持続する夢

つれづれにふと気づいたことなど書き留めてみようかと
・観劇生活はえきさいてぃんぐに・日常生活はゆるゆると

天保十二年のシェイクスピア 2/3

2005-11-09 01:13:35 | 演劇:2005年観劇感想編
あおり文句は。こいつら、タダものじゃない。
そりゃあ、もう。。このキャストに、文句のつけようのあるわけがなく。<11/2のつづき>

長い物語は、『リア王』から始まるが。父の鰤の十兵衛(吉田鋼太郎)は、重厚な佇まいが素敵。長女のお文(高橋惠子)は女っ気が強く、次女のお里(夏木マリ)はきかん気が強く。ふたりはきっちり対等に張り合っている。だからこそ、末娘のお光(篠原涼子)の正直さが際立つ。『ハムレット』よりは。お文と弟に殺されて、息子に恨みごとを吐く亡霊(西岡徳馬)。まさかここで、笑わされるとは思わなかった。徳馬さんの、ちょっとすかした演技がいつも好き。次は『マクベス』『オセロ』より。お里と恋仲になり、夫を殺害するも苦しみの淵に立つ幕兵衛(勝村政信)は。全編中、とても真っ当な人物に見えた。そして、勝っちゃん(←勝村氏愛称)が。ここまで正統なシェイクスピア演技をみせてくれたのを、意外ながら嬉しく思う。

やはり、『ハムレット』より。父が亡くなり呼び戻された息子、きじるしの王次(藤原竜也)は。登場するだけで、舞台に華が咲いたよう。彼が亡くなる瞬間には、客席から悲鳴がもれるほどで。以前から、ハムレットはアイドルなのだと主張し続けてきたけれど。ここまで体現してもらえると、本当にむくわれる。そして。すげぇよ、竜也くん。こんなに喜劇がいける役者さんだったなんて! それで、舌が長いのね(←意味のない覚書♪)。特筆するなら。ストーリーテラーの木場氏と呼吸を合わせ、歴代の「to be, or not to be.」の日本語訳の演じ分け。それが見ごたえあったこと。 あ、なんだかひとりだけ行数くってるぞ(笑)。
彼の言葉に傷つけられる、許嫁のお冬(毬谷友子)は可憐で、実際の年齢差を感じさせない。彼女は浮舟太夫と二役で。こちらでは『ロミオとジュリエット』を演じるのだけど、恋人との行き違いは哀しく。佐吉(高橋洋)は、素直で清涼感でいっぱいで。ふたりの心中をどうにも止めたくて、それが叶わない幕切れはひどく切ない。

『マクベス』の魔女のように、ふいに現われて。予言を与える清滝の老婆(白石加代子)は、あいかわらずの怪演で。その予言どおりに、のし上がっていく佐渡の三世次(唐沢寿明)は。陰謀の口説きの、『リチャード三世』よりの出典だから。人の気持ちの悪意の部分に入り込み、あやつりの台詞を駆使するのだけれど。狡猾な悪党というだけでなく、卑小さを醸(かも)す趣向が面白かった。

実力揃いの役者さんが、各人の解釈で演技力を発揮すると。ややもすると、まとまらない印象を受けることがある。それを杞憂にしたのは、隊長(木場勝己)。がっちりと舞台上で全体をまとめあげる、みごとな存在の仕方だった。蜷川幸雄氏の手綱、あってこそだとしても。

天保十二年のシェイクスピア 1/3

2005-11-02 23:36:42 | 演劇:2005年観劇感想編
NINAGAWA VS COCOON Vol.4 『天保十二年のシェイクスピア』
劇場:シアターBRAVA!


