晃ちゃんの喫茶室

皆さんと語る憩いの場です。

歳末雑感

2010-12-30 13:47:27 | Weblog
ここ 彩の国 「高麗の里」に移り住んではや33年になる。当時 都内の団地に住んでいたので、この澄んだ空気と自然豊かな里がすごく気に入っていた(日和田山)
 まだニュータウンとして造成しはじめたころで、駅舎も素朴でいかにもローカルな駅といった観だった。坂道を登って行くと芒が原に赤とんぼが飛び交い、雉などを目にすることがしばしばだった。そして、住宅も次々と建築され駅も近代的になった。 (高麗駅)
 人口が増えるにつれ  が  になり、病院も学校も商店街やストアーもできた。「いいところが終(つい)の住処(すみか) となった」   ・・・ あれから30余年 ・・・ 四季折々の風情は変わることはないが、少子高齢化の時代の波には逆らえず、増え続けた学級は縮小され、ストアーや駅の売店は廃業した。さらに、転居以来利用していたガソリンスタンドも来月にはなくなるという。 
「自然の豊かさと生活の利便性は両立しない」 ものだろうかと、もの思う年の暮れである。

私と年賀状

2010-12-23 20:18:44 | Weblog
年賀状 とは、本来年始に行けない人への挨拶の書状だった。それがいつの頃からか、新年の風物詩となった。
 そこで、私の年賀状 について書いてみよう。
いつごろから年賀状 を出すようになったのだろう?と考えてみると、たぶん学生時代からじゃないだろうか。そのころは出す枚数も少なく一枚一枚下手ながら、墨をすり筆での毛筆で書いたものだ。そして、社会人になってからもその習慣はずーと続いていた。先輩や同僚たちはみな印刷していたが、本来 手紙とは心のこもったものであるからとかたくなに手書きにこだわった。一枚一枚相手のことを思い浮かべながら、文章を変えて書くのだから枚数が少ないうちはよかったが(年内に70枚位、年明けて返信に200枚から300枚位)となると、いくら書くことが好きとはいえ難行苦行 だ。それでも 楽しい 作業だった。
パソコンを習うようになってからは、写真やカットを挿入したり、文章もワープロで打てばきれいで格好よくできるのだが、背景のグラデーションと賀状の定型語(私のは 寿初春) は印刷し、相手によって異なる文章を少しでも多く書こうと余分にとっている。
 最近では、年々歳々枚数は減ってはきているが、それでも150枚前後 相も変わらず本来の毛筆ならぬ毛筆ペンで書いている。こうして書いていると、なかには高校卒業以来一度も会っていないのに年賀状のみ交信している友人もいる。お互いこの年になると”生あることの証” としての友情なのだろう。
 かくして、今年も前半の50数枚を書き上げた。

斎藤佑樹入団会見

2010-12-10 09:32:28 | Weblog

 12月9日 早稲田大学の斎藤佑樹投手が札幌ドームで8000人のファンを集め、わが「北海道日本ハムファイターズ」の入団会見が行われた。テレビ中継を観ながらふるえるような感動を覚えた。学生服での入場会見から18番のユニフォーム姿まで食い入るように見いていた。
 来シーズンが待ち遠しい