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人は物語を生きる

2009-11-07 | 映画
今日、遅ればせながら映画『ダ・ヴィンチ・コード』を観ました。


この映画は3年前に封切られ日本でも大ヒットしました。原作はそれ以上に当り、上中下巻あわせて文庫本は1000万部以上売れたそうです。

私には大きな話題になっている映画や小説にはとりあえず距離をおく性癖があります。今朝、レンタル屋に立ち寄って、
「何を借りようかな…」
思いながらフト『ダ・ヴィンチ・コード』を取って、少し考えただけでレジに持って言ったのは、その「猶予期間」が私の中で切れたのでしょう。


それともうひとつ、この映画は封切り時に「イエス・キリストを冒涜している」という理由で、カトリックの総本山であるバチカンが映画を観ないようボイコットを呼びかけた…ということがありました。
実際に、いくつかの国々では(イスラム教国も含む)上映禁止になったのです。
私もカトリック信徒のハシクレですので、そういった騒動が「ウザイ」印象として残り、距離を遠いものにしていたことは否めません。


さて、映画は、すでに数限りなく文学や映画のモチーフになった「聖杯伝説」の1バージョンでした。

「聖杯」とは、ダ・ヴィンチの作品でも有名な『最後の晩餐』で使われたサカズキのことです。その聖杯を捜し求めるのが「聖杯伝説」物語で、最も有名なのがブリテン王アーサーの病気を治すために騎士たちが「聖杯」を捜し求める「アーサー王伝説」でしょう。

スピルバーグ監督、ハリソン・フォード主演の『インディ・ジョーンズシリーズ』も、聖杯伝説の物語ですネ。

『ダ・ヴィンチ・コード』は、聖杯伝説に「イエス・キリストはマグダラのマリアと婚姻関係にあって、子供も作っていた」という、これも古くからある俗説を絡め、オプス・デイというカトリック教会内の現存する信徒組織を過激なカルト教団のごとくスキャンダラスに描いています。

そういったことどもが反響を呼んで世界的なヒットにもつながり、いっぽうでは反発も呼んだのですが、イエスやバチカンをスキャンダラスに描いた小説などは無数にあるはずで、大ヒットしたからこそ反発もでるのです。
要するに「ドラマがうまく作られていた」ということでしょうネ。


さて、今日改めて感じたのが「物語の強さ」ということです。



自分はどこに(誰のもとに)生まれ、何ゆえに今ここでこうしているのか。
そしてこれから、どうなるのか。

『ダ・ヴィンチ・コード』でも、イエス・キリストを始め、登場人物の多くの物語が交錯して描かれていますが、これは、広く関心を呼ぶ小説や映画に共通していることです。

つまり、人々はそういった作品に「自分の物語」を重ね合わせているのです。
小説や映画に感動するというのは、登場人物の物語に自分の魂が共振する…ということです。心の奥底で「腑に落ちる」からこそ、気持ちが揺さぶられるのです。


近頃、自暴自棄に陥った人々のむごたらしい行動が報道されます。
そういった人々は、恐らくひどく貧寒な「自分の物語」しかもっていないのではなかろうか。
たとえば「自分は望まれないで生まれた」という物語を信じていた場合、どうすれば生きる展望をもてるでしょうか?他人と豊かな交流をもつ気になれるでしょうか?
また「金銭のみが自分を幸福にできる」という物語を叩き込まれて育った人は、金銭に異常に執着し、そのために人を蹴落とし、ついには殺めることもいとわなくなるでしょう。



宗教がいまだに有効だとすれば、「神は分けへだてなく誰をも愛して下さる」というメッセージを、辛い物語しかもてない人の魂に与える点だ…と思います。


それだけ人は脆く、「自分の物語」を常に脅かされながら生きているのではないか…。
そんなことを考えた元井文七でございました。





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