食いしん坊ケアマネ の おたすけ長屋!

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ぶどうの木と人情長屋

2009-07-13 | 信仰
昨日に続いて、少し教会の話をします。


私が初めて教会に行ったのは、十二、三年前の土曜の夕方のことでした。そのときの私は、職場での失恋と仕事の行き詰まりに見舞われ、息も絶え絶えの状態でした。
カトリック教会を択んだのは、大学生の頃から好きだったカトリック作家の小川国夫の影響が大きいと思います。
初めて訪れた教会の神父さんは、五十代半ばで体躯のガッチリとした、少し髪が薄い人でした。笑顔の底に「オールカマー」の度量と深みが窺え、私は、「この人なら」と、教会に通うようになりました。
その神父さんは私がそれまで抱いていた神父像にとても近かったのだけれど、後に、そんな神父はさほど多くないことを知りました。
でも、初めて訪れた教会にそんな神父さんがいたのも、「神の配剤」でしょう。

それから洗礼を受けるまで、私は一年半以上教会に通いました。

洗礼を受けたからといって生きるのが楽になったわけではなく、苦しいことの連続でした。障害者施設を辞めてからは、知り合いの出版社に寄生をしてようやく糊口を凌いでいましたが、やがてそれもままならなくなり、精神的にも経済的にも追い詰められました。

そんなとき、久しぶりに新約聖書を読み、ヨハネ福音書の15章に心を奪われました。

わたしはぶどうの木。あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。                               
               (ヨハネ 15-5 新共同訳)

「つながる」「離れては何もできない」というイエスの言葉が、生きる指針を示してくれているように思えました。


もうひとつ私を救ったのが、それまで買い溜めていた落語のCDやテープでした。

志ん生、円生、枝雀などを、繰り返し繰り返し聴きました。こういった人たちの音源は何度聴いても飽きないだけでなく、新しい発見があるのです。
志ん生に『安兵衛狐』という噺があります。やもめばかり六軒の長屋があって、そのうち二軒の「へんくつの源兵衛」と「ぐずの安兵衛」と他の四軒は気が合わない。「へんくつの源兵衛」が墓を見ながら一杯やったおかげで幽霊の嫁さんをもらったことをうらやんで、「ぐず安」も近くの墓場に行く。すると、狐を獲る猟師に出会う。しばらく見ていると、猟師のワナに狐が掛かった…。

安兵:あ、掛かりましたね?
猟師:うるせえな。来ちゃいけないっていってンだろ。
安兵:ずいぶんちっちゃいキツネですね。
猟師:うん、まだ子ギツネから少し大きくなったくらいだよ。
安兵:それをどうするんです?
猟師:今、皮をむいて持ってっちゃうんだ。
安兵:そりゃア、かわいそうじゃありませんか。
猟師:かわいそうだって、しょうがねえや。商売だからなア。
安兵:あたしは、そういうものみちゃいられないんだがね。どうでしょう、それを逃がしてやってくれませんか。
猟師:ばか言いヤがれ。一生懸命獲った物、逃がせるかい。…。

しかし、安兵衛の気持ちに根負けして、猟師は子ギツネを三円で安兵衛に売ります。全財産を叩いた安兵衛は子ギツネを逃がしてやると、その夜、子ギツネが若く美しい娘に化けて安兵衛を訪れてきます。
普遍的な「動物の恩返し譚」も、志ん生のシワく余情に満ちた声色で語られると、胸にジンワリと染みるのです。特に、

安兵:あたしは、そういうものみちゃいられないんだがね。…。

という一節に涙しました。いい年をした「ニートやもめ」の安兵衛は、今ならさしづめ「居場所のないグズな男」の典型でしょう。でも、落語では、彼の心根の優しさにちゃんと照明を当て、嫁さんまで宛がってくれるのです。

『安兵衛狐』の上方版が『天神山』です。桂枝雀の『天神山』に於いては、枝雀はその他に誰も達し得ないエモーショナルな表現力によって、噺をまさに新約的な救済の世界に「つなげて」います。


と、いうわけで、私にとって「ぶどうの木」と「長屋的人情」とは、全く等価なものなのです。



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2 コメント

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Unknown (もも)
2009-07-14 18:25:54
ま~はぶどうの木です。
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ももちゃんへ (酔いどれケアマネ・文七)
2009-07-14 19:35:06
おたよりありがとう!
「ま~」って誰?


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