完成された舞台を観た。一流の作品と一流の作り手と、豪華絢爛たる役者陣による舞台。

初めて知ったシェイクスピア氏(←呼称、変?)は、小説家だった。そして、いくつかの作品に触れ。登場人物の多さに惑わされて、挫折したりもした。だけど、舞台を一度観ると。彼は小説家ではなくて、戯曲家だと気付く。あの、登場人物の多さなどは。当時の実力者(スポンサーとか)からの柵だとかで、人気の舞台に立ちたいというリクエストに応え続けた結果なんじゃないかと。あらぬ詮索を始めると、楽しくなってきたりする。
なんにせよ。その全て(端役にいたるまで)に、しっかりと意識が向いていて。それぞれが、ちゃんと命を持っていて。己(おの)が人生というものが存在していることに感服する。

そんなこんなの戯曲全作(37本)を、井上ひさし氏が。一旦ぐちゃぐちゃに(←失礼)分解して、改めて一本にまとめ上げる(←力技!)ことに成功した作品。舞台を日本に変え、時代を江戸にし、名も和風に変えて。そこに、台詞を確実にちりばめて。不思議にかっちり填まるんだよなぁ。。ただし。長編に過ぎたために(1974年:4時間30分だとか)、2002年(休憩込みで4時間だったはず)まで上演されることがなかったという曰くつきの戯曲。今回は、井上氏本人による脚本。1作品よりたった一言だったとしても、一切の割愛なしでの展開となる。(公演予告編として→こちらにも)

蜷川幸雄氏は、過去に幾度もシェイクスピア作品を演出してこられた。その彼が、全幅の信頼をおくキャストを集め。制作発表の光景はトリハダものだったよ。上演するというのなら、これはもう行くしかないだろう? たとえ大阪公演が、驚くほど割高だとしても。役者さんたちの宿泊費だと思えば、惜しくはない(←痛くはあったけどね)。

能書きが多くなった。いったん終わらせて、本題に入ります。

審判 3/3

2005-10-19 23:46:40 | 演劇:2005年観劇感想編
この演目を、初めて観たときには。鮮明に描き出される凄惨な現場に、ただただ気分が悪くなった。本気で、劇場から立ち去ろうかと考えるほどに。後日、これが中途まで実話であったことをつきとめて愕然とする。そして、キリストの教えの元で。自殺という選択肢が許されないものだったことにも、ようやく気づく。もちろんカニバリズムも。実話では、生存者はどちらも発狂しており。通常の食事を与えたのちに、銃殺に処したという。

初見の『審判』では。ヴァホフは、正気にみえた。ありえない現実を体験したのだと。時折激昂し、訴える姿が。正常なればこそと感じた。彼の勢いに、押されてびくついて。すべての出来事を見据えて理路整然と語る彼を、敬いの思いで見つめ。彼の為に、祈りを捧げたく思った。
その後、見たヴァホフは。静かに狂っていたと思う。平静に話してはいても、普通とはすでに違ってしまっているのだと。こんな体験をして正気でいられるわけがない、と納得できた。もう、彼は自力では生きてはいけないだろうと。下した審判に従わせるしかないのだと、思わせる空気を醸していた。

今作のヴァホフは。なにより、同胞の姿を仔細に語る。彼らの一部始終を冷静な目で追い続け、記憶にとどめ。穏やかに優しい語り口で、一人一人の姿を写実に浮かび上がらせる。同胞に対する尊厳を表現するときに、感情の高ぶりは最高潮を迎える。今、生きてある彼の肉体のなかに、同胞の血肉がある。文字通りの事実を、感じさせられて。眩暈(めまい)がする。。暗い舞台に強い照明が、十字架を描く。あれが、鎮魂の力を持てばいい。

未見の方に、どうぞと気楽にお勧めできる演目ではない。だた。一度御覧になった方には、二度観ることをお勧めする。あなたの席は、劇場の客席ではなくなっているはずだから。あらかじめ事の顛末を聞き知った傍聴人として、または判事として。彼の証言を聞いてみることを、ぜひお勧めする。そこで。あなたの下す審判は、どんなものですか?

