優しさ研究所

来た人が優しい気持ちになれるようなブログを目指します。
思ったことがあったら、気軽にコメントくださいね♪

最近聞いたor耳にした「音楽」

2005年04月30日 | Weblog
明日試験があるので、今日はあっさり目で(^^;

トラックバック練習というよりは、すっかりつなぎの役割ですね(笑)


最近は‥‥やはりというか、クラナドのサントラを聴くことが多いです。
音楽を聴くだけで、ゲーム内の場面が浮かんできますね・・・

ゲームの音楽は、ゲームをやってこそ本当に価値がわかると思うので、ゲームをまだやってない方にはあまりオススメできませんが(^^;

とにかく、クラナドの曲を聴くことでまた優しい気持ちになれて、そしてエントリーを書く原動力にもなっているってことですね♪

というわけで、短いですが今日もこの音楽を聴きながら書いた次第です(笑)


明日の試験会場に向かうときも聴いてそうです‥‥がんばってきますね♪

我慢する優しさ

2005年04月29日 | “優しさ”各論
さて、今日は昨日の続きのお話をしようと思います。
というのも、昨日トラックバックしていただいた「ブログで情報収集!Blog-Headline」様に、電車で化粧をすることに対する意見を載せた様々なエントリーが紹介されていて、それを見るうちにまた自分の中で考えるところがあったからです。

特に自分が「これは・・・」と思ったのは「油小路ニュー中猫屋」様のエントリーです。

なんていうか‥‥こういう考えをしている人が、電車の中で化粧をしているんだという良い勉強になりました。
たしかに、現代社会は昔に比べて自由度が増している社会だと思います。
だから、「何やっても、犯罪じゃなければいい」なんて思ってしまうのかもしれません。

しかし、本当にそれでいいと思いますか?
「他人が不快に思おうとも、それは関係ない」というのでしたら、仮に自分がいくら不快に思うことをされたとしても、「それは個人の自由だから仕方がない」と割り切るハメになるんですよ。

それは例えば、電車で隣の人が大音量でウォークマンを聴いていても、我慢しなければいけないと主張するのと同じことです。

「ウォークマンと違って、化粧や食事は目を閉じれば済むじゃないか」と思うかもしれませんが、他人の目を閉じさせる権利があるんでしょうか?
結局、ウォークマンも化粧も食事も、同じ種類の迷惑行為だと思います。


そもそもなぜ、人は「電車で化粧」などの行為をなぜ不快に感じてしまうのでしょう?
また、不快に感じない人もいるのでしょうか?

自分が思うに、それはその行為をした人のことを、赤の他人だと割り切れるかどうかの差なんじゃないでしょうか
つまり、「その人は赤の他人だから、自分には関係ない」と割り切ってしまえば、気になることもないし、当然注意するなんて行動にはつながらないわけです。
逆に、その人を赤の他人だと割り切れない人は、どうしても気にしてしまうわけですね。

現代社会では、人と人のつながりが薄くなっているとよく言われますが(例:近所付き合いの希薄化)、まさにここに、若者が(全員とは言いませんが)他人との壁を高くしているというのが表れていますね。

それに対して老年層は、近所ともマメに付き合う社会に生きてきたために、他人を赤の他人と割り切ることができないんだと思います。
おせっかいが好きな老人が多いというのは、そういう意味なんじゃないでしょうか。

人は、人の中に生きています。
たとえ、たまたま同じ電車に乗ったというだけでも、自分は何かの縁だと思います。
それを「赤の他人」という扱いで片付けるのは、すごく寂しいことなんじゃないでしょうか。


あと、「電車で化粧」肯定派の方に質問したいのですが、その車両に友達や恋人が乗っていても平気で化粧できるものなんでしょうか?
「できる」というなら、単に羞恥心が足りないだけだという問題ですが、「できない」というなら、それはきっとあなたが電車内の人を「自分とは関係のない赤の他人だ」と扱っているということですよね。
しかし、あなたが電車内の人を赤の他人だと扱っていたとしても、電車内の人が果たして同様にあなたは赤の他人と扱っているかどうかが問題なのです。
そして、そのような人に対しても気を遣うことができることが、優しさです。

つまり、化粧をしている人を見てどう思うかというのに、それが知り合いであるかどうかは、そんなに関係ないと思うわけです。
だから周りの人の中には、化粧をしている人が知り合いであるのと同じくらい気になってしまう人もいるということですね。
「ほっといて」と思うかもしれませんが、いるんですよ、ほっとけない人って(笑)

とにかく、「知り合いがいる、もしくはいるかもしれないから化粧をしない」というのではなく、「知り合いのように思ってくれている人がきっといるから化粧をしない」という風に思っていただきたいです。
どんなときでも周りにいる人間とはつながっているんだという意識がもてなかったら、この世はとても冷たいものになってしまいますから・・・
そしてその結果、周りの人間から「周りに気を遣えない優しくない人」という烙印を押されることは、本当に悲しいことです。
どうせ噂をされるんだったら、良い噂を立てられたいですよね。
たとえ周りが知らない人だらけでも、「優しい人だ」と思われることは決して損なことではありません。
なぜかというと、またどこかで縁があるかもしれないという利益を除いたとしても、それはとても気持ちいいことだからです。

