アルジャジーラによると、ナザレの「受胎告知の教会」で3日、ユダヤ人過激派による爆竹の爆発と教会の一部焼失の騒ぎがあったという。私の見る限り、この事件を報道しているところはほかにないと思うが、今はどのような状況になっているのか。またユダヤ人過激派というものの実態はどのようになっているのか、よくわからないところが多い。
昨日。大仕事を終えてちょっとぼおっとした感じ。早く郵便を出そうと思ったのだがうだうだしていたらお昼ころになってしまった。深川局まで歩き、駅前の書店を物色したあと、地下鉄に。どこかに行こうかと思ったが思いなおして南砂町に出て、江東図書館で『プーシキン全集』の4巻を借りる。今読んでいる3巻がかなり順調に読んでいるのですぐ読み終えてしまいそうな感じだからだ。イオンの未来屋でSAPIOを買い、1階で昼食の買い物。米を買わなければ、と思ったが5キロを運ぶのは面倒。とりあえず帰宅して昼食。家の近辺を歩き回っただけだがこれで1時間以上かかった。
午後は時々思い出したように放送大学を見たりしながら(「鉄鋼産業の再編成」とか「21世紀の南北アメリカの展望」とか「文化人類学はどこから来たのか」とか「小スンダ列島の住まい・スンバ族」とか「文化人類学研究」とか。どれも断片的)プーシキン「ボリス・ゴドゥノーフ」を読む。誰も悪い人が出てこない話、というのが世の中にはあるが、誰もいい人が出てこない話、というのは結構珍しいのではないか。ラストのきり方とか、結構めちゃくちゃだなと思ったが、現代劇にみられる異化効果的な感じさえある。非常にシェークスピア的な結構で、人物の性格はよく書けている。何だろう、何というか、優雅でない、という感じがする。デカブリストの乱の直前の何か切迫した感じのようなものがこの劇にはある。歴史を動かすのは輿論、あるいは民衆だ、という主張がある。しかしこれを現実の「動乱」時代のロシアに当てはめると何か空恐ろしいものがある。
リューリク朝がイヴァン雷帝の子息フョードルの死により断絶し、その義兄に当たる摂政ボリス・ゴドゥノーフが皇帝となるが、フョードルの若い弟ドミトリー(ディミトリー)がボリスにより暗殺されたと言う史実・伝説がこの劇の下敷きになっている。そしてこのドミトリーを名乗る僭称者が現れ、ゴドゥノーフ朝を断絶させて帝位につく。まるで芝居のようだが、史実である。ロシア史上「偽ドミトリー」と呼ばれるこの皇帝の素性は全く分からない。カトリックのポーランドと結託した彼が殺されるとシューイスキーという貴族が帝位についたり、呆れることにドミトリーを名乗る人物が再び現れて「偽ドミトリー2世」と名乗ったり、ポーランド王ジグムント3世がロシアを支配したり。最終的にはポーランドを撃退した貴族たちがロマノフ朝を推戴するわけだが、このあたりは気持ち悪くなるような乱れ方である。この気持ちの悪さに突っ込んでいくプーシキンの筆がデカブリストの乱直前の予感のようなものとして不協和音的な緊張感を醸し出しているのかもしれない。ロシアは不幸な生い立ちをした子ども、のような感じがある。それももちろん日本人である筆者の感じ方なのだろうけれども。
この芝居の中にはさまざまな象徴的な場面があって、そのあたりを分析するのが好きな人はたくさんいそうだが、とりあえずはこの気持ち悪さをこの芝居の特徴としておきたいと思う。
続いて「吝嗇の騎士」を読む。これは中世フランスあたりが舞台なのだが、この男爵のケチぶり、守銭奴ぶりというか拝金者ぶりも物凄い。最後には主君の目の前で少しは金をまわせと要求する息子に決闘を申し込むという常軌を逸した行動に出て直後に発作で死ぬというもの。なんだか○○えもんと呼ばれる人物を思い出す。こうした人物造形はやはりプーシキン独特のものがあるように思う。
***
夜はNHKスペシャルで「シーア派台頭の衝撃」というのを見る。イラクのシーア派の指導者がフセイン時代はほとんどイランに亡命していたということは知らなかった。イランが積極的にイラクのシーア派に連帯を呼びかけているのは知っていたが、その関係の深さがそこまでだと言うことは知らなかった。総選挙の結果イラクにシーア派主導の政権が出来るとイランとはますます接近することになるだろう。フセイン時代に「見捨てられていた」シーア派地域のインフラの整備にイランは今積極的に援助・投資を行い、高校を建てたり橋を掛けたりしているのだという。あれだけアメリカと対立していても、やはり産油国であるイランは大国なのだと言う認識を新たにする。驚くほど近代的なテヘランの町の映像を見て驚く。
そして知らなかったが、クウェートからサウジアラビア、バーレーン、カタールにかけてのペルシャ湾南岸は、実はシーア派の住民が多数を占める地域なのだと言う。湾岸諸国と言えば王族の専制国家で穏健なスンニ派・親米の産油国という認識しかなかったが、民衆は違うのだ。これらの諸国にアメリカは圧力をかけて「民主化」を強要し、選挙を行って議会を開かせたが、その結果シーア派が政治にどんどん台頭していると言う。彼らはイラクのシスターニ師を精神的支柱としているそうで、そうなるとどんどんシーア派の国際連帯が強まり、精神的にはイラク・ナジャフのシスターニ師を、軍事的・政治的にはイランを中核としたペルシャ湾岸シーア派ブロックが強大な石油利権を持った形で成立していく可能性がある。
アメリカはパンドラの箱を開けた形だ。フセイン政権を倒し、湾岸諸国の専制を配すると言う無邪気な進歩思想の強大な軍事力を背景にした押し付け(これはGHQのやり方と構造的には全く同じだ)により、強権で抑えられていた原理主義的傾向の強いシーア派がもくもくと煙のように立ち上り、アメリカを脅かすことになりそうである。
結局、アメリカは単独行動主義に走るあまり、伝統的なバランス・オブ・パワーの政治学の研究を怠った、ということになるのではないか。逆に言えば、冷戦終結後の自ら=「唯一の超大国」の力を過信しすぎている、ということだろう。力は何も軍事的・経済的・政治的な力だけではない。宗教的な団結力というものの強さをアメリカは軽視しすぎたのだろう。それはアメリカの世俗意識の高さの故ではなく、ブッシュ政権自身の原理主義的・福音主義的な傾向の強さの故かもしれない。アメリカは「唯一の超大国」であり、「ベスト・アンド・ブライティスト」の頭脳集団であるのだろうが、世界を差配するには力不足であると言うことはますます明らかになっているのだろうと思う。
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午後は時々思い出したように放送大学を見たりしながら(「鉄鋼産業の再編成」とか「21世紀の南北アメリカの展望」とか「文化人類学はどこから来たのか」とか「小スンダ列島の住まい・スンバ族」とか「文化人類学研究」とか。どれも断片的)プーシキン「ボリス・ゴドゥノーフ」を読む。誰も悪い人が出てこない話、というのが世の中にはあるが、誰もいい人が出てこない話、というのは結構珍しいのではないか。ラストのきり方とか、結構めちゃくちゃだなと思ったが、現代劇にみられる異化効果的な感じさえある。非常にシェークスピア的な結構で、人物の性格はよく書けている。何だろう、何というか、優雅でない、という感じがする。デカブリストの乱の直前の何か切迫した感じのようなものがこの劇にはある。歴史を動かすのは輿論、あるいは民衆だ、という主張がある。しかしこれを現実の「動乱」時代のロシアに当てはめると何か空恐ろしいものがある。