<追記> 以前、『審判』に触れた記事が→こちらに。進化し続ける加藤健一氏に脱帽。

審判 2/3

2005-10-18 22:23:15 | 演劇:2005年観劇感想編
彼は問い続ける。自分の罪を。強いまなざしをこちらに向けて、下る審判を待ち侘びている。こちらといえば。万が一にも彼と視線を合わせてしまったりしないように、目をそらすので精一杯だ。当事者になることの怖さに、後ろの席を選んでもいるのにね。

ヴァホフは。殺害にも食肉にも、積極的に加わったのではない。もう一人の生存者・ルーヴィンは、誰よりも最初に食糧に向き合った。丁寧に解体し、しり込みする同胞に配布まで行った。最初に取り決めた作戦に、誰よりも忠実だった。不器用なほど真摯に、すべてを全身で受け止め続けて。ついには自分自身を壊してしまう。
ヴァホフの正気は。耳を、心を、都合よく塞いだことによる。それをどこかで恥じているからこそ、ルーヴィンを尊重していると本心で吐く。それでも。生き残りが、ふたりになったとき。彼は、凶器の準備を始める。先に亡くなった同胞の大腿骨を、石の床で研ぎすます。

加藤健一氏によって、描き続けられる地獄絵図は。60日目を迎えて、終焉に向かう。
彼らを発見をした中尉は、吐き続けていたとヴァホフが言う。その行動を責めるでもなく、判事に己への哀れみを請うのでもなく。本当に、なんでもないことのように。
かの場所は、今は無い。中尉が、ダイナマイトをもってして破壊してしまったから。ヴァホフは、こうも言う。あの時。同時に心の中からも消滅させてしまえれば良かったのに、心象に残してしまったと。両の手で、いとおしげに大腿骨製のナイフを撫でながら。

彼は何度も主張する。自身の正気を。正気だと認められることを望み、その上で裁きを受けたいと願う。自分自身は「有罪」だとも言う。ただし、「罪の性質」を知らせろと迫る。そして。。答えがでないのなら。「戦場に戻してください」と言うのだ。「銃を持って戦わせてください」と請うのだ。ここで、強く思う。・・・彼は正気だ。・・・戦場の中にいられる間は。と。
地下室に迷い込んだ小鳥のエピソード。小鳥ですら、すぐには脱出できず。ばたつく羽音を耳にして。同胞はパニックを起こしたという。すでに地下室の外の世界を受け入れることができず、全身で拒絶する姿をヴァホフは証言した。彼自身すら。救い出されたときに、歩いた樺の木の下の情景を。葉の匂いに包まれながらも、ひどく遠いもののように感じていた。

正しい審判を下すために、彼の証言に耳を傾けなければならない我々。身じろぎすら憚られる緊迫した空気の中で、聞くだけでも苦痛な事実。他の誰にも語り得ない事実。極限におかれた人間のとった行動。それを。安穏と生きる者に裁けるわけが無い。彼の罪は、彼以外に裁く権利を持たない。だが、誰かが彼を裁かなければ。彼は救われない。

審判 1/3

2005-10-17 22:39:14 | 演劇:2005年観劇感想編
加藤健一事務所 25周年記念公演『審判』
劇場:京都府立府民ホール・アルティ
作:バリー・コリンズ
訳:青井陽治
演出:星充
出演:加藤健一


過酷な演目だと思う。観る側にここまで緊張を強いる舞台を、他には知らない。

以下ネタバレ考慮しません。相当な再演であることと、伏せると物事が語れないためです。
1980年。加藤氏は、この作品を上演するために加藤健一事務所を設立したという。その後、定期的に再演を重ね。今回は、記念公演を締める演目として再演される。
観劇のきっかけ(初見時)は、フライヤーに書かれた文章だった。「たった一人で七万語という膨大な量の台詞をしゃべる(←不正確)」という、芝居の高度さに惹かれて迷い込んだ。展開された内容は、苦手の一言につきたのに。今も苦手なはずなのに。たぶん、これからもかかるたびに行くのだろう。
舞台装置は、黒幕前に証言台のみ。小道具は、小さな証拠品がひとつだけ。役者が、たったひとりピンスポットに照らされて。60日の期間の出来事を語り続ける、2時間半の舞台。