だから、自らが周りの他人を気遣って我慢することで、他人を不快に思わせない努力が必要なんだと思います。
赤の他人だと思われないということは、本来なら喜ぶべきことなんじゃないでしょうか?
それが人と人とのつながりというものですし、人間社会では他人を無視して生きていくことは本当に損なんです。
いつ、他人が他人じゃなくなるかわからないのが、人間社会ですからね。
ましてや、同じ場所にいるという縁に恵まれたわけですから、その人たちに不快な思いをさせることは、いかにも愚かです。


もちろん、「油小路ニュー中猫屋」様がおっしゃっているように、規制すべきだとは自分も思いません。
明確に規制されていないものだからこそマナーというのであって、それを規制するのは馬鹿げていますよね。
ですが、お偉いさんが規制しようと言い出すのは、それが民衆の声だからです。
(政治家が民衆の声を無視していたら、それは政治とは言えませんよね。)

最近は人権侵害の意識が市民にも浸透してきていて、嫌煙権(タバコの煙を吸わされない権利)や環境権(騒音や悪臭などに晒されない権利)など、今までは認められなかったようなものまで認められるようになりました。
なぜそのような権利が認められるようになったかと言えば、自由度が増したことで他人の迷惑を考えない方が増えたからに他なりません。

もしみんなが、他人に煙を吸わせてしまうことを気にして、人前でタバコを吸わないように心がけていれば、歩きタバコは禁止されていなかったでしょうしね。

法律によってきちんと統治されている現代国家においては、自由である(=規制がない)ということは、規制が必要ではないからという理由でしかないということを意識する必要があります。
政治家も喜んで規制を作っているわけではないということですね。
規制が増えるのは、なんにせよ自由度が減って良いこととは言えませんが、そこまでしないといけないほどの状態になってしまっているからこそ、規制せざるを得ないわけです。

本当にごく一部の人の意見だったら、規制にまでは至らないわけです。
だから、そのような話題になるということは、その意見が一部のものではなく、そしてとても深刻なものだということをわかってあげてほしいと思います。


我慢すべきところで我慢することも、優しさの1つです。
それが一見他人には見えにくいものであろうと、それを実行し、周りの人もそれを感じ取って優しい気持ちを増やしていけるような社会になるといいですね(*´▽`*)

注意する優しさ

2005年04月28日 | “優しさ”各論
昨日、初めて1日のアクセス数が100を超えていました。
ちょっと自分でも驚きです(笑)

さて、今日は「<ホームで化粧>注意され立腹 電車に接触させ骨折 (毎日新聞)」という事件について書こうと思います。

自分は「Sorry,Full.」様のエントリーを見てこの事件を知ったので、トラックバックさせていただきます。

これもまた、ビックリする事件ですよね‥‥

容疑者の方を含め、最近の人の中には、「注意する」という行動を嫌がらせか何かと勘違いしている方がいらっしゃるようです。

「注意」にもピンからキリまであると思います。
みんな(公衆)の迷惑を考えてする優しい注意や、自分が迷惑だからといってするやや自己中心的な注意・・・
どちらにせよ、注意された側の行動が誰かの気分が害したから行われるということには変わりありません。

それを考えると、注意というのは、人が気付かないうちに他人に迷惑をかけてしまっていることを指摘する、とても優しい行為なんです。
当人が気付いていて故意にやっていた場合は、もう注意されて当然でしょう。

それでも、「注意」ってなかなかできることじゃないですよね。

それらの注意を迷惑だと感じるような人は、人の厚意を厚意と受け取れない人だということになります。
相手が誰であろうとも、どんな言われ方だろうと、注意されたら真摯に受け止める必要があるわけですね。

そもそも注意されるのが嫌なら、注意されるだろうなという行動はとらなければいいんです。
そのうえで、気付かない部分を注意された場合には、反省するのみなんじゃないでしょうか。


「Sorry,Full.」様では、マナーを2つに分類したうえで、「他人に物理的悪影響は与えないが、不快感を与える」パターンの迷惑行為が、価値観の違いによって事件につながることがあると述べています。

ですが、このような事件は、注意した側の気持ちに目を向けることで解決できるんじゃないでしょうか。
つまり、因縁をつけようとして注意する人なんてほとんどいないと思うんです。
そんなことをすれば逆ギレされても文句は言えないわけですし、そんなことのためにわざわざリスクを背負ってまで注意するような人がいるとは、自分にはにわかに信じがたいことです。
ですから、注意された側は、相手が自分のことを気遣ったうえで、勇気を出して注意してくれたことに、心から感謝しなければなりません。

確かに価値観というには世代によって違いますが、注意の意味というのはどの世代でも共有できるはずです
そういうことで、“注意した側の気持ちを考える優しさ”が必要だということですね。