リューリク朝がイヴァン雷帝の子息フョードルの死により断絶し、その義兄に当たる摂政ボリス・ゴドゥノーフが皇帝となるが、フョードルの若い弟ドミトリー(ディミトリー)がボリスにより暗殺されたと言う史実・伝説がこの劇の下敷きになっている。そしてこのドミトリーを名乗る僭称者が現れ、ゴドゥノーフ朝を断絶させて帝位につく。まるで芝居のようだが、史実である。ロシア史上「偽ドミトリー」と呼ばれるこの皇帝の素性は全く分からない。カトリックのポーランドと結託した彼が殺されるとシューイスキーという貴族が帝位についたり、呆れることにドミトリーを名乗る人物が再び現れて「偽ドミトリー2世」と名乗ったり、ポーランド王ジグムント3世がロシアを支配したり。最終的にはポーランドを撃退した貴族たちがロマノフ朝を推戴するわけだが、このあたりは気持ち悪くなるような乱れ方である。この気持ちの悪さに突っ込んでいくプーシキンの筆がデカブリストの乱直前の予感のようなものとして不協和音的な緊張感を醸し出しているのかもしれない。ロシアは不幸な生い立ちをした子ども、のような感じがある。それももちろん日本人である筆者の感じ方なのだろうけれども。
この芝居の中にはさまざまな象徴的な場面があって、そのあたりを分析するのが好きな人はたくさんいそうだが、とりあえずはこの気持ち悪さをこの芝居の特徴としておきたいと思う。
続いて「吝嗇の騎士」を読む。これは中世フランスあたりが舞台なのだが、この男爵のケチぶり、守銭奴ぶりというか拝金者ぶりも物凄い。最後には主君の目の前で少しは金をまわせと要求する息子に決闘を申し込むという常軌を逸した行動に出て直後に発作で死ぬというもの。なんだか○○えもんと呼ばれる人物を思い出す。こうした人物造形はやはりプーシキン独特のものがあるように思う。
***
夜はNHKスペシャルで「シーア派台頭の衝撃」というのを見る。イラクのシーア派の指導者がフセイン時代はほとんどイランに亡命していたということは知らなかった。イランが積極的にイラクのシーア派に連帯を呼びかけているのは知っていたが、その関係の深さがそこまでだと言うことは知らなかった。総選挙の結果イラクにシーア派主導の政権が出来るとイランとはますます接近することになるだろう。フセイン時代に「見捨てられていた」シーア派地域のインフラの整備にイランは今積極的に援助・投資を行い、高校を建てたり橋を掛けたりしているのだという。あれだけアメリカと対立していても、やはり産油国であるイランは大国なのだと言う認識を新たにする。驚くほど近代的なテヘランの町の映像を見て驚く。
そして知らなかったが、クウェートからサウジアラビア、バーレーン、カタールにかけてのペルシャ湾南岸は、実はシーア派の住民が多数を占める地域なのだと言う。湾岸諸国と言えば王族の専制国家で穏健なスンニ派・親米の産油国という認識しかなかったが、民衆は違うのだ。これらの諸国にアメリカは圧力をかけて「民主化」を強要し、選挙を行って議会を開かせたが、その結果シーア派が政治にどんどん台頭していると言う。彼らはイラクのシスターニ師を精神的支柱としているそうで、そうなるとどんどんシーア派の国際連帯が強まり、精神的にはイラク・ナジャフのシスターニ師を、軍事的・政治的にはイランを中核としたペルシャ湾岸シーア派ブロックが強大な石油利権を持った形で成立していく可能性がある。
アメリカはパンドラの箱を開けた形だ。フセイン政権を倒し、湾岸諸国の専制を配すると言う無邪気な進歩思想の強大な軍事力を背景にした押し付け(これはGHQのやり方と構造的には全く同じだ)により、強権で抑えられていた原理主義的傾向の強いシーア派がもくもくと煙のように立ち上り、アメリカを脅かすことになりそうである。
結局、アメリカは単独行動主義に走るあまり、伝統的なバランス・オブ・パワーの政治学の研究を怠った、ということになるのではないか。逆に言えば、冷戦終結後の自ら=「唯一の超大国」の力を過信しすぎている、ということだろう。力は何も軍事的・経済的・政治的な力だけではない。宗教的な団結力というものの強さをアメリカは軽視しすぎたのだろう。それはアメリカの世俗意識の高さの故ではなく、ブッシュ政権自身の原理主義的・福音主義的な傾向の強さの故かもしれない。アメリカは「唯一の超大国」であり、「ベスト・アンド・ブライティスト」の頭脳集団であるのだろうが、世界を差配するには力不足であると言うことはますます明らかになっているのだろうと思う。
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ムハンマドの風刺漫画問題、イスラム教徒の攻撃は留まるところを知らない。
探した限りで、この問題について熱心に取り上げていて、判断材料を提供してくれるのはこちらのブログかと思う。またこちらもそうだ。
この問題にはいろいろな切り口があり得るのだが、つまりは「聖なるものへの畏敬」を重視すべきか、「表現の自由」を重視すべきか、ということになるようだ。そして聖なるものへの畏敬の仕方、それに伴う禁忌というのは残念ながら文明ごと、文化ごとに異なる。イスラム社会ではキリスト教社会に比べても遙かに偶像崇拝禁止のタブーが強い。原理主義的な社会においては映画などもまだまだ不道徳であるはずである。もちろんイスラム社会にも絵画はあったが、ムハンマド(マホメットは英語による表現で、現地音主義が強くなってきた現在はアラビア語で表記するのが一般になっている)やアリーのような聖なる存在は顔に白い布をたらして表現される。つまり、顔を描くこと自体がタブーであり、さらにそれに風刺を加えるなどというのはそれ自体が冒涜である、という認識はあったほうがいい。現状ではそれに対する認識が日本でも欧米でも欠けているようにうかがえる。
一方で、イスラム教に対する表現について、ヨーロッパでは言論の硬直が起こっているというのも、かなり深刻な問題であるらしいことは昨日いろいろな言説を読んでいてようやく認識した。イスラム教を風刺した映画監督が昨年暗殺されたということもある。日本でもラシュディを訳した筑波の教授が暗殺されたことがあった、まだホメイニ存命中のことであったと思うが。これは例えていえば中国や韓国の「過去の歴史認識」問題での日本攻撃と同じである。この問題が日本の言論空間をいかに風通しの悪いものにしていたかということは理解されるだろう。日本では拉致問題の発覚と金正日の謝罪によって一気に場面が展開し、そうした中国や韓国の態度を批判することがおおっぴらに許されるようになったが、それでも中国や韓国で日本に対する暴力沙汰が絶えない。
ヨーロッパにおいてはイスラム教批判はことによったら命に関わるという事態にもなっていて、移民を積極的に受け入れてきたのにヨーロッパ文化・ヨーロッパ国家への同化がほとんど進んでいないという「矛盾」が―マルチカルチャリズム的には矛盾ではないのだろうが、その論理が破綻したからこうした事態が起こっているとも言える―この事態を引き起こしたといっていいだろう。これは既に昨年11月からの問題なのだが、日本で言えば「プロ市民」のような人たちが実際の漫画以外のものも取り混ぜてイスラム圏一帯に「こういうけしからん問題がある」と喧伝してまわったということで、このあたりのところも歴史認識問題に似ているところがある。
