は義経を諫めて逆心をなだめるもので、何ら罪になるものではないと答えた。

また、そもそも今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言によりその奉公を忘れ、恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然であり、予州(義経)を召し返して兄弟で水魚の交わりをする事が国を治める方法というものである。これは義経を弁護するものではなく、天下静謐を求めてのことであると答えた。

この聖弘の態度に感心した頼朝は、勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を行うよう命じている。

『玉葉』によれば、文治5年(1189年)12月には在京している。『義経記』には勝長寿院縁起物語として「勧修坊(かんしゅうぼう)物語」が描かれ、勧修坊(聖弘)が勝長寿院の別当、あるいは開基として語られている。

==*==

聖弘の素晴らしい対応! 
この方の娘が生んだ息が「乾氏」(南都衆)という系図が前回の本朝武家評林大系図である。

例えば、小笠原貞宗の母は、中原氏という説と赤沢氏という説があるのだが、どうかな?と思って系図を見てみると、そこには何も書かれていなかった。
他にもいくつかそのような、確かではないけれど伝承ではこう言われている…という事に関しては書かれていないことが多かったので、この系図は私の感じでは、信頼性があるのではないか?と思うのだが、現代の評価は如何だろうか?

もう一つ、源有綱室に関しても以下のwikipediaが参考になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%9C%89%E7%B6%B1#%E6%9C%89%E7%B6%B1%E3%81%AE%E5%A6%BB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

有綱は「頼朝の弟である源義経の与力に組み込まれる。家臣というより同盟者に近い関係」とあった。

===*===

もう一度「勧修坊の娘を母に持つ乾氏」に話を戻すと、義経と乾氏の関係に関し、平城坊目遺考という本にも記載があった。
「勸修坊今廢亡里傳云源義經文治元年逐電
已後潛居興福寺勸修坊至異本義經記系圖目義經通興福寺眾徒乾氏之女而有一子合相續今景乾氏衆徒是力云」

https://books.google.co.jp/books?id=lHdGAQAAMAAJ&q=%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA+%E4%B9%BE%E6%B0%8F&dq=%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA+%E4%B9%BE%E6%B0%8F&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjBt5_e2u7lAhXTMN4KHcwdAjoQ6AEIKTAA

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