九里 【九里】を探して三千里

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安井権守源頼高の父を探す。頼高の母は「源義経の娘」と云う。

2020-01-23 | 清和源氏

本来の九里探しを忘れてはいません。(弁明)
でも、この話はとても気になります。
どこかで、重なっているような気がしているのです。

===*===

http://kuwaichi.dip.jp/u_2_3.html

http://kuwaichi.dip.jp/2_3_4.html

上の二つの記事を読んで、気になって仕方がないので、私なりに考えてみようと思う。

安井権守源頼高の父は「頼基」というそうだ。その頼基の妻となったのが義経の娘になる。

まず「安井氏」を全く知らないので調べてみよう!

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/yasui1.htm
「浅野長政の実父系・安井氏」とある。

源頼政と源光重(土岐氏よりの養子:深栖光重)の例もあるので、土岐光基の息である「頼基」も関係があるかもしれない。
土岐の頼基の立ち位置というか、系図の場所が一定ではなく、光基の三男であったり、光長の五男であったり、もしくはもっと離れて光基の弟?光義 - 光国-光有-伊賀頼基であったり、である。

何故「頼基等の実の息子たち」ではなく、養子の「光衡」に土岐氏を伝えていったのか、その謎と関係があるのだろうか?

国長、光経、光衡は「源光長の息たち」で本当の兄弟である。
前の記事で、「光経の息光助が長沢になった」と書いた。

今度は、光衡の義理の兄弟「頼基」なのだろうか。
光基の息という事は、光基の娘と兄弟姉妹である。
波多野秀宗の妻が光基の娘であるので、藤原秀康、藤原秀能の叔父が頼基となる。

其の源頼基(父が土岐光基)
1207年2月12日に「頼高」が生まれたとある。

「頼隆」も頼高と読めるが、系図の場所が後ろ過ぎるので、光基の孫あたりの年代かその一代後と思う。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asano_k.html

「浅野氏」と「安井氏」が関係していることからも、何かありそうである。

ちょうど満仲をいれて八代目に土岐光基の息の頼基がいる! 
安井氏になった頼基は、土岐氏の光基の息のことではないだろうか?


野木氏のことは、長沢氏の件で出てきた同じ「光綱」がいるために、どこかで混乱したのかもしれない。

ただ、土岐氏と佐々木氏で、何等かあったのか…・とも思われる。

「佐々木義清」の周辺と関係がありそうなことがらは、

この義経の娘は、亡くなったと言われている「河越重頼の孫」のような気がする。
なぜなら、河越氏と渋谷氏は同じ秩父氏の一族であるのだが、渋谷氏には佐々木氏が婿に入っている。
そして生まれたのが「佐々木義清」である。
さらに妻は大庭景親で、波多野氏もお世話になっている。

河越重頼の娘は「郷御前」と言い、母親は比企尼の二女である。

wikipediaによると
「義経が京都の近辺に潜伏していた文治2年(1186年)に娘が誕生している」
「文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の命を受けた藤原泰衡が、従兵数百騎で義経が暮らす衣川館を襲撃。義経は持仏堂に入り、22歳の郷と4歳の娘を殺害したのち自害した。 」とある。

4歳の子。1207年には21歳である。
この河越氏の郷御前の娘なのではないだろうか?

そして、河越氏にいては危ないので、渋谷氏を通じ佐々木義清へ。
佐々木高綱の息であった「光綱」と共に育った可能性もあるのではないだろうか?
光綱は1187年生まれである。

さらに光綱の妻は「佐々木義清の娘」とある。
ひょっとすると河越重頼の孫娘かもしれない。。。と想像は膨らむが、そうなってくると安井氏との関係はどうなのだろうか。

二つの別々の事のようにも感じる。

wikipediaで安井氏を見ると「清和源氏の一流河内源氏の流れを汲む足利氏の一門、畠山氏の庶流にあたる。 」とある。
畠山氏も「秩父氏」である。

日本通信百科事典によると
畠山氏の項なのだが「庶家に岩松氏・下野田中氏・美濃畠山氏・二本松氏(奥州源氏)[2]・渋川氏(河内渋川氏)・安井氏(河内渋川氏の庶家)などがある。 」とある。

難しすぎて、よくわからない。。。

===*===

wikipediaの安井重継というページの「安井氏」「浅野氏」の註を読むと、どちらも土岐氏の関係となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E9%87%8D%E7%B6%99

名古屋市博物館紀要
研究紀要第30巻

900円 A4判76頁。(2007)

尾張藩士安井将監家の新旧家譜考-安井将監秀勝「秀長」改名記事を中心に-、太刀拵佩緒結びの雛形、二躯の大日如来像(興正寺ならびに水野平蔵家伝来)について、絵葉書のイメージ・リーディング


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2 コメント

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Unknown (りひと)
2020-01-25 10:11:36
昔京都の八坂神社に行った際にこちらに戻り行くべきだったと思った場所が安井金比羅宮、なんか写真がインパクトあっただけかと思ってましたがその後の自分の行動とこんぴらさんとの接点を考えると深読みしますね。で安井くんって昔超頭いい子いたなあなんて思い出したり。安井は地名等からかな?と虎ノ門金比羅で想像しちゃってましたけど、氏族なのかな?ちょっと調べてみますね。東京の虎ノ門の金比羅さんでは黒い髪を〜などの信仰が江戸時代にあったらしいなんて今年気付いたんですけど、奈良の黒髪山とかちょっと想像してしまいました。遡ると聖武の母の系統と繋がると個人的には納得しちゃうんですけどね。大事な自分の一部でもある髪を奉納するっていうのは、怖い印象で見られる事もありますけどなんか素直な感じな行動が初期にもあったろうし。また黒髪はどうも美人なり妻にしたいキーワードとしても伝説等でもありますよね。葉酸が多いとか昆布とか食べていたとか食生活とDNAとのコラボでの黒髪かなぁ?とも思ってしまいます。髪の毛織り込むとかお経には髪じゃなく皮膚だっけ?なんか聖徳太子の頃からあったような?忘れちゃいました。

こんぴらは水神さんでしょうし、海藻とか髪とかもこちらの関心ごとへ入ってくるとちょっと面白くなりますが、古代よりも鎌倉は確実に知っている知識を共有している一族がいるはずなので行動で見えてくる事あるでしょうね。

で私のワークの方でも実は比企氏の乱に辿りついてしまってます。どうも北条と争っていたようですね。それを考えるとどうも私は比企氏の女系を調べる事になりそうですよ。あと日蓮さんの近くにいた僧も出てきたんですよ。父も関係していそうですけどどうも父以外にも接点がありそうで不思議な展開です。

自分のワークはより縁を感じやすくするためにはとても有効でまた生きやすくなっています。比企は今後調べなくても私の周りに出てくるワードになりそうです。
尼将軍は髪が無くなった肖像画は教科書に載っていたように思いますが、どんな黒髪か?分かる資料とか描写とかないかな?黒髪は嫉妬の元になっているようですけど嫉妬しないで役割分担できていたらいいのにとは思いますよね。尼になれば目立たなくなるなら多分鉢被るよりも見栄えはいいかもしれませんよね。

そうそう鉢も今後キーワードになりそうに思いますよ。
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Unknown (りひと)
2020-02-01 10:20:51
今東京のテレビでお名前の番組の多分再放送やってまして、大阪の道頓堀の道頓さんの事やってます。
治水出来る民族っぽいですね。松平さんが名前残したってのも意味ありそうですよ。安井氏繋がるか?記事と分かりませんが入れておきますね。
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