そういうことが背景にある、ということを一応認識した上で、この問題は見ていかなければならないと思う。
探した限りで、この問題について熱心に取り上げていて、判断材料を提供してくれるのはこちらのブログかと思う。またこちらもそうだ。
この問題にはいろいろな切り口があり得るのだが、つまりは「聖なるものへの畏敬」を重視すべきか、「表現の自由」を重視すべきか、ということになるようだ。そして聖なるものへの畏敬の仕方、それに伴う禁忌というのは残念ながら文明ごと、文化ごとに異なる。イスラム社会ではキリスト教社会に比べても遙かに偶像崇拝禁止のタブーが強い。原理主義的な社会においては映画などもまだまだ不道徳であるはずである。もちろんイスラム社会にも絵画はあったが、ムハンマド(マホメットは英語による表現で、現地音主義が強くなってきた現在はアラビア語で表記するのが一般になっている)やアリーのような聖なる存在は顔に白い布をたらして表現される。つまり、顔を描くこと自体がタブーであり、さらにそれに風刺を加えるなどというのはそれ自体が冒涜である、という認識はあったほうがいい。現状ではそれに対する認識が日本でも欧米でも欠けているようにうかがえる。
一方で、イスラム教に対する表現について、ヨーロッパでは言論の硬直が起こっているというのも、かなり深刻な問題であるらしいことは昨日いろいろな言説を読んでいてようやく認識した。イスラム教を風刺した映画監督が昨年暗殺されたということもある。日本でもラシュディを訳した筑波の教授が暗殺されたことがあった、まだホメイニ存命中のことであったと思うが。これは例えていえば中国や韓国の「過去の歴史認識」問題での日本攻撃と同じである。この問題が日本の言論空間をいかに風通しの悪いものにしていたかということは理解されるだろう。日本では拉致問題の発覚と金正日の謝罪によって一気に場面が展開し、そうした中国や韓国の態度を批判することがおおっぴらに許されるようになったが、それでも中国や韓国で日本に対する暴力沙汰が絶えない。
ヨーロッパにおいてはイスラム教批判はことによったら命に関わるという事態にもなっていて、移民を積極的に受け入れてきたのにヨーロッパ文化・ヨーロッパ国家への同化がほとんど進んでいないという「矛盾」が―マルチカルチャリズム的には矛盾ではないのだろうが、その論理が破綻したからこうした事態が起こっているとも言える―この事態を引き起こしたといっていいだろう。これは既に昨年11月からの問題なのだが、日本で言えば「プロ市民」のような人たちが実際の漫画以外のものも取り混ぜてイスラム圏一帯に「こういうけしからん問題がある」と喧伝してまわったということで、このあたりのところも歴史認識問題に似ているところがある。
そういうことが背景にある、ということを一応認識した上で、この問題は見ていかなければならないと思う。
ここ数日のニュースで最大のものは、パレスチナ評議会選挙におけるハマスの圧勝だ。いわゆるイスラム過激派組織としてしか西欧社会には認識されていないが、イスラエルに対する軍事的な闘争を進める一方でアラファト体制のもと万年与党であったファタハに対する最大野党としての性格が今回は最大限に評価されたと考えるべきだろう。すなわち、パレスチナ社会で「正常な」議会制民主主義が成果を挙げたと考えるべきである。テロリスト集団であるということだけで評価しようという態度は破綻せざるをえないだろう。
カンボジアのポル=ポト派と同様に、いかに内実を変化させつつ周囲と協調する勢力に変化するか、させるかという方向で考えざるを得ないのではないかと思う。しかし実際問題として、米欧諸国のハマスに対する拒絶感に絶対的なものがあるのも事実だろう。2001年のテロ以来、テロリストの主張をも三分の理があるのではという善意の想像力は頑強で強烈な決意のもとで放棄されている。そうした感情はもちろん理解できなくはないけれども、911で殺されたよりも遙かに多くの人々が数十年にわたって殺され続けているパレスチナ人の感情も理解してはならないと断言することは私には適当だとは思えない。
実際、ハマスが原理主義的な集団であると言うならば、イスラエル国家もある種の原理主義的な成り立ちをしているというのも言うまでもなく事実であるわけで、どんなに難しくともお互いに譲歩しあう以外の線で問題が「解決」することはあり得ない。お互いに存在を認めず、「蒋介石を相手にせず」的な態度をとり続けて解決することがあり得ようはずがない。正直言ってファタハの体制は少々限界に来ているので、ここでハマスに現実主義的な路線に少しでも近づいてもらうしか平和への道はなかろうと思う。
しかしそれにしても、アメリカやイギリス、ドイツやフランスはこのハマス勝利という現実の先にどのような戦略を描きなおそうとしているのだろうか。今のところそれが全く見えて来ないために、原則論的なことしか私にも書きようがないのだが、どこからかでも何か秀逸なアイディアが出てくることを期待するしかないのか。雲をつかむような話ではあるのだが。
カンボジアのポル=ポト派と同様に、いかに内実を変化させつつ周囲と協調する勢力に変化するか、させるかという方向で考えざるを得ないのではないかと思う。しかし実際問題として、米欧諸国のハマスに対する拒絶感に絶対的なものがあるのも事実だろう。2001年のテロ以来、テロリストの主張をも三分の理があるのではという善意の想像力は頑強で強烈な決意のもとで放棄されている。そうした感情はもちろん理解できなくはないけれども、911で殺されたよりも遙かに多くの人々が数十年にわたって殺され続けているパレスチナ人の感情も理解してはならないと断言することは私には適当だとは思えない。
実際、ハマスが原理主義的な集団であると言うならば、イスラエル国家もある種の原理主義的な成り立ちをしているというのも言うまでもなく事実であるわけで、どんなに難しくともお互いに譲歩しあう以外の線で問題が「解決」することはあり得ない。お互いに存在を認めず、「蒋介石を相手にせず」的な態度をとり続けて解決することがあり得ようはずがない。正直言ってファタハの体制は少々限界に来ているので、ここでハマスに現実主義的な路線に少しでも近づいてもらうしか平和への道はなかろうと思う。
しかしそれにしても、アメリカやイギリス、ドイツやフランスはこのハマス勝利という現実の先にどのような戦略を描きなおそうとしているのだろうか。今のところそれが全く見えて来ないために、原則論的なことしか私にも書きようがないのだが、どこからかでも何か秀逸なアイディアが出てくることを期待するしかないのか。雲をつかむような話ではあるのだが。