時は第二次世界大戦下。ロシア人の将校7人が、ドイツ軍の捕虜となる。食料も与えられず、衣服すら剥ぎ取られ。脱出不可能な修道院地下室に収監され。戦況の変化によって、置き去りにされてしまう。2か月後。彼らは味方によって発見される。生存者は、ふたり。あとの5人は・・・。
加藤氏演じるヴァホフが、軍事法廷の裁きの席に立っている。唯一、証言の可能な生存者として。おそらくは、軍部内にセンセーショナルに走り抜け。同時に、嫌悪感を生んだ一大事。水さえない状況であったはずなのに。彼は、同胞に食事の世話をしていたと言う。食べるものなど他にはありはしない。彼らは、互いを食べあって生き残ってきたのだ。生き残ったもうひとりは、すでに狂気の世界の住人となり、もの言えぬ状態で。なのに。彼は、平静そのもので証言台に立つ。ヴァホフの第一声。「嫌われているようですね。私は」

世の中と完全に断絶されたところで、生き残るためだけに組み立てられた驚愕の秩序を。そこで。誰が何をし、何をしなかったのかを。彼は語り始める。
最高将校が、飢えと渇きの極限状態で立てた作戦は。髪の毛による公平なくじ引きで、肉体の提供者を選出すること。結果は、張本人が提供者になるというもので。やはり公平に、皆によって絞殺され食糧となる。これらの手段は、彼らの手元になにひとつの道具もないことをも物語る。60日間のなかで、順に少なくなっていく同胞。抵抗しつつも、続けて提供者となった彼。それら、すべてを否定して自殺した彼。祈りのなかで自然と神に召された彼。病に冒され殺害されるに至った彼。すべてを正面から受け止め続け、とうとう狂気のなかに沈んでいった彼。それらを記憶のなかに綿密にとどめる彼。

いったい、誰がいちばん不幸でなかったのか。出来事のなかに、少しでも好転する「もしも」はなかったか。けれど。加藤氏の圧倒的な演技力は、それらすべての希望すら打ち消してしまう。次々と暴かれる事実の前には、仮定など無意味でしかなく。悲しみに泣くことは欺瞞でしかなく。いっそ、彼を憎んで終わりにしてしまおうかと揺れる。

吉原御免状 (0)

2005-10-14 01:25:41 | 演劇:2005年観劇感想編
ただいま、です(←とりあえず、ごあいさつ)。ほんとは、もっといろいろ書きたいけども。で、いつもの中途半端なタイトル。見るほどに変なんだけど、なぜか恒例。。

今回は。初の原作もの、趣向を変えた「いのうえ歌舞伎第弐章」という触れ込みで。それを体感。ひとことですませるならば、「正統な時代劇」。原作は読んでいないので、忠実なのかそうでないかは断言できないけれど。忠実な部類に入るのではないかと考える。過去に観てきた中島かずき氏の作品とは、やはり毛色が違ったので。

梅田芸術劇場の回り舞台を、これでもかっというほど回し続ける演出は。まるで絵巻物を見ている気持ちにさせるものがある(←登場人物がキレイやしなーっ)。男たちは格好良く。女たちは儚げで。そんな中に展開される、花火のように燃えて散る、松永誠一郎(堤真一)と勝山太夫(松雪泰子)の悲恋は。この秋、観たかったものそのもので。もぉ、大満足!

