百済武寧王の世界ー海洋大国大百済 蘇 鎮轍 氏 著作 彩流社
この本から、古代の鏡がどのような意味を持っていたのかがわかるクダリを書き留めておこうと思う。
1.鏡は「除魔具」(厄よけ)であり「権威の象徴」
「神威」をうけたものとして、呪術的性格が与えられたものと信じたようである。
全ての災厄(本では災殃 殃は災いという意味)を退けると信じていた。
2.鏡は「神器」であり「信任付与」
銅鏡に対する古代の人のそのような信仰は、鏡をまるで「神器」のように宝物扱いにするようにし、特に統治者の銅鏡保有は必須不可欠の条件となった。(政治道具になった)
授受は先王(または上王)から付与する一つの「信任」を意味するもの。
この「信任」を通じて新しい政治権力が誕生する。
此の後に、続く段として
隅田八幡鏡に関しての記述がある。
銘文から繙くと「斯麻=武寧王」から継体天皇に下賜した鏡となるそうである。
継体天皇はこの銘文では「男弟王」と呼ばれていたそうである。
そして武寧王はやはり加唐島で生まれたのちに日本本土に渡り、41歳までは日本で暮らしていたことが真実に近いようである。
本書によると隅田八幡鏡の銘文は
「百済大王年(あるいは斯麻大王年)癸未年(五〇三年)八月十日、大王斯麻は意紫沙加宮にある男弟王(継体)の長寿を念願するため、穢人河内国王(費直)今州利と他の一人に命じて、良質の白銅二百棹(貫?)でこの鏡を制作した。」となるそうである。
507年に男弟王(継体)は武烈天皇の跡を継ぐこととなるのだが、その場合はなぜ前回の当記事でご紹介した第4グループの180年を繰り下げすることに該当しないのだろうか?
この場合は、鏡の銘文もwikipediaの年代もそのまま507年が該当するようである。
どれがすでに直されていて、どれが未だ直されていない年代なのか…
書記では507年とは、前記事での計算だと、180年をプラスしなければいけないような気もするのだが、そうなると687年となり、武寧王は462年生 - 523年歿であり、在位は462年 - 523年であったため、おかしなことになる。
という事は、この507年とは、そのままで正しい年であることになる。
本書は、非常に読みごたえがある。
「キトラ」古墳のことにもふれてあり、被葬者は百済王族(候王)であったと見ている。
キトラ古墳の源流は忠清南道扶余にある「陵山里壁画古墳」から探すことができるという。
しかも久里双水古墳と同じく石槨構造なのだそうだ。
更に「キトラ」古墳の被葬者は木棺を使っていたそうで、木棺を使う身分の所有者であること。
久里双水古墳も舟形木棺である。
木棺直葬は、百済王室の墓制だそうだ。
この百済王室が王陵に木棺(松棺)だけを使う理由はかならず『礼記』の律法に従うためである。
『礼記』によると天子は死後には「天王」と呼ばなければならないし、彼の棺は必ず松棺材をつかうようになった。‥‥
百済の墓制に乗っ取った造りの久里双水古墳かも知れない。