イラクの国民議会選挙がほぼ順調に進んでいるようだ。イラク社会の抱える最大の問題は宗派・民族間の対立であることははっきりしているが、今回に関してはこの選挙のプロセスの中で自分たちの集団の利益を図るためには参加したほうがいいということで一致したと考えてよいのだろうと思う。ただし、この選挙の結果で政界地図が明確になり、自らの主張が通らなかった側がこうした「民主的」な政治過程にこれからも同意するかどうかは不透明である。もともと諸派への分裂志向の強い国民をフセイン政権が強力な独裁権力で纏め上げていたわけだから、その圧力がなくなった後どのように変化するかは余りに未知数が多すぎる。
フセイン政権は非常に近代主義的な政権で、社会の世俗化=脱宗教化と女性「解放」をすすめていた。このあたりはトルコのケマル・アタテュルクなどと同様の開発独裁のイスラム世界版なのだが、こうした独裁の圧力がなくなると近代化勢力が後退し宗教勢力が伸張することは必至である。現在の政治情勢はシーア派・スンニ派・クルド人の3勢力に世俗派の「イラク国民リスト」がからむ、ということのようだ。しかし世俗派が勢力を伸ばそうとしたらフセイン政権下で世俗化を進めてきた旧バース党員の協力が必要になることは必至であり、それをアメリカがどこまで容認するかが問題になるだろう。いずれにしても「アメリカを支持する」勢力は存在しない。アメリカを利用する勢力はあろうが。
治安や軍の問題も指摘されている。現在治安が向上しつつあるのは各派のミリシア(独自に保有する武装勢力)が警察などに認定されているからであるというから、中央政府の威令よりも各派の指導者の意向に従っているに過ぎない。いわば、明治維新のときに西郷隆盛に従って上京した薩摩の兵士や警察官たちのようなもので、西郷が野に下れば3000人ほどが一斉に辞職して薩摩に帰ったというから、こちらも各派の合従連衡の行方によってはどんな事態が発生するかわからないだろう。
しかしそれにしても、アメリカがテロとの戦争を名目に石油利権を漁ろうとして開けたパンドラの箱からこれだけの魑魅魍魎が飛び出すとは思わなかっただろう。いまさらながらフセイン政権という強固な「鍵」がこの箱を厳重に封印していたことを思わずにはいられないのではないかと普通なら思うが、まあそこを思わないのがアメリカ人かもしれないという気もする。このパンドラの箱からアメリカが石油とか民主化とか安全保障とかの「希望」を取り出すことができるのか。取り出したと思ったらもっと手におえない魔物であった、という可能性もあるような気がする。まあ5000年の歴史を持つイラクを200年強のアメリカが思い通りにできると考えた方が思い上がりなのである。
***
オリックスの仰木彬前監督がなくなったという。ついこの間まで指揮をとっていたのに。やはりよほど体調が悪かったのだろう。
仰木監督といえばイチローらを育て上げ、震災の年にオリックスを優勝させたことが良く取り上げられるが、私が一番印象に残っているのはその采配である。仰木マジックとよく言われたが、その選手起用が非常に興味深かった。そのさまざまな起用法の中で私が面白いなと思うのは、2アウトをとった後でファーストを交代させたりする起用である。守備が交代すると交代したところにボールが飛ぶ、とよく言われるが、これは科学的根拠があまりあるとは思えないが実際にはよく目にすることである。意味のない交代に見えてもファーストが交代すると次打者がファーストゴロでゲームセット、などという場面をよく目にした。そのワンナウトをとるためには科学的に見えなくても取るべき手段は取る、というやり方が面白いなと思ったのである。彼以後、そんな采配をする監督を見たことがない。科学的でないとか合理的でないといわれることを、みな恐れているのではないかという気がする。そんなつまらないものにこだわらない野球が、彼の真骨頂であったのではないかと私は思っている。ご冥福をお祈りしたい。
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フセイン政権は非常に近代主義的な政権で、社会の世俗化=脱宗教化と女性「解放」をすすめていた。このあたりはトルコのケマル・アタテュルクなどと同様の開発独裁のイスラム世界版なのだが、こうした独裁の圧力がなくなると近代化勢力が後退し宗教勢力が伸張することは必至である。現在の政治情勢はシーア派・スンニ派・クルド人の3勢力に世俗派の「イラク国民リスト」がからむ、ということのようだ。しかし世俗派が勢力を伸ばそうとしたらフセイン政権下で世俗化を進めてきた旧バース党員の協力が必要になることは必至であり、それをアメリカがどこまで容認するかが問題になるだろう。いずれにしても「アメリカを支持する」勢力は存在しない。アメリカを利用する勢力はあろうが。
治安や軍の問題も指摘されている。現在治安が向上しつつあるのは各派のミリシア(独自に保有する武装勢力)が警察などに認定されているからであるというから、中央政府の威令よりも各派の指導者の意向に従っているに過ぎない。いわば、明治維新のときに西郷隆盛に従って上京した薩摩の兵士や警察官たちのようなもので、西郷が野に下れば3000人ほどが一斉に辞職して薩摩に帰ったというから、こちらも各派の合従連衡の行方によってはどんな事態が発生するかわからないだろう。
しかしそれにしても、アメリカがテロとの戦争を名目に石油利権を漁ろうとして開けたパンドラの箱からこれだけの魑魅魍魎が飛び出すとは思わなかっただろう。いまさらながらフセイン政権という強固な「鍵」がこの箱を厳重に封印していたことを思わずにはいられないのではないかと普通なら思うが、まあそこを思わないのがアメリカ人かもしれないという気もする。このパンドラの箱からアメリカが石油とか民主化とか安全保障とかの「希望」を取り出すことができるのか。取り出したと思ったらもっと手におえない魔物であった、という可能性もあるような気がする。まあ5000年の歴史を持つイラクを200年強のアメリカが思い通りにできると考えた方が思い上がりなのである。
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オリックスの仰木彬前監督がなくなったという。ついこの間まで指揮をとっていたのに。やはりよほど体調が悪かったのだろう。
仰木監督といえばイチローらを育て上げ、震災の年にオリックスを優勝させたことが良く取り上げられるが、私が一番印象に残っているのはその采配である。仰木マジックとよく言われたが、その選手起用が非常に興味深かった。そのさまざまな起用法の中で私が面白いなと思うのは、2アウトをとった後でファーストを交代させたりする起用である。守備が交代すると交代したところにボールが飛ぶ、とよく言われるが、これは科学的根拠があまりあるとは思えないが実際にはよく目にすることである。意味のない交代に見えてもファーストが交代すると次打者がファーストゴロでゲームセット、などという場面をよく目にした。そのワンナウトをとるためには科学的に見えなくても取るべき手段は取る、というやり方が面白いなと思ったのである。彼以後、そんな采配をする監督を見たことがない。科学的でないとか合理的でないといわれることを、みな恐れているのではないかという気がする。そんなつまらないものにこだわらない野球が、彼の真骨頂であったのではないかと私は思っている。ご冥福をお祈りしたい。