だけどね。もうちょっと、おバカな男たちのが好きだな。もうちょっと、強い女たちのが好きだな。楽しく観劇しながら。そういう新感線ならではの愛しいヤツラを探してた。ちょろいくらいお人好しで、いくら騙されても懲りないくせに、好きな女のためなら何でも出来て、すんげー強くなっちゃう男たちと。明るくて、そんな男をハナであしらっちゃいながら、いざとなったら包みこんで守って、戦っちゃう女たち。そこんとこが、やっぱ寂しかったかなぁ。

実は。本日遅刻入場(←大迷惑)。友より、「ありえねぇ」という言葉を頂戴する。
劇団☆新感線の舞台は、幕前の音楽から始まってる。開演時間が近づくと、BGMの音量がぐんぐん大きくなって。劇場独特のざわめきが、静まりかえる。ワクワクがドキドキにかわって、最高潮になってはじまる芝居。この醍醐味を味わえないなんて・・・(泣)!!
そして。イライラのあまり、新幹線の中で作れなかった報告書を。今から仕上げなきゃ・・・。そんなこんなで。ちゃんとした感想は、来週に(←も一回、行くっ)。連載で(笑)。

拝啓お父さんです。

2005-09-27 02:40:32 | 演劇:2005年観劇感想編
ズガチラプロデュース 『拝啓お父さんです。』
劇場:恵比寿エコー劇場
原案:坂元健児
脚本/演出:白石ますみ
出演:坂元健児 ,ひのあらた,坂口祐未衣,安福毅,田中裕悟,吉岡健ニ


長一郎、菜々子、光男、元気でやっていますか?
お父さんは、今頃は三途の川を目指して歩いています。
お父さんが突然倒れてしまったので、お前達には
本当に心配をかけてしまいましたね。
すまなかったね。
思えばこうしてお前たちに手紙を書くというのは初めてですね。
少し緊張しますが、頑張って書きます・・・。 <フライヤーより>


こういう言葉の羅列に、弱い。せっかくの東京。何も観ずに帰るのは惜しいと、日程最優先で飛び込んだんだけど。劇場規模(200名弱)に不釣合いだろうと思えるような出演者の面々と、演目に興味があったのは事実。そして、観劇の感想は。きっと、いつまでもまとまらない。昨日、「不思議」と表現したけれど。「纏まらない舞台」では・・・失礼が過ぎるわな。

舞台装置は。そこまでしなくても、と思うほどビンボくさくて。ド田舎にありがちな部屋の再現だけど、旧家の風格はなく。遺産争いの信憑性に欠けたのが残念。兄弟は自身に有利な遺言状を偽造し、すり替え始める。弁護士として呼び込んだ役者まで絡んで、もう大変だ。

計算づくの台詞と動作。緻密に準備された笑いどころ。なのに、結末は。おさまりようのないほどに描いた感情を、愛であっさり治めるやり方で。それは、王道すぎて物足りない。あらゆる部分に、はずしの美学を狙ったのだ、と言われたら。なるほどまんまとやられたよと、納得できるかな。・・・んー、ごめん。やっぱりまとまらないね。。

出演欄を見て、気づかれる方はたくさんいらっしゃるだろうけど。元劇団四季の俳優さんたちの発声は、本当に見事。小劇場で、これだけの発声を聞いたのは。間違いなく初めて。観客には、明らかに四季の会の御婦人方もいらして。カーテンコールは、四季劇場仕様。豪華さのかけらもない舞台装置を、どのように御覧になったのか伺ってみたかったりもした。本日(26日)東京公演楽日後は、大阪を飛び越えて福岡へ。行ってらっしゃいませー。

夢の仲蔵千本桜

2005-09-23 01:58:55 | 演劇:2005年観劇感想編
松竹百十周年『夢の仲蔵千本桜』
劇場:大阪松竹座
作:齋藤雅文
演出:九代琴松
出演:松本幸四郎,市川染五郎,市川高麗蔵,澤村宗之助,片岡芦燕,片岡秀太郎 他