この事件の場合、22歳の女性の行動に、65歳の女性が不快感を抱いて注意したということは事実なのですから、22歳の女性は不快感を与えたことに対して素直に受け止めなければいけなかったと思います。
「これしきのことで怒るなよ」と思うのではなく、「こういうことで怒る人もいるんだ」という勉強をさせてもらったと思うのも良いかもしれません。

注意されて逆ギレするのがいかに愚かかということがわかってきますね(笑)


この事件のように、注意された人が逆ギレして事件につながるなんてことが繰り返されれば、みんなが怖がってお互いを注意することができない社会になってしまいます。
そうなれば、注意されないからとますます調子に乗る者が現れ、全体的なマナーがどんどん悪化してしまうことにもなりかねないと思います。
もしそうなってしまったら、それは本当に住みづらい社会ですよね‥‥


「Sorry,Full.」様では「マナーを明文化しないとマナーは産まれないかもしれない」というところまでおっしゃってますが、みんなが心に優しさをもってさえいれば、そのような必要もなくなるでしょうね♪

以下の部分には、自分も大賛成です。

どんなに派手な外観の人でも、
どんなに言動が荒っぽい人でも、相手を思いやる気持ちを
持っている人はマナーがきちんとしている。
(「Sorry,Full」様より抜粋)


‥‥外観や言動は個性なのかもしれませんが、内面では相手を思いやる気持ちを忘れず、守るべきマナーはちゃんと守っていけるような社会になるといいですね♪

脱線事故について その2

2005年04月27日 | “優しさ”各論
次第に新たな事実が明らかになってきましたね‥‥

やはりスピードを出しすぎていたことも確実ですし、運転士には相当のプレッシャーがかかっていたんでしょうね。
そのプレッシャーについて、ニュース等でも取りざたされているのはいいことだと思います。

そして、その原因の1つに、「日勤教育」というものがあったということが浮上してきました。

JRをそのような厳しい教育体制に駆り立てたのも、やっぱり日本社会が時間に厳しすぎるという背景があったからだと思います。

この事件を機に、みんなが時間にゆとりをもって行動しようという風潮が生まれればいいんですけどね‥‥


むしろそうしなければ、このような悲惨な事件がまた起こってしまう可能性を否定できません。
天災は防ぎようがありませんが、このような人災は最大限防いでいきたいですよね。

人災の場合は個人のせいにするのではなく、広い視野で原因を考えていくことが必要です。
今回の場合は、運転士の裏にあるJRの教育、そしてその裏にある日本人の時間に対する厳しい意識というところまでも見る必要があるということです。

そう考えると、犯罪などに対しても、本当に社会に責任はないのか、という見方ができそうですね。
個人の問題は社会全体の問題でもあるという意識で、みんなが世の中に山積する問題を真剣に考えていける社会になるといいと思います♪

優しい楽しみ方

2005年04月26日 | “優しさ”総論
ゲームにしてもスポーツにしても、イライラしたら負けだと思います。

それらは人生を豊かにするための余興であって、楽しまなければ意味がありません。
たとえ勝負に勝ったとしても、試合には負けてますね。
野球で三振してバットを折ってしまう人など、物に当たる人を見ていると、こちらまで悲しい気分になります。
(追記:もちろん、プロでスポーツをしている方々はそのスポーツ自体が生活の糧であって、勝つために必死になるのは当たり前なので、その必死さを否定するわけではありませんのであしからず。)
悔しいという気持ちはわかりますが、物に当たっても物が壊れるだけです・・・
彼らはスポーツマンとして、優しい楽しみ方ができていません。

簡単にフラストレーションを溜めてしまう人は、人生損じゃないでしょうか。
動物のように一瞬の油断も許されない世界に住んでいるわけではないので、そこは人間としてのゆとりを見せつけてあげましょう(笑)

逆に楽しんでやることができていれば、勝たなくたっていいんです。
勝負では負けても、楽しめた分は得ですし、勝てば勝ったでもっと楽しくなりますね♪


自分は、どんなことをするにもいろいろと楽しみ方を模索するのが好きです。
例えば、コンビニでバイトしているときも、一番お客様にとって良いお釣りの渡し方を研究してみたり、どのように商品を陳列すればお客様が手に取りやすいか試行錯誤してみたり‥‥

さらに言えば、ただ単に歩いているときでも、さりげなく足音を抑える練習をしてみたり、どんなことでも楽しみを見つけることってできると思うんです。

たとえ見つけられなかったとしても、楽しみを見つけようとすること自体が楽しいですしね


しかし、部活動でスポ少では、そのように楽しむことをちゃんと教えているでしょうか?
自分は卓球部だったのですが、どちらかというと部活は「体を鍛える」ことと「勝負強さを磨く」ことに重点が置かれていた記憶があります。

部活をやめて友達と遊びで卓球をやるようになってから、初めて楽しんで卓球をやることができるようになりました。


現代社会は、勉強なども含めて、よく「競争社会」と言われますよね。
これって、本当に悲しいことだと思うんです。

受験戦争や就職戦争‥‥
どれも敗者にはつらい精神的ダメージや、世間の冷たい目が待っています。

そんな状況では、よっぽど強い心を持っていないと耐えられませんよね‥‥
世の中そんな強い人ばかりではないですし。
人間達が、自ら生きにくい世の中を作ってしまうなんて、悲しいことだと思いませんか?