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昨日は紀宮殿下がご婚礼を済まされ、臣籍に降下された。まださまざまな報道の対象になるだろうが、末永いお幸せを願う。同日ブッシュ米大統領来日。伊丹にはバレンタイン監督・王監督などが出迎えたという。なにも皇室の慶事と同じ日に来日しなくてもと思うが、いろいろな意味で尻に火がついているのだろう。小泉首相も昨夜京都に向かったというが、いずれにしても明るい雰囲気の中で会談を行いたいということかもしれない。
田中宇氏のサイトは最近あまり読まなくなっていたのだが、フジモリ元大統領に関する記事を読んでいろいろへえと思わされた。リンク先まできちんと呼んでいるわけではないが、筋としては納得できる。ペルーのトレド政権は先住民出身ということを看板にしながら米国追従の政策運営をやって支持を失い、それを挽回するためにチリに対して強硬政策を打ち出し、チリとの関係悪化が起こっている中であえてチリに入国したフジモリ氏の計算は言われてみればなるほどと思う。現ペルー政府の数え上げた罪状などはもともとでっち上げだろうと思ってはいたが、それが証明されたらペルー政界も一気に変化する可能性はある。フジモリ氏の亡命も911以前のことだし、テロに対する強硬姿勢というのは現ブッシュ米政権とも共通するから、アメリカとの話もそれなりについているのではないかとも思うし、復活もありえるという希望がだんだん強くなりつつある。恐らくフジモリ氏は全て計算しているだろうし、フジモリ失脚以来完全にストップしているという日本のODAの問題もある。中上流階級には支持は弱いようだが、うまく流れに乗れば行くかもしれない。
小泉氏は党内や国民の世論をうまくつかんで政局を乗り切るのが得意だが、フジモリ氏は国際間の鞘当などもうまく利用して政局を乗り切る業師だと思う。現実問題としてフジモリ氏が大統領に復活した方が多くのペルー国民にとって幸福のように思えるし、期待をもってフジモリ氏の良く練られた技を拝見したいと言うところである。
田中宇氏のサイトは最近あまり読まなくなっていたのだが、フジモリ元大統領に関する記事を読んでいろいろへえと思わされた。リンク先まできちんと呼んでいるわけではないが、筋としては納得できる。ペルーのトレド政権は先住民出身ということを看板にしながら米国追従の政策運営をやって支持を失い、それを挽回するためにチリに対して強硬政策を打ち出し、チリとの関係悪化が起こっている中であえてチリに入国したフジモリ氏の計算は言われてみればなるほどと思う。現ペルー政府の数え上げた罪状などはもともとでっち上げだろうと思ってはいたが、それが証明されたらペルー政界も一気に変化する可能性はある。フジモリ氏の亡命も911以前のことだし、テロに対する強硬姿勢というのは現ブッシュ米政権とも共通するから、アメリカとの話もそれなりについているのではないかとも思うし、復活もありえるという希望がだんだん強くなりつつある。恐らくフジモリ氏は全て計算しているだろうし、フジモリ失脚以来完全にストップしているという日本のODAの問題もある。中上流階級には支持は弱いようだが、うまく流れに乗れば行くかもしれない。
小泉氏は党内や国民の世論をうまくつかんで政局を乗り切るのが得意だが、フジモリ氏は国際間の鞘当などもうまく利用して政局を乗り切る業師だと思う。現実問題としてフジモリ氏が大統領に復活した方が多くのペルー国民にとって幸福のように思えるし、期待をもってフジモリ氏の良く練られた技を拝見したいと言うところである。
なんとなくぼおっとネットを見る。藤原新也氏のサイトを読んでいていくつか思うこと。
私は昔はなんとなく藤原氏を敬遠していてどうも胡散臭い感じがしてならなかったのだが、最近こちらのサイトを読むようになって全く認識が新たになった。
氏は『チベット放浪』という本を出しているが、実際に行っているのは現在「インド領ラダック」と呼ばれる地域なのだそうだ。で、藤原氏によると、この「ラダック」は「行ってみると風土、民像(原文ママ、「民族」の誤変換か?)、宗教、言語もまったくチベットそのものだった。若い私は歴史を聞き取りし怒り感じた。そして帰国後、雑誌で敢えてそれをラダックと呼ばず「チベット」と呼ぶことにした。」その結果、インド政府からクレームがつき、場合によってはインドへの入国が拒否される可能性もほのめかされたのだという。
私はなんとなく中国領にされてしまったチベットでは人々は抑圧されて不幸になったが、ラダックはインド領だから幸運だったのだろうと思っていたのだが、全然そんなことはなかったようだ。ラダックがそんなに「チベットの不可分の一部」であるとは思っていなかったし、いろいろと認識が足りないところもあるなと思った。現在、本来のチベットは中国内でもチベット自治区を削って青海省に入れたり分断工作が進んでいるし、このままいわゆる「西部大開発」が進められたらチベット人がアメリカインディアンのおかれた状態になってしまうという状況は徹底的に進行してしまうだろうという印象なのだが、それだけでなくインドやパキスタンの領土になってしまっている国境による分断もまた進んでいるのだと思わざるを得なかった。そういう意味でチベットもまた、モンゴルのように分断されてており、またクルドのように国家を喪失した民族なのだということを強く印象付けられた。
「国境とは力のある大国が線引きをするいかさまものなのだ。旅はその国境をはぎ取る作業でもある。」と藤原氏は言う。こうした言辞は反体制・アナーキズムを気取る浅薄なものだと思うことが多いが、氏の言葉には重みがある。そして「国境を剥ぎ取る」という国家という巨大な存在に対抗するいわば政治的ロマンチシズムを見出すそういう「旅」もあるのだとちょっと感動させられた。もちろんその感動は、現実のインド国家や中国国家からの激しい圧力への氏の抵抗があって初めてもたらされるものである。
ダライラマとのインタビュー番組がNHKで放映されたことがあった。私はそれは知っていたのだがインタビュアーが山折哲夫氏と藤原氏ということでどうも気が進まず見なかった覚えがある。しかし実は、日本の放送界にはダライラマは扱わないという不文律があるのだそうだ。大NHKがそれを破ってインタビュー番組を制作するということ自体が大変な冒険なのだという。もちろん当然それは、それによって中国との関係を悪化させるということである。
そしてそのような企画をどのように進めたかというと、ディレクターは藤原氏に「この企画は今の段階では私と会長の海老沢しか知りません」と言ったのだという。海老沢氏はさまざまな悪口雑言を浴びてNHKを去ったが、そんな骨のある人物だとは知らなかった。結局人間の本来の人格というものはこのようなところに現れるのだと感動した。
藤原氏のところにはそれ以来日中友好協会の定期刊行物が届かなくなる、などの変化があったそうだが、中共のブラックリストに載った可能性は高いのだという。チベットやダライラマを扱うということは今でもそのような危険のあることで、やはり信念がなければ出来ないことなのだと改めて認識する。日本にも海老沢氏のような骨のあるトップがいたということに少々安心を覚えるとともに、それが石をもて追われる状況でもあるのが今の日本なのだなということも感じた。
