九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

佐藤伊賀守朝光・光季 とすると、後藤氏も繋がってくる。(1)結城・小山・下河辺氏ともつながりが出てくる。(改訂)

2021-01-21 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城


藤原秀郷流と成ると、大きな氏族なのでいろいろな氏とつながりが出てくる。
伊賀氏と土岐氏がもしも繋がっていたとなると、大きな勢力になっていたと思う。

しかも、伊賀の方が北条義時の後妻であって、更に力が増し、伊賀の変へと繋がって、力をそぎ落とされることになってしまったのではないだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%A4%89

ところが、実際はその「伊賀の変」(1224年)の前「承久の乱」(1221年)の時に光季・息光綱(14歳)が歿し、光季の残された4人の息たちは孤児になってしまう。
季村には父光季の遺領として塩篭庄が与えられている。



弟の光宗は「伊賀の変」で失脚させられている。
一条能保の子「実雅」が関わったか、または、担ぎ出されている。


web情報では
佐藤公広(佐藤公郷の四男。後藤則明の養子)ー実信(白河院武者所)─実遠(左衛門尉)─実基(兵衛門尉)-基清(播磨守護)
公郷の四男が後藤氏へとなり、公郷の〇男が伊賀氏へとなる‥‥という事で、婚姻関係など何かしらつながりがあったのでは、とも思う。

(この公郷の一代上の代 公清と公季が繋がっていた。)

後藤氏はやがて斎藤氏と
伊賀氏はやがて稲葉氏と・・・なったとすると、その後に協力関係へと発展していったことも不思議ではない。

==*==

伊賀朝光の娘=光季の姉妹 が 結城朝光の妻となっていることから、八田・宇都宮・小山・下河辺氏ともつながりを持ち、源頼政の周辺とも近い関係になりつつあることから、土岐氏の養子にでも入ったのだろうか???
この下の系図が気になっている。

土岐氏の方に目を転じてみると

土岐光基と光衡・光季…


この系図の「光基」「光衡」両者とも承久の乱以前に歿している。

承久の乱の際に土岐氏は「宮方」(光時ヵ?)であるものもいたのだが、「幕府方」(光行モヵ?饗庭光俊モヵ?)の者もいた。
下の本を読むと、そのようである。
https://books.google.co.jp/books?id=rof4DwAAQBAJ&pg=PA5&dq=%E5%9C%9F%E5%B2%90%E3%80%80%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%80%80&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiPyZq9gqruAhXCfXAKHVTcCvEQ6AEwAHoECAYQAg#v=onepage&q=%E5%9C%9F%E5%B2%90%E3%80%80%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%80%80&f=false

難しい。

しかし、光基の息光衡が思いのほか早くに歿した為、光季を養子として入れたのかもしれない。。。


とても助けになるページを見つけた! 千葉氏のページ 千葉胤綱の箇所である!!

https://chibasi.net/souke11.htm

「…北条義時と後鳥羽院との軋轢は大きくなり、ついに承久3(1221)年5月15日、京都守護のひとり伊賀太郎判官大夫光季が、高辻北京極西角の屋敷を後鳥羽院の兵に攻められ、自刃を遂げる事件が勃発した(『百錬抄』)。そして5月19日、後鳥羽上皇方は兵を集めて北条義時追討の兵を挙げた。これを「承久の乱」という。

 伊賀光季は後鳥羽上皇方の院宣を奉還して幕府の京都守護として留まった。同役の少輔大江親広入道蓮阿(大江広元入道の長男)が後鳥羽上皇の召集に応じても、伊賀光季は幕府代官としての意地を貫いた。死を覚悟した光季は、家子郎党から越後を経て鎌倉に落ち延びることを提案しても、北条義時がわざわざ自分を見込んで京都守護としたのだからと鎌倉落ちを拒否し、院を相手にこの王城の地で戦えるとは弓矢取る身の面目とする一方、もうすでに院方による関所が各地に据えられているであろうから、ここでもし落ちて生け捕りになるのも口惜しい。しかし、落ち延びたいものは自由に落ち延びるべしと諭した。この結果、夜更けにかけて多くの郎党が逃れていった。残った者は贄田ノ与三郎、鼓ノ五郎、飯淵ノ三郎、大住ノ進士、山村ノ次郎、河内ノ太郎、治部ノ次郎、宇野手ノ次郎、犬村ノ又太郎、金王丸ら二十七人のみとなった(『承久記』)。

 このとき光季には十四歳になる寿王冠者光綱という子息がいた。光季は光綱に「汝はありとても戦すべきにあらず、鎌倉へ下り、光季が形見にも見え奉れ、幼なからんほどは、千葉の姉のもとにて育て」と諭すが、光綱は「弓矢とる者の子となりて、親の討たるるを見捨て逃ぐる者や候ふ、また千葉介も親を見捨て逃ぐる者を、養育候べきや、ただ御供奉り候ふべし」と光季とともに戦うことを述べた。光季もいまはこれまでと、光綱に萌黄の小腹巻を着せ、みずからも居間に居流れると、白拍子を召し出して一晩中酒盛りをし、明け方近くに日ごろから秘蔵にしていた物を彼女らに分け与えて帰した(『承久記』)。千葉介胤綱の妻が伊賀光季の娘であり、光綱の姉であった事がわかる。

 そして15日、後鳥羽院側の三浦平九郎判官胤義、大江少輔入道親広、佐々木山城守広綱、佐々木弥太郎判官高重、駿河大夫判官維家、筑後前司有信、筑後太郎左衛門有長ら都合八百余騎が高辻北京極西角の守護所に攻め寄せてきた。光季はこれを防ぐも衆寡敵せず自害せんとするが、子の光綱が自害できずに彷徨っていたため、まず光綱を殺害して燃え盛る炎の中に投げ込むと腹を切って自害して果てた(『承久記』)。」

(長いコピーでスミマセン。)

そして、この下にある系図!(千葉氏さんのページにあります!)

光季の娘が千葉胤綱の妻であったこと。ここがわかり、助けになっている。

さらに、東京大学DBに、光季の妻が「千葉常胤の娘」であったことも見つけた。ここは、年代的に「胤正」かも知れないのだが‥胤正の養女なのかもしれず…
光綱の母親のことである。その光綱の姉も千葉胤綱に嫁いでいるので、重縁と成る!







土岐光行の妻、光定の母は東胤頼の娘である。
東胤頼と千葉胤正は兄弟である。

===*===

どこにも書いてはいないが、光季=光衡の兄弟の方の光行なのではないだろうか?






2つ理由がある。(系図纂要より)
光行も「伊賀判官」であること。
光季の父朝光は1121年生まれで94歳まで生きた人物。その息光季は50歳以降に生まれているような年関係なのである。
朝光が土岐光行を養子に入ってもらい光季となった、というようなことはあり得るだろうか?







===*===




「公季」から伊賀氏は始まっている。






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 伊賀伊賀守朝光 と 佐藤氏... | トップ | 伊賀守朝光・光季 と 土岐... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城」カテゴリの最新記事