たぶん、みんなそんな競争に巻き込まれたくないと思いながらも、流れに逆らえないんじゃないでしょうか。
でもこれも、1人1人が意識して「競争社会は良くない」という風潮を作ることができれば、自然にそういう方向に向かっていくんじゃないでしょうか。
それだけ個人個人が集まったときには、大きな力になると思っています。
良い例ではありませんが、中国の反日デモの場合、それが悪い方向に出ているということですね。

自分が推し進めたいと思う「優しい世の中」というのは、みんなが手を取り合ってほのぼのと暮らせるような、そんな社会です‥‥
理想論かもしれませんが、できるだけのことはしてみたいと思います♪

列車脱線事故について

2005年04月25日 | “優しさ”各論
本当に悲惨な事故が起きてしまいましたね・・・
事故で亡くなった方々にご冥福をお祈り申し上げるとともに、ご遺族や、その他の事故に巻き込まれた方々に心からお見舞い申し上げます。

自分も大学に通うのに電車を使っている身ですし、全く他人事とは思えません。
このような事件が二度と起こらないことを祈るとともに、決して今回の事件を忘れないようにしたいと思います・・・

みなさんも、知り合いが巻き込まれたわけではないからと言って、この事件をただの事故という風には片付けず、胸に刻み込んで生きていってほしいです。

自分達の社会の中で生まれた事故ということは、自分に全く関わりがないということにはなりませんよね。

自分が思うに、この事故は社会全体が生んだ事故なんじゃないでしょうか。

と言うのも、電車が遅れたことで運転士が焦っていてスピードを出しすぎたことが、事故の原因の1つなんじゃないかと言われているからです。

「電車が遅れる」ということが、日本の社会では非常に疎まれている気がしますが、外国では、電車は時間通りに来ないのが当たり前のところもあると聞きました。

そんな中で、日本人は電車の遅延に神経質すぎるんじゃないでしょうか?

事故のとき、電車は遅れていたと言ってもたったの1分ほどだったそうです。
日本はそのたった1分さえも追及するという姿勢で、運転士に想像もつかないプレッシャーを与える社会なんです。
これでは、とても優しい社会とは言えませんね。

そして、このように運転士に間接的なプレッシャーを与えていたとしたら、今回のような事故に巻き込まれたとしても、運転士を責める権利があるでしょうか?
わかりやすく言えば、「電車の運行はきちんと定刻どおりにすべきだ」と思っていた人は、車の助手席に座りながらドライバーを急かした人とほとんど変わらない立場だと言えるのです。

公共交通機関は、あるという時点で非常に便利なものですから、きっちり時間通りに来ないことを追及するような風潮はどうかと思います。

気を抜いたら殺されるという、大自然に生きる動物達とは違うのですから、ゆとりを持って生きられる風潮を生み出せたらいいんじゃないでしょうか。
そもそも、みんなが時間にゆとりをもって行動するようにすればいいということですね。
自分なんか、時刻表が要らないくらいにゆとりをもって行動してますし。


あと、置石の可能性もあるとのことですが、もしそうだとしたら、犯人は絶対許せませんね‥‥
人間は、他の人間の命を故意に奪うことなく生きていくことができる動物だということを再確認してほしいです。

でも、置石だとしても、運転士がスピードオーバーしていたことは確実なので、やっぱり運転士の焦りを生んだ社会にも責任はあります。


そして事故にしても、事件にしても、人が生きたいという意思に反して亡くなるのを見るのは、本当に悲しいことですね・・・
少しでもこのようなことが減るように、社会全体で問題点を消していく必要があると思います。

とにかく、この事故は様々な教訓を残してくれたと思うので、私達は真摯に受け止めていくべきですよね。

家族への愛

2005年04月24日 | “優しさ”総論
今更ですが、基本に帰ります(笑)

最近の刑事事件を見ていると本当にゾッとする事件が多いですね‥‥

本当は大人が守らなくちゃいけない子どもを狙った事件や、親を平気で殺してしまった事件など‥‥
こんな悲しいことが頻繁に起こってしまうような世の中は、本当にいい世の中と言えるんでしょうか?