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私は昔はなんとなく藤原氏を敬遠していてどうも胡散臭い感じがしてならなかったのだが、最近こちらのサイトを読むようになって全く認識が新たになった。
氏は『チベット放浪』という本を出しているが、実際に行っているのは現在「インド領ラダック」と呼ばれる地域なのだそうだ。で、藤原氏によると、この「ラダック」は「行ってみると風土、民像(原文ママ、「民族」の誤変換か?)、宗教、言語もまったくチベットそのものだった。若い私は歴史を聞き取りし怒り感じた。そして帰国後、雑誌で敢えてそれをラダックと呼ばず「チベット」と呼ぶことにした。」その結果、インド政府からクレームがつき、場合によってはインドへの入国が拒否される可能性もほのめかされたのだという。
私はなんとなく中国領にされてしまったチベットでは人々は抑圧されて不幸になったが、ラダックはインド領だから幸運だったのだろうと思っていたのだが、全然そんなことはなかったようだ。ラダックがそんなに「チベットの不可分の一部」であるとは思っていなかったし、いろいろと認識が足りないところもあるなと思った。現在、本来のチベットは中国内でもチベット自治区を削って青海省に入れたり分断工作が進んでいるし、このままいわゆる「西部大開発」が進められたらチベット人がアメリカインディアンのおかれた状態になってしまうという状況は徹底的に進行してしまうだろうという印象なのだが、それだけでなくインドやパキスタンの領土になってしまっている国境による分断もまた進んでいるのだと思わざるを得なかった。そういう意味でチベットもまた、モンゴルのように分断されてており、またクルドのように国家を喪失した民族なのだということを強く印象付けられた。
「国境とは力のある大国が線引きをするいかさまものなのだ。旅はその国境をはぎ取る作業でもある。」と藤原氏は言う。こうした言辞は反体制・アナーキズムを気取る浅薄なものだと思うことが多いが、氏の言葉には重みがある。そして「国境を剥ぎ取る」という国家という巨大な存在に対抗するいわば政治的ロマンチシズムを見出すそういう「旅」もあるのだとちょっと感動させられた。もちろんその感動は、現実のインド国家や中国国家からの激しい圧力への氏の抵抗があって初めてもたらされるものである。
ダライラマとのインタビュー番組がNHKで放映されたことがあった。私はそれは知っていたのだがインタビュアーが山折哲夫氏と藤原氏ということでどうも気が進まず見なかった覚えがある。しかし実は、日本の放送界にはダライラマは扱わないという不文律があるのだそうだ。大NHKがそれを破ってインタビュー番組を制作するということ自体が大変な冒険なのだという。もちろん当然それは、それによって中国との関係を悪化させるということである。
そしてそのような企画をどのように進めたかというと、ディレクターは藤原氏に「この企画は今の段階では私と会長の海老沢しか知りません」と言ったのだという。海老沢氏はさまざまな悪口雑言を浴びてNHKを去ったが、そんな骨のある人物だとは知らなかった。結局人間の本来の人格というものはこのようなところに現れるのだと感動した。
藤原氏のところにはそれ以来日中友好協会の定期刊行物が届かなくなる、などの変化があったそうだが、中共のブラックリストに載った可能性は高いのだという。チベットやダライラマを扱うということは今でもそのような危険のあることで、やはり信念がなければ出来ないことなのだと改めて認識する。日本にも海老沢氏のような骨のあるトップがいたということに少々安心を覚えるとともに、それが石をもて追われる状況でもあるのが今の日本なのだなということも感じた。
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昨日は昼前に出かけ、松本近くで仕事。駅から少し歩くのだが、もう飛騨山脈(北アルプス)の北の方は既に雪化粧をしていた。冬になると松本平は西山(飛騨山脈)颪が強く深く雪が積もり、道を歩くのも難儀なのだが、昨日はまだ天気がよく風も穏やかで歩いていて気持ちの良いくらいの道のりであった。奈良井川の河原には河川改修工事が入っているようだが、河原の薄の穂が銀色に風になびいていて美しかった。
帰ってきて仕事の後処理。行く前に駅前の書店で買ったSAPIOを読むと、小林よしのり氏は目の手術ということで「新ゴーマニズム宣言」が休載になっていた。活発な活動が少し体の各所に影響を及ぼしているのだろう。氏も50を超え、からだをいたわりつつ活動を続けなければならない時期に入っているのだろう。私も体には一応の配慮はしているつもりだが、こうした話を聞くと身が引き締まる感じがする。
午後から夜にかけて仕事。帰ってきて夕食を取っていたらアンマンの爆破テロのニュース。確かにイスラムという文明における自己主張の仕方にはやや疑問が出てくるのはやむをえないだろう。彼らに内在する論理が世界の全ての人に対して説得力を持つのかどうか。現実に彼らに共感を感じている民族・国民は実際にはこちらが考えているほど少なくないだろうとは思う。西欧文明「優越」の論理が結局は破壊を引き起こしている。多民族が共存できるほど欧米世界は懐が広い、というところを証明して見せたかったのが結局は破綻しているということにならざるを得ない。
であればどうすべきなのか。やはり移民を送り出す国自体が生活していくのに十分魅力的な国になることがまず一番重要なことだろう。選択不可能的に移民や難民が生み出されていることが問題の根本にあるわけで、魅力ある国造りが先進国等の援助によって行われなければならないし、そのモデルを先進国側が押し付けるので無く、十分に話し合いを積み重ねて行っていかなければならないのだと思う。気の遠くなるような作業ではあるが。日本国内の過疎地問題などで考えても、なかなか簡単には行かない問題であることは明らかだが。
青空文庫のブログを読んでいたら著作権保護期間の死後70年への延長問題が論じられていた。現在の保護期間は50年で、保護期間が切れた作家の作品をファイル化していくことで青空文庫の活動は成り立っている。したがって、保護機関が延長になるとかなり大きな打撃を受ける。現在なら1955年以前に死去した作家の作品が著作権フリーになるわけだが、改正されると1935年以降に死去した作家の著作権が保護されることになる。つまり2.26事件で処刑された北一輝の作品も新たに(僅かな期間だが)保護されることになるわけだ。
この延長はまずアメリカで起こったのだが、結局はディズニーのロビー活動の成果であったようだ。ディズニーの著作権管理の厳格さはつとに知られているところだが、ウォルト・ディズニーが死去したのが1966年で、50年間だとディズニーの作品の保護期間が2016年に終了してしまう。アメリカの著作権保護期間はディズニーの死後何年というのを契機に何度も改正されてきたとブログはいうが、そのためにこの法律は「ミッキーマウス保護法」と言われているのだという。
