2023年の最後の日となった。大晦日だ。今年は、まあいつものことではあるが、去年から引きずってきたいろいろな問題、戦争、そんなことが全く解決もされずに来年に引き継がれていくこととなる。考えてみれば、昭和20年の8月15日から78年と4か月半が経過しているが、当時から持ち越されている問題も依然として健在といえる。何もウクライナやパレスチナの問題だけというわけではない。なーんにも、解決されるなどということはない、というのが歴史の真実だろう。では、どうする?。~~~ 「どうする家康!」と詰問される家康の気分になるのも一興だろう。
2022.9.28に国葬雑感というタイトルで、安倍晋三氏の国葬を取り上げ、「自由民主党の生前葬」と評価したことを思い出した。戦後10年を経た1955年昭和30年、その年は日本民主党と自由党が社会党再統一に危機感をもって対峙し、自由民主党として出発した記念すべき年であり、すでに68年を経ている。戦後、国家主権なき繁栄を築き上げてきたというか、主導してきた自由民主党はそれなりに評価すべきものがあるかもしれない。国内格差は彼の宗主国並みにまで成長肥大化し、エリート植民地としてのステータスを築くに至っているのは自由民主党の効、大なりとすべきかもしれない。それが、もう終わるという直観だった。IT進歩もあり裏側が表面化してきてしまっていることで職業政治家の手練手管が白日の下にさらされてしまい、自由民主党の政治手法自体が金属疲労を起こしてしまった、つまり、帝国は内側から崩壊してしまう、ということである。だーれも、自民党を叩き潰す主体などは、つまり、それらしい野党などはないにもかかわらず、自民党自体が米国貿易センタービルのごとく自壊崩壊してしまうということだ。
来年、と言っても明日から来年だが、自由民主党解体が急激に進捗し、保守再合同がスタートするであろう。その準備は、おそらくアメリカあるいはイギリスの了解のもとに着々と進んでいるに違いないと思っている。もっと言えば、昨年の安倍暗殺自体もそうした思惑のもとに展開された一コマであったかもしれないと思う。すでに自民党賞味期限切れと判断されていたということだろう。すでに、受け皿は準備されているのではないだろうか。
昨年に自由民主党の生前葬が行われているのであれば、実際の葬送は極めて迅速に、一瞬の出来事のごとく素早く行われるのではないかと、そんな予感がするのである。さて、そんな政治劇が本当に展開するのか、私の幻想だけであるのか、ちょっと楽しみたいと思っている大晦日である。
全く別のお話だが、歴史深き高貴なヨーロッパにおいて600数十年続いたハプスブルク家の統治に思いをはせるのである。多民族国家をいくつかの凸凹はあったにしても統治し続けてきたハプスブルク家の知恵、それは「共存」の一文字であった。第一次世界大戦のトリガーを引いてしまい、同時に終焉を迎えたハプスブルク家であるが、その「共存」の知恵は今も生かすべきではないのだろうか。「異」なるものとの共存は人類が果たすべき神への挑戦であるだろう。人類は常にバベルの塔を築く努力を続けるべきであり、神の復讐を無効にするべき宿命を背負っている、無限回にわたり崩れ落ちようとも大きな岩を山頂へ運び続けるということ、人類は永久に誰にでも通じる共通言語を探し続けるということ、こうした作業を単なる徒労とは思わずに、価値あること、唯一、人が行うことのできる価値あること、私はそんな風に感じている。(文責:吉田)