九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

永田時信を遡ると、師季 さらに遡ると、、、

2020-06-12 | 永田氏

永田胤信の領していた高島の音羽庄。元は大田荘といい、「平惟仲」と関係があるという。



この平惟仲の父は平 珍材(たいら の うづき)といい、もっとさかのぼると【平高棟】につながる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%8F%8D%E6%9D%90

===*===

永田時信の先祖の周囲を遡っていくと、永田忠政・丹生隆清・平師季と遡ることができるようだが、その平師季は「出羽守源信明の館を襲撃して源義綱の郎党に鎮圧された平師妙と子の平師季は西獄に梟首された。」とある、この梟首された人物なのだろうか? 親子となっていたが…

師妙と師季の前は、平国妙なのではないか…と言う説もある様であるが、はっきりとしていない。
ココがわからない。それに、もしも平行義の息とすると「師妙」は一体どなた?となってしまう。(義父?)

若狭平氏と言われ長田師季とも呼ばれていたようである。

===*===

以前永田時信を平時信と同一人物と思っていたが、どうなのだろう?
もっと若狭国に土着していた師季と時信だったのではないだろうか?

永田時信(?-1150年前後)と知信の息の「平時信」とは別人かもしれない。
同時期に活躍していたのかもしれない、と用心しつつ調べてみることにする。

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%B9%B3%E6%B0%8F%EF%BC%88%E9%AB%98%E6%A3%9F%E6%B5%81%EF%BC%89

経方

生没年:
父:右衛門権佐 平範国
民部大輔
春宮亮

知信息に時信

生没年:-1144
父:春宮亮 平経方
中宮大進
出羽守
兵部大輔

この知信の祖父範国の弟に「師季」が見える。

平行義

生没年:
父:従二位参議 平親信
武蔵守
室:
範国
師季
行親

===*===

時信

生没年:?-1149
父:兵部大輔 平知信

検非違使
兵部権大輔
1143 正五位下
贈左大臣正一位

室:少将局(父:大膳大夫 藤原家範)
1126-1185 従二位 二位尼 時子(従一位太政大臣 平清盛室)
1127-1189 時忠
妻:藤原祐子(父:権中納言 藤原顕頼)
1142-1176 建春門院 滋子(後白河天皇女御)
盛子(内大臣従一位 平宗盛室)
妻:(父:藤原基隆)
1142-1199 親宗
女:
冷泉局(建春門院女房)
娘(藤原親隆室)
-1185 帥佐(建春門院女房)

この知信の息である時信には出羽の文字も、越前も、若狭も、見えない。

===*===

平行義の息に「師季」とある。行義の父は「平親信」である。

平親信

生没年:945-1017
父:伊勢守 平真材

971 文章生
972 右衛門少尉
972 左衛門少尉
974 検非違使
975 従五位下
975 筑後権守
977 阿波守
977 従五位上
984 右衛門権佐
985 近江権介
985 正五位下
986 従四位下
986 従四位上
999 修理大夫
999 皇太后宮権亮
1000 正四位下
1001 山城守
1001 従三位
1004 正三位
1005 備中権守
1007 従二位
1015 参議
室:
重義
行義…子の息に「師季
筑前守 理義(子:-1063 文章博士 定親)

===*===

もしも知信の息の「平時信」とすると、
師季と時信の関係は、師季の兄の曾孫が時信となる!

ところが、若狭の永田時信も師季の曾孫に当たっている。

師季の息に丹生隆清がいたようで、始めは大きかった太良荘を分割して治めるようになったことから複雑になっているように思う。
長田師季は丹生隆清に庄を相伝し、(その後3つに分け)隆清の息永田忠政に渡り、永田時信に一時期渡り(?)(1150年付近に歿す)その後、雲厳に相伝の後にに相論が始まった…と言うことかもしれない。
つまり、東大寺百合文書にある文書は、其の過程を裁判してもらうためのものだったように思う。

忠政は丹生次郎忠政の子息となっていることからも、間違いないが、次に来るはずの「時信」の名がなく、雲厳となっている。

この文書では、永田時信は古東殿とよばれているようである。

時代は江戸時代の人物「古東領左衛門」のwikipediaによると「古東家は琵琶湖の東岸に住む近江源氏の佐々木氏の流れを引く家系で、湖東が転訛して古東になったといわれている。」とある。関係があるのかもしれない。



文書では「長田」と「永田」を分けて書かれていた。
これは、何か意味があるのかもしれない、とも思う。
同じ文書上のことなので、先に書いた者とは、ちがう立場とか、分家とか何かあって、同じ文字を書かないようにした可能性もあるのではないだろうか。
例えば、だが、先に若狭平氏の長田氏が開拓し、後にやってきた荘園管理者を「永田」とした…等。





祖母・母に「小槻氏」とある。



https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn07.html

太良庄(コトバンクより)
若狭国遠敷(おにゆう)郡にあった荘園。現在地は小浜市太良庄。1125年(天治2)平師季の子丹生隆清が私領の松永保恒枝名田,東郷丹生村,西郷太郎畠を太郎忠政に譲与,この田畠を中心に国衙領の太良保が立てられた。史料上の初見は51年(仁平1)。忠政の子若丸は叡山の山僧丹生出羽房雲厳となり,78年(治承2)知行国主により公文職に補任され,治承・寿永の内乱を若狭最大の在庁官人である稲庭時定の指揮下で戦い,鎌倉殿御家人になった。

コトバンクより
福井県小浜(おばま)市太良荘の地域にあった中世荘園。北、東、西の三方を山に囲まれた地で、太良河を中心にした谷田と考えることができるが、荘内には太良、鳴滝(なるたき)などの小谷があり山裾(やますそ)に集落がある。太良荘は12世紀なかばには太良保(ほう)として成立していた。伝領関係の概略は、丹生二郎隆清(にうじろうたかきよ)から譲られた私領が永田太郎忠政らによって開発され、その後、若狭(わかさ)国知行(ちぎょう)国主平経盛(つねもり)を経て藤原実宗(さねむね)の所領となり、さらに1221年(承久3)歓喜寿院(かんきじゅいん)領となり、おそくとも同年には太良荘となって、1240年(仁治1)東寺(とうじ)に寄進された。・・・(略)
[蔵持重裕]
『網野善彦著『中世荘園の様相』(1966・塙書房) ▽網野善彦著『中世東寺と東寺領荘園』(1978・東京大学出版会) ▽黒田俊雄著『日本中世封建制論』(1974・東京大学出版会) ▽大山喬平著『日本中世農村史の研究』(1978・岩波書店)』

===*===
wikipediaに「太良荘」があったので、関係ありそうな部分をコピーすると
「仁平元年(1151年)丹生忠正の孫の丹生雲厳に所領を与えた。
治承2年(1178年)丹生雲厳が保司より公文として認められ、太良保が成立した。
治承・寿永の乱後、関東より若狭守護に任じられた津々見忠季(後の若狭忠季・若狭島津氏の祖)が地頭として太良保に代官を置き、過酷な年貢取り立てや雑役を課し、公文や百姓と対立した。

===*===

まだ続きます。私には難しすぎて…苦戦中。(いつもだけれど…)




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 片岡氏の祖は「壬生氏」かも... | トップ | 永田時信を遡ると、師季、の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

永田氏」カテゴリの最新記事