アメリカの圧力でEUも期間延長を迫られたがEUは却下したらしい。それで日本でもこの問題が提起されているらしいが、なにもミッキーマウスのためにそんなことをやることはないというのが正直なところだろう。死後50年が保護期間、というのが生物学的に考えれば妥当なところではないかと思うが、このあたりのところを資本の論理であまり決めてほしくないものだと思う。まあそれをそうしてしまうのがアメリカという国なのだな後は改めて思うが。
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帰ってきて仕事の後処理。行く前に駅前の書店で買ったSAPIOを読むと、小林よしのり氏は目の手術ということで「新ゴーマニズム宣言」が休載になっていた。活発な活動が少し体の各所に影響を及ぼしているのだろう。氏も50を超え、からだをいたわりつつ活動を続けなければならない時期に入っているのだろう。私も体には一応の配慮はしているつもりだが、こうした話を聞くと身が引き締まる感じがする。
午後から夜にかけて仕事。帰ってきて夕食を取っていたらアンマンの爆破テロのニュース。確かにイスラムという文明における自己主張の仕方にはやや疑問が出てくるのはやむをえないだろう。彼らに内在する論理が世界の全ての人に対して説得力を持つのかどうか。現実に彼らに共感を感じている民族・国民は実際にはこちらが考えているほど少なくないだろうとは思う。西欧文明「優越」の論理が結局は破壊を引き起こしている。多民族が共存できるほど欧米世界は懐が広い、というところを証明して見せたかったのが結局は破綻しているということにならざるを得ない。
であればどうすべきなのか。やはり移民を送り出す国自体が生活していくのに十分魅力的な国になることがまず一番重要なことだろう。選択不可能的に移民や難民が生み出されていることが問題の根本にあるわけで、魅力ある国造りが先進国等の援助によって行われなければならないし、そのモデルを先進国側が押し付けるので無く、十分に話し合いを積み重ねて行っていかなければならないのだと思う。気の遠くなるような作業ではあるが。日本国内の過疎地問題などで考えても、なかなか簡単には行かない問題であることは明らかだが。
青空文庫のブログを読んでいたら著作権保護期間の死後70年への延長問題が論じられていた。現在の保護期間は50年で、保護期間が切れた作家の作品をファイル化していくことで青空文庫の活動は成り立っている。したがって、保護機関が延長になるとかなり大きな打撃を受ける。現在なら1955年以前に死去した作家の作品が著作権フリーになるわけだが、改正されると1935年以降に死去した作家の著作権が保護されることになる。つまり2.26事件で処刑された北一輝の作品も新たに(僅かな期間だが)保護されることになるわけだ。
この延長はまずアメリカで起こったのだが、結局はディズニーのロビー活動の成果であったようだ。ディズニーの著作権管理の厳格さはつとに知られているところだが、ウォルト・ディズニーが死去したのが1966年で、50年間だとディズニーの作品の保護期間が2016年に終了してしまう。アメリカの著作権保護期間はディズニーの死後何年というのを契機に何度も改正されてきたとブログはいうが、そのためにこの法律は「ミッキーマウス保護法」と言われているのだという。
アメリカの圧力でEUも期間延長を迫られたがEUは却下したらしい。それで日本でもこの問題が提起されているらしいが、なにもミッキーマウスのためにそんなことをやることはないというのが正直なところだろう。死後50年が保護期間、というのが生物学的に考えれば妥当なところではないかと思うが、このあたりのところを資本の論理であまり決めてほしくないものだと思う。まあそれをそうしてしまうのがアメリカという国なのだな後は改めて思うが。
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時事についてちょっと。
フランスの暴動は収まったといえるのかどうか良く分からないが、夜間外出禁止令の発令でだいぶ沈静化に向かっていることは確からしい。しかしこの措置の依拠する法律がアルジェリア戦争時代のものだということをアルジャジーラが指摘している。報道には当初イスラム系とかアフリカ系という言葉が出なかったが、それはフランスの「同化主義」政策の現われであるらしい。日本ではさすがにそういう報道がされるようになってきたが、フランスでは相変わらず「若者たち」というような表現になっているようだ。もちろんアルジャジーラの立場ではアラブ系ということをクローズアップさせたいわけだし、その分踏み込んだ報道になっている。翻訳がもう少し丁寧だといいのだが。
今回の事態を最も良く説明している言葉のひとつだなと思ったのはこの記事の中の「アルジェリアから1980年代末にフランスに来たジャーナリスト」であり、「三人の父親で、ペンキ屋やウェイターをして、今は職が無い」というメジアーネ氏のことばで、「自分の子どもたちにとって、私は文字通りの落伍者だ。子どもたちが私のいうことを聞いてくれるなんて期待するのが無理だし、誰も私みたいになりたくないよ。私は子どもたちがして欲しいことに『良いよ』と言えたことがないからね。しかも、ここは子どもたちが年中、何かを買いたいという圧力を受ける社会だからね」という。イスラム的な家父長的権力も持てず、また西欧的な生活力も持たない移民の二世にとって全くモデルとなる存在の無いフランス社会では、ただ暴発することしか若い世代にとって出口が無い、ということはあるかもしれない。
従来イラク戦争からカトリーナまで散々フランスに批判されてきたアメリカでは鬱憤晴らしのようにフランス攻撃が行われているらしい。こちらの記事を読むと、自分のことはうまく分析できないアメリカ人も他者については実に切れ味鋭く批判できるのだなとある意味感心した。移民問題についてイギリス的なマルチカルチャリズムと、フランス的な同化主義があるが、その双方が失敗して移民問題については出口が見えなくなりつつあるということをブログで読んだが、アメリカ的な「チャンスの平等」を広げると共に祖国との紐帯を立ちきり、アメリカ人として生きることを求めるというやり方もまたそうなかなかうまく言っているわけではない。しかしまあそれでもフランスのこういうやりかたよりはいいぞ、ということを言っているわけで、逆にこの問題の深刻さを浮かび上がらせる。
日本においては基本的にフランス的な同化主義が戦前などは取られていたわけだが、現在ではむしろ移民鎖国を行うことでこうした問題が広がらないようにしているということだろう。実際問題としてこの行き方が日本でのトラブルを起こさなくしている大きな要因だとは思う。グローバル化というのは要するにこういう問題を抱え込むことだなあと改めて思う。
フランスの同化主義も、特にアルジェリアに関しては植民地でなく本国の一部という位置付けも元来あったらしく、そのあたりがアルジェリアへの微妙な意識にもつながり、韓国人を見る日本人にあった意識(今ではほとんど完全に外国視されていると思うが、微妙なアヤまでは良く分からないが)とも似通ったものがあるということを書いているブログもあって興味深かった。
