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永田時信を遡ると、師季、の周辺 (2)

2020-06-12 | 永田氏

そう言えば、コレ↓を見ていたのだった。忘れていた。
「隆清の遠縁にあたる平時信は,若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり。とあるではないか!! 遠回りしてしまった。。。。


長田(中世) Logosより

室町期から見える地名若狭国遠敷【おにゆう】郡のうち応永28年11月19日の幸阿如法経米寄進札銘によれば,「〈長田〉願主幸阿」が明通寺へ如法経米10石を寄進している(小浜市史金石文編)また,正長2年6月の若狭太良荘地頭方田数百姓名寄帳(東寺文書3/大日古)に,馬上免畠地子を負担した「〈長田〉右近入道」が見えるこれらの地名は,文永6年11月5日の恒枝保内太良荘押領田地坪付注進案(東寺百合文書ゑ)に見える恒枝保内にあった太良荘田「長田」「永田」という地字と同一のものであろうか年代は下るが,天文8年12月24日のりうせん(竜前)小次郎大夫田地売券に「在所遠敷長田之下横田森下也」,同日付の同人寄進状に「長田之横田下也」とも見える(西福寺文書/小浜市史社寺文書編)なお,太良荘の開発領主丹生二郎隆清の父師季は「長田下野守平朝臣師季」と称され(東寺百合文書ア),また,この隆清の遠縁にあたる平時信は,若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり,長田(永田)を名字地とする平師季流があったこれが当地と同じものとすると,当地名は平安期にさかのぼる可能性がある現在上中町野木の玉置地内に上長田・下長田の小地名があるが,関係あるか

===*===

という事は、やはり高棟流となる。
つまり遠敷太良荘の長田保の永田時信と高島郡大田荘(後に音羽庄永田)の平惟仲とはつながっていて、この高島郡の「永田」という苗字は遠敷から来た可能性もあるという事である。



この系図の中に本郷進士刑部丞頼忠(善願)と本郷公文藤原守綱がいる。
この「本郷」も、あの本郷氏の本拠地の本郷を管理していた人と思われる。

また、藤原守綱は「公文 守綱」で検索すると「倉見庄」と「三郡の所在公文掃部丞守綱といへる」とBan Nobutomo zenshū, 第 46 巻にあった。
また、民衆の生活と文化 宮本常一他著 によると、
『「大音文書」建治三年三月五日、御賀尾浦刀祢職補任状に賀茂守綱が現われ、
鎌倉末期の刀祢又二郎も、「伊香系図」には ... 賀尾浦地頭年貢注進状に、公文伊香資
が現われることで、恐らくは伊香一族は、倉見庄公文の地位にあったのではなかろか』とある。

倉見庄神子浦は中世では御賀尾浦(御面・三河・三賀)と呼ばれていた。

藤原守綱=大音氏=賀茂守綱=伊香氏のようである。

神子(みこ)神社 三方上中郡若狭町神子
http://www.komainu.org/fukui/mikatakaminakagun/MikoTsunekami/miko.html

神子は、昭和44年の県道の開通までは、常神と共に陸の孤島であった。この集落には、平安時代から明治にかけての800年間に渡る歴史や漁村の生活を知ることができる貴重な『大音文書(おおともんじょ)』が残されている。多くの文書が桐材の背負い櫃に収められ、大音家に先祖代々守り継がれてきた。それらの文書334点、冊子110点は県の有形文化財に指定されている。
大音家は、所蔵の系図によると、近江の国伊香郡伊香村大音の、伊香具神社神主の四男神四郎安宗が、若狭国御賀尾浦(みかおうら、現神子)へ移住し、神子、常神の領主となり、刀称職を伝承しながら、姓を伊賀から賀茂、現在の大音に改称したと記されている。神子集落の先祖は、大音家一門と在来住民の合流といわれ、少しの田畑と山の幸、海の幸で生活してきた。元亨3年(1323年)の文書に「たて網」の記述があり、古くから漁業が主であったが、寛保2年(1742年)頃から藩の奨励によって桐実(ころび)の栽培が盛んになり、昭和初期まで続いた。
神子集落では限られた土地で生きるために、次男以下に漁業権や田畑が与えられず分家を許さない掟があり、戸数は長年に渡り36戸で変わらない。現在ではこのうち23戸が民宿を営んでいる。
神子という集落の由来は、御賀尾湾の「みかお」や、常神集落と共に、神にまつわる伝統や地名が多いこと、常神社に対して、神主の出である大音家から馬1頭をはじめ、高額の寄進をしていることなど、神と強く結び付いた歴史から、神の子の呼び名が最もふさわしいものとして付けられたように思われる。

===*===

やはり、湖北と結びつきがあった!

まだ続きます。



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