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クニアキンの日記

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高橋 英夫 「偉大なる暗闇 師 岩元禎と弟子たち」講談社文芸文庫たG1(1993)

2025-04-12 21:21:03 | 読書
高橋 英夫 「偉大なる暗闇 師 岩元禎と弟子たち」講談社文芸文庫たG1(1993)

どういう経緯でこの本を読もうと思ったのか、今となっては定かではありません。
2月に図書館から借りて、すき間時間に少しずつ読みました。ずいぶん時間がかかったように思いますが、いつ読み終えたのか定かではありません。
読了後もゆっくりまとめている余裕がなく、今日まで経ってしまいました。

「三四郎」で与次郎が「偉大なる暗闇」と呼んだ広田先生のモデルと噂された岩元禎についての論考です。

何故「偉大なる暗闇」なのか、についての著者の考えは、「Ⅰ 偉大なる暗闇」でほぼ明らかにされています。

ヨーロッパの学問芸術がはるかにも遠い奥行をもっていることを身にしみて知り、他のすべてを犠牲にしてもひたすらその奥の奥に迫りたいと念じた人間(p.40)
外からみればほとんど完全に自己表現の方法を失ってしまった、ただ西洋の学問への沈潜に生きるほか何もしなかった人間(同)

これに対し、漱石の進んだ方向は、
万巻の書はいかに庫に高く積まれていようと、そのすべての読破など夢の夢である。一定の方法を立て、それによって書物を選択してゆくほかはない。また選び読んで身につけた知識を、自分の言葉に置き換えてゆくしかない。ヨーロッパに学ぶとは、、学んだことを自分の言葉で表現するところに達しなければならない。こう悟ったことによって漱石は『文学論』を成立させることができた。(p.42)

「Ⅱ ドイツ語の教室」では、若い岩元の師、ケーベルの評(p.55)、教室での岩元の言動などが多くの人の目を通して語られています。p.66~67に全文引用掲載された堀辰雄の追憶は興味深く読みました。

師と弟子の関係などについて、本書の後半に述べられた内容は、私には必ずしもすんなり理解できるものではありませんでした。

以下、読んでしてマークした箇所を、箇条書き的に列挙しておきます。

「民芸館」「参観」がはっきりと「ミンゲイクヮン」「サンクヮン」と聞える。岩元禎は鹿児島の人である。(p.12)
(ちなみに新潟県中魚沼出身の亡父も「クヮ」の発音をしていました。)

岩元は始終不平をいふて支那の生徒を攻撃して居る(p.36)

屢〻戦功あるを以て擢んでられて大隊長に挙られたり(p.98)
(「擢んでられ」は「ぬきんでられ」と読むというのを初めて知りました。「抜擢」の「擢」ですね。)

大正十年度から始った「哲学概論」は昭和五年度から内容が一変した。(p.127)

中村(光夫)氏は次のように言った。
「岩元先生は長年自分の体系を講義してこられましたが、私の前の年でそれが切れました。それは、自分の体系に疑問を生じたからだったそうです。もう哲学概論は出来ないと考えたのですが、高等学校の制度上やめるわけにはいかないので、ドイセンの翻訳をしてそれを講義した、という話でしたね。(同)

「僕たちの頃は漱石は古くさいとされていたから、どちらかといえば岩元さんを『偉大なる暗闇』という気持ちで見てはいなかったと思います。」(p.128)

昭和七年文部省は行政改革と人員整理を図り、そのため一高では長老の菅虎雄、岩元禎が自ら教授の職を退いて講師となった。岩元禎はなお一年間はドイセンを講義したが、昭和八年三月に哲学の講師も辞して、ドイツ語だけの講師になった。(p.131)

和辻哲郎が自由さを欠いて窮屈な「金縛りの立場」と批判的に言っている岩元の態度は、ケーベルの感化以前に、もって生れた性格や幼少時の経験まで遡らせた方がより明確に理解できるのではなかろうか。

これは哲学者の孤独といったものであるが、この孤独は単なる孤立ではない。それは孤独の自覚において、存在の純粋状態、理想状態をめざす自分と同じ孤独者の発見に通じているように思われる。(p.154)

こういう師に対する弟子の感情は、従来人生論、人生訓、通俗道徳といった枠の中でしか着目されてこなかったものである。しかしここにまつわる感傷性、青くささを捨象してみると、これはアガペー、エロスがそれぞれ別の次元において他者への愛であるのに対して、同質性への愛であるのに気づかされるだろう。(p.155)

漱石の英文学研究における苦悩の底には「自分ははたして粟野健次郎のようになれるだろうか」という思いがあったのだ、(p.166)

今日下しうる確実な結論は、<Ⅰ 偉大なる暗闇>の章ですでに指摘したように、明治後期から大正にかけて日本各地に岩元や粟野のタイプの巨人的教師が、学問識見の容量の大小に応じて、またそのまわりを取り巻く青年たちの頭脳と感受性に応じて、「偉大なる暗闇」の領域を大きくあるいは小さく画定していった、ということだけである。(p.171)

加納亨吉の唯物論的合理主義と最も顕著に対立するのが岩元禎の古典的理想主義むであった(p.183)

岩元禎は、同じ狩野でも、狩野直喜の方に心を許していたよう(p.184)

明治の頭脳が、与えられた条件の中で一人は理想主義を追い求め、もう一人は唯物論に深入りしていったその全体図を意義あるものと了解したい。還元すれば、彼らの沈黙と隠棲は、ヨーロッパに突き当った明治人が払った犠牲の部分を代表していたのである。(p.185)

師というのは本質的に弟子から去られる存在なのである。逆説的にいえば、弟子が遠ざかってゆく寂しさを味わわなかったら師ではありえない。(p.207)

内村鑑三からキリスト教の信仰そのものではなく潔癖な倫理性を受け継ぎ、岩元禎からは古代ギリシアやカント哲学ではなくものを完璧に見る眼を学ぶ、これが弟子としての志賀直哉の異端性であったとすれば、内村鑑三からはキリスト教を、岩元禎かは哲学を、一点の濁りもなしに学んだ正統的な弟子、三谷隆正の存在を思い浮かべないわけにはゆかない。(p.220)

先妻に死なれ、再婚した妻こうとのあいだに生れた長男が隆正だが、こうは再縁以前に長谷川家に嫁して息子長谷川伸を生んでおり、長谷川伸の「瞼の母」その人にほかならない。(p.228)

さらに見逃してはならないのは、ホモ・アミクスの世界が純一無垢な麗わしい情誼の世界とか、聖人君子のみが悠々と汚れなく逍遥する理想郷とかでは決してありえないということである。友情は美しい。だがそれが美しいのは、基本的、原型的な人間関係のひとつとして、裏切り、背信がそれの影の部分を形づくり、善意からの喰い違い、違和感、疎隔、敵意、距離感といったものにたえず附き纏われざるをえないからであるという友情の現実を認めなければならない。

西田幾太郎が思索第一の人、狩野直喜が読書第一の人と対比されるというなら、岩元禎も狩野直喜とはやや別趣とはいえ、やはり読書第一の人にちがいなかった(p.267)

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