戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

22/12/11 渋谷道玄坂今昔

2010-12-11 17:38:45 | Weblog
しぶやーしぶやーしぶやーのアナウンスにはじける様にフォームに降りてキョロキョロとあたりを見回しながら流れるように動いて行く人波とともに階段を下りた。道玄坂という文字を目で追いながらおのぼりさんと見られないように(自分では見えないと思っていても何処から見てもおのぼりさんだった)気をつけて改札を出た。こんな時はいつも便利やさんという商売の人がお米や食べ物を届けていたが、東京に行きたがっているのを知った両親が「どうせ遠からずお前も東京に行くのだから」と来させてくれたのだ。ハチ公の銅像前で・・・と地図も添えて良く説明を受けていたので迷いはしなかったが、あまりの雑踏ぶりに見つかるだろうかと心配になった。昭和28年、此のころは未だお米は自由には買えず、東京は時々外米が配給になる事もあった。親戚に下宿して青山学院に通っていた姉の為にいつも便利やさんが内地米を届けていた。米の生産県は特権として外米の配給を逃れられたので、その点だけ大都会よりはましだった。今、テレビで見る渋谷にはその時の面影すら無い。と同時にただ米でありさえすればこしひかりでも何でもない土地で取れたお米を毎月のように届けていたあの頃のひもじさもなく、毎夜テレビでは贅沢の限りを尽くしている。あれだけお金をかけているからにはよほど売れているに違いない。みんな何故この不景気にそんなにお金をかけられるのか、知りたい。

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