自分は、特にその中でも、中学生や高校生が親を殺してしまうという事件を聞くと、非常に胸が痛いです。

彼らは、親がどんな気持ちで彼らを育てたかを知ることができなかった。
そして、誰もそれを教えてくれなかった。

その結果、そんな悲惨な事件が起きてしまうんだと思います。

親の気持ちを知るには、自分が親になるのが一番手っ取り早いと思いますが、中学生や高校生の段階ではまだそれはできません。

だから、何かしらの手段でそれを知る必要があります。
だいたいの人は、親が愛情いっぱいに育てるという行為によって知ることになります。

親の愛情というのは、必ずしも子どもの目に見えるものだけではありません。
しっかり子どもに食べさせるために一生懸命働くとか、子どもの見ていない部分でも親はがんばってくれているんです。

そういう目に見えないものは、よーく意識していないと子どもには感じ取ることができません。
だから、直接的な愛情を受けていない子どもは、その部分が見えずに「自分は愛されていない」と錯覚してしまうこともままあります。

もしそれが悲惨な事件につながるとしたら、こんな悲劇はないですよね‥‥

人間の慣れというのは恐ろしいもので、現在のこのような事件に、次第に慣れてしまっているんじゃないでしょうか。
その慣れが事件を生むこともあるので、決して許したりしてはいけないことだと思います。


近年、児童虐待も増えているそうですが、それはそのように「自分が愛情を受けていない」と勘違いしてしまった子どもがそのまま親になったときに、生まれてしまうものだと思います。

なので、このままではそのような悲劇が連鎖していってしまうということになりますね。
それだけはなんとしても食い止めなければなりません。


そこで、自分はやっぱりクラナドを推薦します。
ゲームによって親がどんな気持ちで子どもを育てるのかを疑似体験できるとともに、家族の大切さを痛感させられること間違いなしです。

クラナドに限らず、このような情操教育に良いゲームは、国が何らかの指定を与えても良いんじゃないでしょうか。
ゲームを否定するだけでなく、良い部分も見てあげる風潮が、今の世の中には足りないと思います。

あと、教育の場で言えば、道徳のような時間を増やすのも、子どもにとっては良いことですね。
現在、心の教育が足りているとは言えないと思いますから。


世の中は人間の集まりです。
だから、1人1人の人間の心がけ次第で、世の中は変わっていけると自分は信じています♪

物への“優しさ”

2005年04月23日 | “優しさ”総論
なんかジワジワとアクセス数が増えていて、嬉しい限りです♪

今回は、最初の方でも触れた「物への“優しさ”」について、もう少し深く言及しようと思います。
「物に優しくする」なんて、バカじゃないかって思っている人いませんか?

たしかに、物に優しくしても、物に優しくしてもらえるわけではありません。

しかし、ものは考えようです。
人間というのは、相手が有機物だろうが無機物だろうが、優しくすることができるという、素晴らしい能力を持っているんですよ。

だったら、それを活かさない手はないと思いませんか?

物に対して愛着を抱くと、世界が全く違うものに見えてきます。
世界自体が生き生きしたものに見えてくるわけですね♪
自分の、特に大切な物に対してだけ愛着を抱いている人は多いと思いますが、全ての物に対して愛着を抱くことが大切です。
まずは、公共の物に対して優しくしようと意識することから始めましょう。

そしてこれによる最大のメリットは、物持ちが良くなることです。
今の時代は100円ショップがもてはやされ、「使い捨て社会」と言われていますね。

100円ショップ自体は自分も活用していますが、「使い捨て社会」というのはいかにも愛が足りません。
100円ショップの商品でも、優しく愛を持って使えば驚くほど長持ちさせることができるので、嘘だと思う人は実践してみてください。
「100円ショップで買った物だから、すぐ壊れるでしょ」という諦めの姿勢ではなく、「100円ショップで買った物だけど、どれだけ長持ちさせられるかな」という挑戦の姿勢をオススメします。

そのように社会全体が「長持ち社会」になっていけば、当然地球にも優しい社会になっていくわけですね。
そうなれば、100円ショップは商売あがったりになって、使い捨て社会になる前のように良い物だけが残っていくんじゃないでしょうか?

愛・地球博をきっかけに「もったいない精神」として密かなブームになりつつありますが、昔の日本人の心を見習うことも、非常に重要です。
古いからダメという風に決めつけず、良いことはちゃんと選び取って見習っていくといいと思いますね♪

夜型に1票(笑)

2005年04月22日 | Weblog
今日は時間がないのでトラックバック練習板の質問に答えてみようかなと思います♪

自分は前にも言ったように、ネットゲームにハマっているところからもわかると思いますが、バリバリの夜型です。
そのゲーム、無料のものなんですが、かれこれ2年半近くやっているんですよね‥‥

このゲームを始めたとき、自分はまだネット初心者で、全くネット上での人との付き合い方を知りませんでした。
やっぱり、実際に経験してみないと考えが至らないことはあるし、トラブルになりかかってしまったことも多々ありました。

でも、それはものすごくいい経験になったと、今でも思っています。
言い方は悪いですが、ネットゲームがネットマナーを学ぶための良い練習台になってくれたということですね。

そう考えると、ネットゲームはそれほど悪いものではないんじゃないでしょうか。
ハマりすぎて廃人のようになってしまうのには要注意ですけどね(笑)
あくまでゲームなので、楽しむ程度がちょうど良いと思います♪


完全に話が逸れてしまいましたが、今日はこれで(*´▽`*)