フジモリ元大統領がチリに渡り拘束された事件では、それこそ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれではあるが、政権にあった時代でのチリとの関係を意識し、また拘束されることを見越して自らの行動の正統性を主張する機会も与えられるという見通しを持って行動したとこちらの記事を読んで思った。計算高い、というよりは氏はこうした起死回生の可能性に賭けることのできる真の政治家なのだなと思った。見事ペルー大統領に復帰して、また成果を上げていただきたい。
ブッシュ大統領は来日前に日本の報道各社のインタビューに答えていたが、なんだか少し自信喪失気味だなという感じである。これだけ叩かれれば無理もないとは言えるが、欧米の政治家でここまで気分が正直に出る人は珍しいのではないか。どこに行っても叩かれっぱなしで、まあ歓迎してもらえそうなのはネジが一本はずれた日本くらいなものだろう。なんとかサービスしておこうという感じだろうか。それよりBSE問題できちんと対処してもらいたいものだが。全頭検査すれば済むだけの話だけど。もし解禁されても、米産という表示があったら私は買わないしレストランなどでも食べないつもりである。
司法試験合格者、早稲田が2年連続トップだという。東大が二年連続して牙城を明渡したのかと思ったが、昨年は同数だったのだ。法科大学院出身者の試験が始まればまた様相は全く変わるだろう。司法制度もどういうものがいいのか私には良く分からないが、アメリカナイズが進んでいるという印象だけがある。時々なんとなくつけている放送大学のチャンネルでイギリスの司法制度のようなことをやっていたが、またイギリスもちょっと真似しがたいような独特な歴史的に構築された制度である。「改革」だけが行政を「良くする」ことではないのではないかということを思わずにはいられない。
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フランスの暴動は収まったといえるのかどうか良く分からないが、夜間外出禁止令の発令でだいぶ沈静化に向かっていることは確からしい。しかしこの措置の依拠する法律がアルジェリア戦争時代のものだということをアルジャジーラが指摘している。報道には当初イスラム系とかアフリカ系という言葉が出なかったが、それはフランスの「同化主義」政策の現われであるらしい。日本ではさすがにそういう報道がされるようになってきたが、フランスでは相変わらず「若者たち」というような表現になっているようだ。もちろんアルジャジーラの立場ではアラブ系ということをクローズアップさせたいわけだし、その分踏み込んだ報道になっている。翻訳がもう少し丁寧だといいのだが。
今回の事態を最も良く説明している言葉のひとつだなと思ったのはこの記事の中の「アルジェリアから1980年代末にフランスに来たジャーナリスト」であり、「三人の父親で、ペンキ屋やウェイターをして、今は職が無い」というメジアーネ氏のことばで、「自分の子どもたちにとって、私は文字通りの落伍者だ。子どもたちが私のいうことを聞いてくれるなんて期待するのが無理だし、誰も私みたいになりたくないよ。私は子どもたちがして欲しいことに『良いよ』と言えたことがないからね。しかも、ここは子どもたちが年中、何かを買いたいという圧力を受ける社会だからね」という。イスラム的な家父長的権力も持てず、また西欧的な生活力も持たない移民の二世にとって全くモデルとなる存在の無いフランス社会では、ただ暴発することしか若い世代にとって出口が無い、ということはあるかもしれない。
従来イラク戦争からカトリーナまで散々フランスに批判されてきたアメリカでは鬱憤晴らしのようにフランス攻撃が行われているらしい。こちらの記事を読むと、自分のことはうまく分析できないアメリカ人も他者については実に切れ味鋭く批判できるのだなとある意味感心した。移民問題についてイギリス的なマルチカルチャリズムと、フランス的な同化主義があるが、その双方が失敗して移民問題については出口が見えなくなりつつあるということをブログで読んだが、アメリカ的な「チャンスの平等」を広げると共に祖国との紐帯を立ちきり、アメリカ人として生きることを求めるというやり方もまたそうなかなかうまく言っているわけではない。しかしまあそれでもフランスのこういうやりかたよりはいいぞ、ということを言っているわけで、逆にこの問題の深刻さを浮かび上がらせる。
日本においては基本的にフランス的な同化主義が戦前などは取られていたわけだが、現在ではむしろ移民鎖国を行うことでこうした問題が広がらないようにしているということだろう。実際問題としてこの行き方が日本でのトラブルを起こさなくしている大きな要因だとは思う。グローバル化というのは要するにこういう問題を抱え込むことだなあと改めて思う。
フランスの同化主義も、特にアルジェリアに関しては植民地でなく本国の一部という位置付けも元来あったらしく、そのあたりがアルジェリアへの微妙な意識にもつながり、韓国人を見る日本人にあった意識(今ではほとんど完全に外国視されていると思うが、微妙なアヤまでは良く分からないが)とも似通ったものがあるということを書いているブログもあって興味深かった。
フジモリ元大統領がチリに渡り拘束された事件では、それこそ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれではあるが、政権にあった時代でのチリとの関係を意識し、また拘束されることを見越して自らの行動の正統性を主張する機会も与えられるという見通しを持って行動したとこちらの記事を読んで思った。計算高い、というよりは氏はこうした起死回生の可能性に賭けることのできる真の政治家なのだなと思った。見事ペルー大統領に復帰して、また成果を上げていただきたい。
ブッシュ大統領は来日前に日本の報道各社のインタビューに答えていたが、なんだか少し自信喪失気味だなという感じである。これだけ叩かれれば無理もないとは言えるが、欧米の政治家でここまで気分が正直に出る人は珍しいのではないか。どこに行っても叩かれっぱなしで、まあ歓迎してもらえそうなのはネジが一本はずれた日本くらいなものだろう。なんとかサービスしておこうという感じだろうか。それよりBSE問題できちんと対処してもらいたいものだが。全頭検査すれば済むだけの話だけど。もし解禁されても、米産という表示があったら私は買わないしレストランなどでも食べないつもりである。
司法試験合格者、早稲田が2年連続トップだという。東大が二年連続して牙城を明渡したのかと思ったが、昨年は同数だったのだ。法科大学院出身者の試験が始まればまた様相は全く変わるだろう。司法制度もどういうものがいいのか私には良く分からないが、アメリカナイズが進んでいるという印象だけがある。時々なんとなくつけている放送大学のチャンネルでイギリスの司法制度のようなことをやっていたが、またイギリスもちょっと真似しがたいような独特な歴史的に構築された制度である。「改革」だけが行政を「良くする」ことではないのではないかということを思わずにはいられない。
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