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山内資清(助清)ー 資通(助通)ー 親清 ー 義通 ⇔ 義通は波多野義通と同一人物か?

2020-12-13 | 中原氏バラバラ情報

記事に間違いや勘違いがあったので、書き直してみた。が、系図もいくつかあり、やはり混乱している。

山内資清(助清)ー 資通(助通)ー 親清 ー 義通 ⇔ 義通は波多野義通と同一人物か?

波多野義通の妹は源義朝の妻であり朝長を産み、その後中原某氏に嫁ぎ中原久経を産んだ。
その義通がもしも山内義通となっていたとすると(どちらにしろ、藤原秀郷流の同族!ではあるのだが)
親清の弟「通清」は叔父となり、鎌田正清とは従兄弟と成る。鎌田正清の舅は長田忠致である。

つまり、山内氏流の鎌田氏と長田氏と婚姻関係があり、
波多野義通がもしも山内義通と同一人物ならば、鎌田正清が従兄弟となる。その妹と正清も従兄妹である。

===*===

「乳母の力」田端泰子著 吉川弘文館 で、気になったのが「源家の乳母たち」の章であった。
山内氏に注目してみよう。

山内首藤資通は源為義が十四歳の時に為義に従ったそうである。
此の後に?な部分が出てくる。田端氏は人物名を間違えているのではないかと思う。

『為義の子八幡殿「義家」に仕えた』とあるのは、オカシイ。為義の祖父が義家なので、ここは義朝の間違えと思う。他にもp.90 不思議な箇所があった。(鎌田正清の名は系図に出ていないとなっていたが、系図にはいる。正近が系図に現れていないのではないだろうか....という点など)

山内尼の源頼朝への息経俊を助けるための訴えには「資通入道は八幡殿に仕え、廷尉禅室の御乳母となって以降代々源家に微忠をつくすこと数えきれません。…」
因みに「廷尉禅室」とは為義のことだそうだ。

「乳母の力」の中の源氏山内氏関係図によると資通の姉は義家の妻となっている。

義家は1106年迄生きていた。
為義が十四歳と成ると1110年になる。その時に資通は為義に仕えたという。

山内首藤の系図等をみると、
経俊1137年生まれとある。つまり曽祖父の資通とだいたい75歳離れているとみても資通1062年頃に生まれている事となると思う。

山内尼は頼朝の乳母であった。
息の経俊が1137年生まれとあるので、1120年頃に生まれた人と思われる。


資通の息夫婦(親清??=?俊通・山内尼)も、その親清の兄弟通清の夫婦もまた義朝の乳父母となっていたのではないだろうか?(想像)とする。

波多野氏(山内氏)義通の妹も義朝に嫁ぎ朝長を産む。(が、離縁し、中原某に嫁ぐ。)

鎌田正清の父(通清)も義朝の乳父母であり、正清は義朝と共に育ったと言われている。
もしかすると義通と妹も共に育ったのかもしれない。

その正清の妻は長田忠致の娘であったことが、悲劇であったが、それでも山内首藤氏(含む鎌田・波多野氏)と源氏の信頼は揺らがなかったと思われる。

山内尼の訴えばかりではなく、そのこと(代々の乳父母)もあって、最終的に山内経俊も許され長生きできたのだと思う。
(頼朝に母の訴えも聞き入れてもらい、その母山内尼には早川荘の地頭職も与えられた)

山内首藤氏源氏の乳父母の家系なのだ。










上記の記事と重なる部分も多いが、この親清の弟【通清】から鎌田氏を、少々調べてみた。
通清が鎌田氏を称した…とコトバンクにもある。
wikipediaの鎌田正清を見ると「源義朝の第一の郎党。政清の母が義朝の乳母だったため乳兄弟として最も信頼された。 」とある。
この正清が長田忠致の娘が妻であった。ということは、藤原秀郷流と長田氏が繋がっていたことと成る。

鎌田正清(政清)
1123-1160 平安時代後期の武士。
保安(ほうあん)4年生まれ。源義朝(よしとも)と乳兄弟で,義朝のもとで保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱をたたかう。平治の乱で敗れた義朝にしたがい,尾張(おわり)の妻の父長田忠致(ただむね)をたよったが,平治2年1月3日義朝とともに謀殺された。38歳。通称は次(二)郎。名は政家とも。

===*===

波多野氏も、源氏の乳父母であったのではないだろうか?
山内首藤の後裔にも「広沢氏」が出てくるのだが、波多野義通の息にも「広沢実方」という名が見える。

===*===

「乳母の力」の系図も、下記の論文の系図も「親清」不在である。「義通」も「通義」となっている。

https://bingo-history.net/uploads/1988/10/3ee71191df620dc941880f2b5e44c846.pdf
【鎌倉期における山内首藤家について】出内博都 著 の論文より

この系図 「親清」が不在であり、
資清ー資通ー通清・通義 となっている。(「乳母の力」も同じ系図となる)



p.86 尼の発言にある資通は経俊の曽祖父である。「山内首藤氏系図」によれば、資通は「滝口下野権守」と言われ、白河院の天仁の頃の人で、後三年合戦の時、十一、二歳で戦陣に参加したという。そして為義が十四歳の時、為義に従った、とある。

この一文から想像すると、1083‐1087年にあった後三年の役の際に十一か十二歳であった資通。
1070年あたりに生まれた事と成る。


経俊の曽祖父である資通は、と「乳母の力」の中にあるのだが、この系図と年代を考えると正確である。
つまり、資通(曽祖父)のあと祖父ー父ー経俊と成るのが正しいようなのだ。
という事は
資通ー通義ー俊通ー経俊と成る。
その俊通が山内尼の夫となる。

その山内尼、土肥実平の姉妹だったのかもしれない。そして摩々尼と同じように早川荘の一部に居住していたようなので、この二人は姉妹か、同一人物であったかかもしれない。

土肥実平は、中原親能と共に、京の様子を探り、源頼朝に知らせていた節がある。
中原親能も波多野に住んでいたので、ますます山内義通(通義)と波多野義通が近く思えてくる。


この系図の註に「住相模」とある。俊通の部分である。

俊通自身は1160年に平治の乱で没しているので、俊通が没したのちは、早川荘に隠れ住んでいたのかもしれない。
山内庄(鎌倉市東慶寺付近が山ノ内)は没収されていたそうである。
地図内の小さな赤い丸が東慶寺付近 大きな茶色は波多野付近



系図も様々。こちらはいつもお世話になっている。これによると資通と義通が兄弟で、親清の場所も違っている。
一体どの系図が正しいのだろうか、悩む。




森岡先生の系図














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1 コメント

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Unknown (木方)
2021-04-04 12:28:00
この記事大事そうですね。
鎌田さん調べてます。山内あたりの女人救済のお寺があったような?東慶寺、縁切り寺。あの辺り行った時は知らずでした。今思うと群馬行った時に気付いてないのにもびっくり。四月かあ、行きたいなあ、桜だったし。
北条時政さんも関わるのもなあ。元々どんな方々が住んでいたのか?信仰があったのか?が気になりますね。

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