大伴列躬を探している時に、大伴をキーワードに歴博DBで「善積庄」にあたり、
そこに中原氏のことが出ていた。
中原信房の所望により京都円勝寺領善積庄を給与=建長8実相院領とある。
この中原信房を調べていくと、なんと【宇都宮信房】のことだったのである。
宇都宮 信房(うつのみや のぶふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。宇都宮氏の祖である藤原宗円の次男中原宗房の長男。『吾妻鏡』の文治2年2月29日(1186年3月28日)の条によると信房は造酒司正(みきのつかさのかみ)宗房の孫とある。豊前宇都宮氏の祖。
治承4年(1180年)、下野国から源頼朝の挙兵に参陣する。同7年(1183年)、志田義広の謀反の際は義広討伐で功を挙げた。これらの功績により 元暦2年/文治元年(1185年)から文治2年(1186年)にかけて恩賞を与えられている。
翌3年(1187年)9月、鎮西奉行として鬼界ヶ島の平氏残党討伐で功績を挙げた。
建久3年(1192年)には豊後国・日向国内において所領を与えられた。
晩年は仏教に帰依した。天福2年(1234年)8月2日、79歳で死去した。
~~~*~~~
信房の父か祖父 宗房
中原 宗房(なかはら むねふさ)は、平安時代後期の人物。豊前宇都宮氏の祖とされる。待賢門院庁の主典代・年預を務めた。
系図類では中原宗房と宇都宮信房は親子とされているが、信房が資料等に登場するまでに約50年ほどの年代差があるため『吾妻鏡』では孫子としている。
宗房には坂戸源氏源季範の養子となった源季長、源季範の子である源季国に嫁いだ女子、下野宇都宮氏の宇都宮朝綱とほぼ同世代で宇都宮信房の父である名前不詳の男子といった三人の子がいた。
中原氏出身で、外記、造酒正といった職を経た後、藤原璋子に仕えた。
永久6年(1118年)に藤原璋子が立后され中宮を号した際に中宮大属に就任した。
天治元年(1124年)に藤原璋子が院号を宣下されて待賢門院と称した際には待賢門院庁の主典代に就任している。
現存してる待賢門院庁の文書の多くは宗房が起案したものだという。
近江国善積庄に権益を保持していたが、平家政権時代にそれを失ったという。後に宇都宮信房が源頼朝により善積庄を与えられ回復している。
豊前宇都宮氏は豊前国へ入部後、待賢門院璋子(藤原璋子)の法名である真如法から名前を取った真如寺と如法寺を建立しており、璋子へ感謝の気持ちを表したという。
~~~*~~~
近江国御家人井口中原系図の中に豊前王がいたが、関係があるだろうか?
信房の父宗房は祖父かも知れないが…
父:中原宗房……藤原北家道兼流 宇都宮氏
養父:宇都宮朝綱
弟
信房、中原宗隆、野仲重房、山田政房、
深水興房、西郷業政、廣澤直房、
那須有家、江里口業俊
~~~*~~~
養父 宇都宮朝綱
氏族
藤原氏、宇都宮氏
父母
父:八田宗綱
母:平棟幹娘または八田局
兄弟
朝綱、八田知家 、寒河尼(小山政光室)
妻
醍醐局
子
業綱(成綱)、公頼、那須頼資、蒲生秀綱、城井信房(従弟)、重業(高階忠業の実子)
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寒河尼は頼朝の乳母であり、結城朝光の母でもある。
そこに中原氏のことが出ていた。
中原信房の所望により京都円勝寺領善積庄を給与=建長8実相院領とある。
この中原信房を調べていくと、なんと【宇都宮信房】のことだったのである。
宇都宮 信房(うつのみや のぶふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。宇都宮氏の祖である藤原宗円の次男中原宗房の長男。『吾妻鏡』の文治2年2月29日(1186年3月28日)の条によると信房は造酒司正(みきのつかさのかみ)宗房の孫とある。豊前宇都宮氏の祖。
治承4年(1180年)、下野国から源頼朝の挙兵に参陣する。同7年(1183年)、志田義広の謀反の際は義広討伐で功を挙げた。これらの功績により 元暦2年/文治元年(1185年)から文治2年(1186年)にかけて恩賞を与えられている。
翌3年(1187年)9月、鎮西奉行として鬼界ヶ島の平氏残党討伐で功績を挙げた。
建久3年(1192年)には豊後国・日向国内において所領を与えられた。
晩年は仏教に帰依した。天福2年(1234年)8月2日、79歳で死去した。
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信房の父か祖父 宗房
中原 宗房(なかはら むねふさ)は、平安時代後期の人物。豊前宇都宮氏の祖とされる。待賢門院庁の主典代・年預を務めた。
系図類では中原宗房と宇都宮信房は親子とされているが、信房が資料等に登場するまでに約50年ほどの年代差があるため『吾妻鏡』では孫子としている。
宗房には坂戸源氏源季範の養子となった源季長、源季範の子である源季国に嫁いだ女子、下野宇都宮氏の宇都宮朝綱とほぼ同世代で宇都宮信房の父である名前不詳の男子といった三人の子がいた。
中原氏出身で、外記、造酒正といった職を経た後、藤原璋子に仕えた。
永久6年(1118年)に藤原璋子が立后され中宮を号した際に中宮大属に就任した。
天治元年(1124年)に藤原璋子が院号を宣下されて待賢門院と称した際には待賢門院庁の主典代に就任している。
現存してる待賢門院庁の文書の多くは宗房が起案したものだという。
近江国善積庄に権益を保持していたが、平家政権時代にそれを失ったという。後に宇都宮信房が源頼朝により善積庄を与えられ回復している。
豊前宇都宮氏は豊前国へ入部後、待賢門院璋子(藤原璋子)の法名である真如法から名前を取った真如寺と如法寺を建立しており、璋子へ感謝の気持ちを表したという。
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近江国御家人井口中原系図の中に豊前王がいたが、関係があるだろうか?
信房の父宗房は祖父かも知れないが…
父:中原宗房……藤原北家道兼流 宇都宮氏
養父:宇都宮朝綱
弟
信房、中原宗隆、野仲重房、山田政房、
深水興房、西郷業政、廣澤直房、
那須有家、江里口業俊
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養父 宇都宮朝綱
氏族
藤原氏、宇都宮氏
父母
父:八田宗綱
母:平棟幹娘または八田局
兄弟
朝綱、八田知家 、寒河尼(小山政光室)
妻
醍醐局
子
業綱(成綱)、公頼、那須頼資、蒲生秀綱、城井信房(従弟)、重業(高階忠業の実子)
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寒河尼は頼朝の乳母であり、結城朝光の母でもある。