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述べ伝えよう(酔いどれ版)

2009-07-19 | 教会
今日、日曜ミサに与って来ました。


カトリックでは、ミサは毎日行います。でも、やっぱり日曜のミサは特別。
なんていっても、「主の日」ですからね。

私の職場の休みは完全シフト制なので、必ずしも日曜日に休めるとは限らない。実際、最初の二年間はほとんど日曜を休まなかったので、ミサにも与れませんでした。
でも、去年からは職場の同僚の協力もあって、月に二回は日曜のミサに与っています。感謝しています。

今日の神父さんは、先週一週間休みがとれて、リフレッシュ出来ました…という言葉の通り、とても表情がイキイキしていました。
まだ四十代になったばかりの、もともとイキの良い神父さんですが、今日はさらに笑顔が良く、何だかこっちも嬉しくなりました。
その神父さんが、今日の説教の中で、こう言われました。
「私は難しいことは言えないし、言いません。その代わりミサに与った皆さんには元気になってもらいたい。そして、明日からイエス様の言葉を伝えて下さい」

そうなんです。
本当はミサに与った後、信徒は福音(good news)を伝えなければならないのです。でも、日本のクリスチャン(特にカトリック信徒)はほとんどそんなことをしない。私もそうです。
「あいつ、宗教カブレだよ」なんて言われたくないし、日本人には一神教は合わないよなア…なんて「空気」を読んで、世間で生きやすい道を選んでしまう。

でも、今日は、神父さんの笑顔で良い気持ちになったこともあり、少しだけ福音を「述べ伝え」ます。あくまで「酔いどれ版」ですが。



新約聖書は「物語として」面白いのです。そこが、私としては、まずキモです。
「なんちゃってクリスチャン」の私が読んだことのない方のために展開を要約すると、こんな感じです。
①イエスは田舎者で、でも霊的な天才だった。
②「神のもとには皆平等」と、当時としてはとんでもないことを言って、貧しい人、虐げられた人たちからアッと言う間に絶大な支持を得た。
③こいつは放っておけねエ…と、時の為政者に捕まると、弟子たちは皆、逃げてしまった。イエスを死刑と裁いたのは、本来イエスに救われるべき民衆だった。
④イエスは磔になり、昇天した。そして葬られたが、三日目に復活した。
⑤イエスは弟子たちの前に現れ、赦し、私はあなたがたを遣わす…と言った。

カトリック作家で精神科医でもあった加賀乙彦は、東京拘置所の勤務医として死刑囚との付き合いもありました。その彼が、
「死刑囚には、執行前にキリスト教の洗礼を受ける人が多い」
と何かに書いていました。
確かに、「父(神)のもとに全ての人の罪は赦される」というテーゼと、生々しく死に、そして復活するイエスの姿を描いた新約聖書は、死刑囚という極限状況の人々の魂に強く訴える力があるでしょう。

私たち凡人にとっても、この「赦し」は(難しいけれど)すごく魅力的な教えです。
私なんか、これまでの人生が悔いの連続ですからね。ときどきミサに与って自他を「赦し」てもらわないと、とうていお勤めにもいけません。

もっと俗な楽しみありますよ。カトリックはプロテスタントに比べて「飾り物OK」ですから、私も聖人のネックレスや像を頼りにしています。私の洗礼名の「聖ルカ」の木彫り像なんて、いよいよ追い詰められたら抱いて寝ていますから。

それからお酒!
「カトリックは酒の宗教」って古い信徒さんが言ってたな。神父さんにも信徒にも酒好き、料理好きの人がたくさんいます。
そう、これは人生の愉しみだもんなア。



福音宣教にも何にもなってないかな。
ま、私はこのていどですが、もちろん教会には、もっと立派でしっかりした人がたくさんいますよ。

今夜もまた、夢見心地になってしまいました…。

お休みなさい。





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