人を不安にさせることの不親切さ

2005年04月21日 | “優しさ”各論
コンビニには様々なお客様が来ます。
そして接客や他の業務をする中で、かなり多くの人間を見ることになるんですが‥‥

よく思うのは「他人を不安にさせていることを気にしない、あるいはそのことに気付かない」人が多いということです。

店員の立場としてはお客様を不安にさせないように通常よりもたくさん気を遣わなければならないため、よくわかるんです。
例えば、店員はレンジアップするときにパンの袋を切ったりするために店のハサミを使う機会が多いのですが、自分の場合、そのハサミの刃を絶対にお客様の方に向けないように気をつけています。
意外と仕事の方に気をとられすぎて、実行できていない店員もいますが、よく考えれば当たり前のことだと思います。

ですが、「店員だからお客様を不安にさせないようにする」というのは当然で、それよりも根本的に「人として他人を不安にさせないようにする」という意識がなくてはいけないと思うんです。

今日来たお客様に、店内をキックボードで走っていた少年がいました。

これはどう思いますか?

店員からしたらもちろん不安ですし、他のお客様も確実に不安になります。
店員には注意する権利はありますが、それによってゴタゴタが起こるのは非常に思わしくないことです。

怒られるからやらないとか、怒られないからやってもいいとかいう問題ではなく、自ら周りを見て、自粛すべきかを判断できるような人間になりたいですね。
そのときに大きな判断材料になるのは、周りの人がどう思うかということですね。

周りを気にするというのは、いつも忘れちゃいけないことです。
最近の若者には、周りを気にしないでいられることが美徳なんていう意識があるように感じますが、それは大きな間違いです。
その人が周りを気にしないで行動することができるとしても、その行動を見た周りの人が気にしてしまうんですから。
結局それは、迷惑な行為に他なりません。
本人が気にしないということは、余計に迷惑さを増すだけです。
電車で化粧をする女性が増えているようですが、周りから見たらどんなに不快に感じるか考えたことがないんでしょうか・・・
「自分は気にしないからやる」ではなく「他人が気にするんだからやってはいけない」という考えをもつべきだと思いますね。

そうでなくては、どんどん他人に迷惑をかける荒んだ世の中になってしまうだけです。

人間が人間の中に生きているというのは事実ですから、より良い世の中になるよう、みんなが意識していきましょう♪

もしも世界の人間が全て・・・

2005年04月20日 | Weblog
自分と同じような人間ばかりだったら、どうなると思います?
技術や才能という問題ではなく、性格の話です。

それで世界がちゃんとやっていけると思う方ばかりなら良いんですが‥‥
もしそうは思えないとしたら、それはあなたが現状では世界にとって良くない存在であると認識していることになると思うんです。
自分は世界にとって良くない存在と自覚しながら、他の人ががんばってくれている、と他人に頼ってしまっているんじゃないでしょうか。


特に環境問題を考える際に、こういう人はとてつもなく迷惑になります。
そういう人がいると、ちゃんとゴミを減らそうと気を遣っている人でも、不平等を感じて甘えてしまうなんてケースもでてきてしまいますから。

最近よく聞く不法投棄なんて、まさにその典型例ですね。
家電リサイクル法で廃棄するのにお金を取られるからと、不法投棄する人がいますが‥‥

他の人が払っているというのに、自分だけ払わないようにしたいという選択肢をよくもまぁ選べるものだと言いたいです。
そもそも、地球環境のことを考えて、処分のためにかかる費用を消費者に負担させようと始まった法律なのに・・・
家電を使うだけ使っておいて、それを処分する際にかかる費用に関してはノータッチですか?
家電を使った時点で環境に負担をかけてしまっているのに、さらに自然をいじめるんですか?

不法投棄をするということは、このように無責任極まりない行為であるということを、みなさんに再確認してもらいたいです。
前にも言ったように、人間は存在しているだけで地球に負担をかけてしまっているんですから、その負担を最小限に抑える努力が必要だということですね。

自殺の不親切さ

2005年04月19日 | “優しさ”各論
新任の小学校教諭が校内で自殺という事件がありました。
ショッキングな事件で、追い込まれた小学校教諭の死を悼むとともに、ご遺族の方々には心よりお悔やみ申し上げます。

しかし、この方を責めるわけではありませんが、自殺というのはつくづく優しくない行動だと思うんですよ。
意図的とまでは言えないものの、自らの意思で周りを悲しませ、驚かせているわけですから。
しかも、到底取り返しのつくことではないので、与える悲しみ・驚きはなおさら大きいはずです。

この事件の場合、この自殺した方は、自殺した後に学校や生徒・関係者にどれくらい迷惑がかかるかを考えたんでしょうか?
それとも、最後のわがままとして、許してもらえるとでも思ったんでしょうか?
そういったことすら考える余裕をなくしていたとすれば同情せざるを得ませんが、この自殺を知った生徒達が動揺しないわけがありません。
そうなればそれはもう、許す許さないの問題ではないんです。
彼らの心に少なからず傷をつけてしまったということなんですから。