出演リストは、独断の好みにて。歌舞伎の見物友が引退(?)してしまったので、この空気を味わうのは本当に久しぶり。松竹座は『阿修羅城の瞳』以来だね。

『夢の仲蔵』シリーズとして展開されている演目の第三弾(←関西では初上演)。大部屋出身ながら座頭(ざがしら)まで出世した中村仲蔵(←実在)の人間模様を現代劇で。彼らの演じる劇中劇を、正統古典として観ることができる。いわゆるバックステージもの。今作の劇中劇は、『義経千本桜』。演出の九代琴松とは、松本幸四郎丈のことなので。どちらにも精通した入れ込み具合は、さすがの一言。

舞台は、回るわ上がるわ下がるわ自由自在で。奈落まで見せていただけて。役者は早替わりに宙乗りと。いわゆる歌舞伎要素が、てんこもり。あげく。何度か出てくる名跡ネタには、確実に笑いをもっていかれる。劇中には、「見物」という言葉が何度かでてくるが。こういう楽しい演目を観ると、歌舞伎って娯楽だよなぁと心底思う。

仲蔵の、座頭としての初舞台。資金や役者のやりくりに、明らかにケチがついて回るのは。やはり裏で仕組む人間がいるからで。出自への侮蔑、出世への妬心はつきることがない。欠けた役者の代役に抜擢したのは、仲蔵に心酔する一番弟子の此蔵(このぞう)。染五郎丈が演じることになる『四の切、狐忠信』は、劇中劇とはいえ本領発揮の一場で。若くて生き生きしていて、眼福もの。すっかり舞台を担える役者さんに成長されたなぁ。

師匠と弟子の、しっかりとした絆で結ばれたふたりの交わす会話は。実の親子という、役者の関係とあいまって深く響く。台詞にかかわる部分を反転にて→「舞台の上で狂えねぇ役者は死んでしまえ」と言い切る仲蔵。一分の正気も残さねばやり辛い、と去っていく門閥役者。狂い続ける姿が見たいのだと、身を捧げて師匠を守る此蔵。今生の別れのときにすら、舞台へと促す弟子と芸で応える師匠。ふたりの、舞台に対する壮絶な執心が。夢うつつを行き交って、涙を誘われる。

カーテンコールで、お染ちゃんの登場に。「きゃ~」って言ってから気付いた。やばい、自分が思う以上に好きかも(←鈍っ)。大阪公演は、9/29(木)まで。評判高い演目ですが、3階席なら(←大向こうさんが近いけど)今からでも間に合うのじゃないかと。

おじいちゃんの夏

2005-09-04 02:58:18 | 演劇:2005年観劇感想編
G2プロデュース 『おじいちゃんの夏』
劇場:大阪ビジネスパーク円形ホール
作/演出:G2
出演:小須田康人,武藤晃子(TEAM発砲・B・ZIN),廣川三憲(ナイロン100℃)
   ,佐藤真弓(猫のホテル),及川直紀(リリパットアーミーⅡ) 他


友にふられ、迷ったあげく。あいかわらず直前すべりこみ。またもや絶好席での観劇。
この演目。たしか初演時は、お子様向けというあおりがついていたと思う(←友のみ観劇)。今回練り直しが入ったとも聞いたが。案の定、客層はバラバラで。小学生の親子連れ、中学生から、壮年のおじさまたちから、老夫婦まで。さすがにひとりは居心地が悪いやね。

今回の目的は、小須田氏。演目を選ぶ余裕がないくらい(←失礼)、小須ちゃん欠乏症だったんだよ。おじいちゃん役だから、覚悟していたけど。老けて、出てこられた瞬間のショックはでかかった。そしてあっというまにボケてしまわれるので。哀しさでまともに観られません(←上手すぎるんだもん)。。

