「強く生きる」ってことは、人権を侵害され感情を否定され心の中ぐっちゃぐちゃにされてもゾンビのように立ち上がれっていうことじゃない。ぐっちゃぐちゃにされないように、盾と矛を持って自分の心を守ること。余力があれば身近な人の心も守ること。倒れそうなら身近な人に守ってって言うこと。
朝からTLがAKB坊主と女子柔道体罰辞任ばかり。罪と罰について日本人が考えて来なかったツケか。などとぼんやり。
AKBでもないのに恋愛しないとかお前らのプロ意識やべえよ
諏訪は今夜雨の予報で明日朝の最低気温は7度。今朝はマイナス7度だったから14度も上がる。
シャープ黒字化というのは、とりあえずいいニュースだな。 シャープ5四半期ぶり営業黒字 スマホけん引10~12月 :業績ニュース :企業 :マーケット :日本経済新聞 s.nikkei.com/11kblgU
近代化マインドは、近代化のために役に立たない人の価値を認めないという感じがある。
@shouseikan 拝見いたしましたが、まさに「小愚の競いあい」程度にしか見えないのは私が無知無学ゆえなのか分かりませんが、程度の差はあれ先ずは己が出来るか否かの世界からしますと主体の実感なき「客観的な見方」とは「私は出来ないが~」に等しき逃の言葉かと。
感じる所は、武道界、スポーツ界、学問・教育の世界に存在する根本的な問題は一つ「人であることの共犯」であり、私を含む人間の傲慢さ、怠慢さが中心から拡散し様々な形態での姿形をとっているようです。
人であることを見直せる教育を為すには、有無いわせずやって来る明日へと前進しながらも、何処かで古き時代の我々へと私を導いてくれるような矛盾が成り立つ身体感を養える教育が必要です。
わたくし自身が武を学ぶ上で試みて行けるか否か問われますのが此の辺りのこととなります。武を試みる事は決して弱者に対して優越感を持つことではなく。強者や過酷な状況に屈し、ひれ伏することではありません。
安全を楽しむをスポーツとするなら、過酷な状況を楽しめるか否かが武の本義であり、命の掛からぬ立ち会いを勝っただ負けただ一喜一憂することは武の本義にあらず。武を学ぶこととは人としての生きることを全うし、自ら天意に従うことであります。
武を学び、仮にでも武のの一字を用いるなら此の辺りをスタート・ラインにされて見ては如何かと思います。以前も書きました「四面楚歌を戯れ、八方塞がりを戯れ、かぶき、かぶいて、かぶき通せるが真の武なり」とはスタート・ラインであります。
武道界、スポーツ界、教育・アカデミアの世界、これ等の現状を聞く度に人であることの致し方なさと悲しみ、怒りを感じずにはいれません。先ずは不言実行あるのみ。そして有言実行にて社会と繋がる事が近道かと。一歩一歩できることから私自身は進めて参ります。
この事は近々私のサイトに載る関根論考とも密接に関わっている事だが、実体は殆どない自分の経歴という見栄を捨てることに、多くの人達が非常な抵抗を感じているのだろう。
現在のあらゆる改革につきまとう担当者や責任者の「俺の面子が立った上でな」という「ガン」を、何とか除去することをしない限り、根本解決など「絵に描いた餅」だ。
オレのメンツが立った上でな、か…
1 件 リツイートされました