そもそも、勝手に自ら命を絶ってしまうこと自体が迷惑な行為なのですから、それに加えて生徒達にショックを与えるような方法を選んだことは、弁護する余地もありません。

よく、自殺の理由に「自分は誰からも必要とされていないんだ」という言い分があります。
しかし、自殺という道を選んでしまうような気の弱い方が、他の人間にとって「死んでしまえばいい」という人である可能性は、極めて低いと思うんです。
たとえそうとしか思えないような出来事があったとしても、人間は変わることができます。
誰かに必要とされる人間になることは、そんなに難しいことではありません。
それこそ、他人に優しくするだけで、おのずと求められる人間になれるわけですし


もし自殺したいと思っている方がいたら、親族や友人が自分の死後に悲しむ姿を想像してください。
そんな目に遭わせたくないと思いませんか?
自分が家族や親しい人に「死んでほしくない」と思っているのと同様に、家族もそう思ってくれているということです。
自分は、自分の死によって知り合いが悲しむ様を想像するだけで悲しくて涙が出てきます。
昔いじめられていたときに、自殺してしまおうかと考えたことがありましたが、布団の中で「自分が死んだら親が悲しむ」ということを考えては、毎日枕を濡らしていたものです。

自分が将来必ず直面しなければならない死。
それを迎えた者を見たら、生きている者として悲しくならないわけがありません。
ましてや、まだ生きることができたのに、それを途中で放棄してしまったわけですから‥‥私は、自殺したのが全く知らない人間であろうとも悲しい気持ちになってしまいます。


あと、「○○したら、それから自分も死ぬつもりだった」と言って、犯罪を犯す(無理心中ではなく、ヤケになっている)パターンが目立ちますが、これこそ最低ですね‥‥

自分が死ぬ覚悟ができていれば、人を殺してもいいんでしょうか。
被害者とその遺族に多大な悲しみを与えて、自分を含む赤の他人にも悲しみを与えて‥‥
本当に、被害者の無念を思うと、涙が出そうになりますよ(泣)

「死ぬ気になればなんでもできる」なんて言いますが、こういうことのためにある言葉では決してありません。
きっとつらいことがあったんでしょう。
そのつらい気持ちは、割とのほほんと生きてる自分なんかには理解できないほどのものだったかもしれないとは思います。

でも、だからって犯罪にだけは走ってはいけないですよね。

‥‥死ぬ気で生きてほしかったです。

みんな大なり小なり悩みや問題を抱えていますが、それでも大半は凶行に走ったりなんてしません。
みんなはがんばっているんです。
それはよく考えればわかるはずです。

がんばっている人を見たときに、「よし、自分もがんばらなくっちゃ」と思うことができればいいんですよ。
自分が死ぬだけでなく、あまつさえ、そのがんばっている人をも死に追いやるなんて‥‥
もはや人間のすることとも思えません。

そんな風に足を引っ張り合っていくのが人間ですか?
他人を貶めるのが人間の生きる目的は決してないはずです。

なんでもできる人間だからこそ、きちんと逸脱しないように自分を抑えることが必要だと思います。
野生の動物にも劣るような醜い争いをするのは、それこそ人間的な生き方とは言えませんね。


せっかく人間に生まれたんですから、人間らしい安らかな人生を送れるよう、みんなで手を取り合っていけることを祈っています。

メンテナンスがんばってくださいね♪

2005年04月18日 | Weblog
この度、gooブログがメンテナンスを実施するそうですね。
それに伴い批判的が意見が飛び交ったり、閉鎖なんて言い出すところもあるようですが、自分はgooブログを応援していきたい気持ちです☆

以下、お知らせの全文↓


「いつもgooブログをご利用いただきありがとうございます。
 システムメンテナンスのお知らせです。gooブログでは下記の日程でシステムメンテナンスを実施させていただきます。この時間帯は記事の閲覧、投稿、コメント、トラックバック、pingの受信などすべてのサービスを停止させていただきます。

 実施時間: 2005年4月25日 午前 1:00 ~ 午前 9:00

 このメンテナンスではシステム内部での記事管理方法をより効率のよい方法に変更する作業が行なわれます。これにより今後の記事数の増加に耐えうるシステム構造と全体的なパフォーマンスの向上を目指しています。
 また、表示遅延に関する状況ですがサーバの増強作業はすでに完了しております。深夜帯において若干の表示遅延と投稿された記事の反映が遅延する状況が見られます。これについては複数のサーバへの負荷分散を調整し解消させるように努力してまいります。
 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけしますがご理解とご協力をお願いいたします。」


以上ですが、長時間のメンテナンス、本当にお疲れ様です。
自分はそんな時間にエントリーすることもないでしょうし、影響はなさそうなので、思い切りメンテナンスしてください(笑)

不満を吐露している人がたくさんいるようですが、自分としてはこんな機会を提供してくれているgooブログさんに感謝の気持ちでいっぱいなので、とてもじゃないですが文句なんて言えませんね。
それは無料で使っているからだと有料会員から突っ込まれそうですが、誰もが持っているお金というもので、こういう個人では成し遂げられないサービスを提供してくれているんですよ?