責任をとらない大人たち。多少ネジのゆるんだ先生。これは、子ども目線の大人なのかな。ボケたおじいちゃんのしでかすことにワクワクするんだ。癒し系と呼べちゃうんだ。
あんなこんなのドタバタに。客席の子どもたちから、明るい笑いがおこる。そっかぁ。こういうのが子どもには面白いんだぁ。なんてしみじみしたり。救われたり。ほら、お葬式で無邪気な笑い声を聞く気分。
デフォルメもあるけれど、てんでに勝手な大人たちは。いちばん年齢が近いこともあって、どうにも受け入れがたい。一見まともな子どもたちも、しょせんは大人の縮図を描いてて。舞台上のバラバラ加減が辛い。演者のもつ空気自体がバラバラだったのは狙いかなぁ。

両親を含む大人たちに絶望する(←させんなよ!)孫を誘い。線香花火を始めるおじいちゃん。あゆみの生まれた喜びの日のことを、ほのぼのと話すおじいちゃん。普段見えないものがある。たとえば昼間の線香花火はどうだ? そんなものが、あるんだよと諭されて。舞台上から漂う火薬の匂いに誘われて。見失っているものを探してみる気にさせられる。

蝉。夕立。雷。花火。夏の風物詩のなかで繰り広げられる物語で。おばあちゃんと孫の二役を難なくこなせる、武藤氏。ボケちゃったりするのに、笑いもストーリーも担える小須田氏。おふたりの関係は常に際立っていて、素晴らしい。これだけで観て良かった。
そうだ。カーテンコールで笑顔で両手を振ってくれた小須ちゃんは、一気に若返ってくれて。よかったぁ、安心したよぉ。

電車男 3/3

2005-09-01 01:05:38 | 演劇:2005年観劇感想編
まるで、RPG(ロールプレイングゲーム)のステージをクリアしていくかのように。順調すぎるほどうまく運ぶ流れの中で。電車男は迷い始める。変わっていく自分に。今までと違っていく自分に。変化を恐れる彼への助言は、胸に響く。台詞部分を反転表示にて(2箇所)。
「変わるのは怖い、でも変わらないのはもっと怖い」
「変わらないでいることは、ゆっくりと自分の周りに檻を作ってしまうことだ」
見れば。舞台上には、いつの間にか自分で作った檻から出られなくなっている男たちが。。


竦(すく)んで動けない電車男を励ます男たちは、必死にキーボードを叩く。傍観を決め込んでいた男は、誰よりも熱く。激励の言葉を否定していた男が、その言葉を心底から吐き出す。最初の一歩を踏み出したのは、電車男自身。それを信じて進めと皆が言う。
「お前は凄い」「凄い」「凄い」「お前は凄い奴なんだよ!」

『電車男』は、純愛物語として市民権を得てきたかもしれない。だけど、それだけじゃない。だから、エルメスは板(舞台)の上に立たず。純粋に、毒男たちの物語として展開される。彼らに電車男への羨望はあっても、嫉妬は無い。ゲームのステージを駆け上っていくヒーローを、引き摺り下ろすという汚い感情が一切無い。
無記名ゆえに、いとも簡単に悪意を吐き出せてしまうといわれる『2ちゃんねる』。そういうところで展開された、綺麗な魂の集い。こういうものに、感動できる人たちがたくさんいる世の中は。なかなか見捨てたもんじゃないよなと。笑って笑いたおしながら、ふと思った。

時に。この物語の信憑性が問われている。全てがバーチャル(作り事)ではないかと揶揄する声が聞こえる。でも、そんな問いは無意味だ。発信元がなんであろうとも。リアル(現実)に住まう受け手は、確実に変化している。ならばこれは、リアル(真実)でいい。
エンディング。舞台から捌(は)けるために役者さんたちは櫓を降りるけど。それは、自ら檻を出ることができた毒男たちのようで、ぐっとくる。

これから地方公演。ちょっとカルトな笑いも仕込んであって、オタク心を刺激する一面もあり。迷っていらっしゃるなら、舞台ならでは面白さと良さを、ぜひ。←勧めちゃってるよ。。