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ジョバンニたち

2009-12-13 | いのち
今日、久しぶりにミサに与ったのだけれど、妙に哀しくなってしまった。



ミサが終ってから、私はスタンドの取れた自転車に乗って粗大ゴミ処分場に向った。

私の乗っている自転車を処分するためである。

漕ぐたびに自転車は微かに「キーキー」と音を立てる。
しかしそれ以外には、スタンドが取れたことを除けば、自転車の能力として何の支障もない。

処分場に向っていくうちに、
「自分は無為な殺生をしに行くのではなかろうか?」
という考えが頭にしきりにのぼってきた。



区から送られてきた処分場までの簡易地図を見ながら、私はどんどん漕いだ。
でも心のどこかで、「到着しないでくれ」という気持ちもある…。

環八沿いに巨大な煙突が見えた。区の清掃工場があるのだ。
粗大ゴミの持込み所は、そのすぐ手前にあった。
巨大な清掃工場の前が持ち込み場所だなんて…。自転車のその後の命運が予感されるようで、よけい不憫に思われた。



昨日の暑さの感覚で、比較的薄着で私は外出していた。しかし今日は、普通の冬の気温である。
そこを自転車で走ったものだから、体が冷え切っていた。
自転車を預けてしまえば、家まではもちろん歩きである。

私はムキになって早足で歩いた。体と心の冷えを取りたかったのだ。



家に帰ると昼食どきだったが、私は食欲がなかった。
フトンに横になり、しばらく目を瞑っていた。

するとなぜか、昔勤めていた施設の通所者たちの姿が頭に浮かんできたのである。

知的障害者といわれる彼らは、天真爛漫な反面、すぐに泣いた。

シクシクと涙するもの、号泣するもの…とタイプはさまざまだったが、とにかく作業の失敗や人間関係のもつれがあると、よく泣いたものである。



なぜ彼らは、あんなに「すぐに泣く」のだろう?

当時からそれを思っていたが、答えはひとつしか考えられなかった。

きっと、いっぱい哀しい思いをして育って来たのだ。
イジメもあったろうし、家族内での不和も起こりやすかっただろう。

きっと彼らは心に「哀しみ袋」を持っていて、何かのハズミでそれが押されると、涙が溢れるのに違いない。

もう施設を辞めて十年近くなるが、何人かの顔が具体的に思い出された。



二時近くになって、私はようやくカップ緬だけを食べた。

カップ緬を啜りながら新聞を読んでいると、書評欄に、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に関する読者評記事があった。

この希代の名作はさすがに多くのひとに愛されているらしく、全国から各世代の熱心な感想が寄せられているようだった。

私もむろん『銀河鉄道の夜』は大好きだ。

原作はもちろん、二十数年前にアニメになった作品もとても好きで、ビデオを買って何度も見たものである。
その記事が、今日の自分の心情にとても訴えてきた。

貧乏で孤独な少年のジョバンニと、優等生で心優しいカムパネルラ。

ネットとは便利なもので、原作を手元に持たない私も、検索すればすぐに全文を読むことができる。

読んでいるうちに、私は、心が熱くなった。

今、苦しんでいる私の同世代の友人たちも、今日、私の頭に訪れた十年前の施設のメンバーも、皆、ジョバンニだ。

カムパネルラ君がいてくれれば、きっと、ずっと幸せに生きていくことができると思うんだ。





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