問題をなんとかしようとスタッフががんばっていてくれているのに、そこで移転だとか言い出すのは、スタッフのやる気を削ぐ以外の何物でもありません。

夜のサーバー負荷がすごくて、エントリーが消えただとか騒いでいますが、それをスタッフのせいにするんですか?
それはみんなのやる気のエネルギーの表れという風に捉えれば、それはある程度私達ブロガーで対応していかなければならない問題だと思います。

原稿を投稿する前にコピーしておけば、それほど問題とは思いませんし。

ブログを営利目的でやっているわけじゃないんですから、こんなことでグチグチ言うのには、正直怒りを覚えます。
急いでメッセージを伝えなくてはいけないという場ではないと思うのに、少しくらいメンテナンスで使えないだけで文句言うなんて、よっぽど心のゆとりがないんでしょうかね・・・悲しいことです。


サービスを提供してもらっている者として、自分はgooブログの雰囲気を悪くしないように努力していきたいと思っています。

gooブログスタッフの皆様、これからもよろしくお願いしますね(*´▽`*)

優しい生き方

2005年04月17日 | “優しさ”総論
今回は初めてトラックバックというものをしてみようと思います♪
(わかりやすく事件の概要がまとめられていたので、トラックバックさせていただきます)

これはまた、すごい事件が起こりましたね‥‥

クラナドから学んだことですが、「人の生きる意味は、人の中にある」んじゃないでしょうか。
自分以外に誰もいなければ、生きる意味なんて全く感じません。
それでは他の動物と同じです。
むしろ、「種の保存」だけを考えている動物にも劣ってしまうんじゃないでしょうか。

そして、街というのは、人と人が共に生きる、非常に身近な単位ですよね。
そうしたら、街は大きな家族みたいなものだということです。

本当に幸せに暮らすためには、隣人を貶めることではなく、隣人と手をつなぐことが必要なんだと思います。


人間は、生きているだけで多少なりとも、どうしても他人、ひいては世界そのものに迷惑をかけてしまう存在です。
だからこそ、その迷惑を最小限に抑え、余計な迷惑はかけないように最大限努力をしながら、慎ましく生きていかなければいけないんだと思います

「迷惑だから死ね」と言っているんじゃ決してありません。

それだと、どんな慎ましく生きていても絶対に迷惑をかけてしまうんだから、全員死ななければいけないことになっちゃいますから。

できるだけ他人のために事を為し、感謝されながら生きる。
それが良いこととわかっていながら、なぜ多くの人がそれを実行できていないんでしょう?

ちょっと意識をもてば実行できるはずです。
何も難しいことはありません。

まずは挨拶から始めましょう♪
そして、自分の街を愛してください。

ちなみに‥‥自分は今住んでいる街が大好きです。
もちろん、住んでいる人も含めて。

これだけで、充分幸せに暮らせることを保証しますよ(*´▽`*)

中国と日本

2005年04月16日 | Weblog
今日は昨日の延長みたいな話をしたいと思います。
なので、“優しさ”というよりは“正義”の話です。

中国といえば、現在反日運動が活発になっていますね。
日本から見ると、中国のデモは常軌を逸したもののように見えます。

これの根本は、中国がもともと国家主権の強い国だったということにあるようです。

「もともと」と言いましたが、今でも民主主義なのは名目上で、実質的には国家権力が非常に強大です。
そして、国民はずっと昔からそのような状況に置かれていたため、その状態に慣れてしまっているわけです。

日本は柔軟に海外の法律を受け入れたため、現在ではそれなりに国民主権が達成されていますが、中国では未だに昔の日本のような状態なのです。

自分の大学の恩師がこのような国家体制の研究をしていたので、先生の言葉を借りてわかりやすい説明をすると‥‥

欧米と日本・中国の国家体制は、対照的です。
何において対照的かというと、法が形成される過程での、政治権力が向かう方向です。

図にすると、現代ヨーロッパ型では‥‥


↑[国民の意思を反映した国会が法律を作成]
国民


というように、下から上に向かって意思が働いて法律ができています。
そして、国王は当然法律には逆らえません。
これを先生は「上向的法形成」と呼んでいます。


一方、中国(and昔の日本)型は‥‥


↓[命令的な性質をもった法律を作成]
国民


という感じになっているわけです。
これだと、王が法律を作るわけですから、自由に法律を変えることで王が好き勝手できてしまいますね。
これを先生は「下向的法形成」と呼んでいます。

このような対比からわかるように、中国では政治が民主的ではないので、当然不満が溜まるわけですね。

実はその不満が政府に向かうのを、政府が阻止しようとしている状態なんです。
国民の不満の矛先を日本に向けることで。

だからいっそ、中国国民がそのことに気付いて、真の“正義”のもとに政府を打ち倒すことができれば、中国は本当に民主的な国に生まれ変わるんじゃないでしょうか。
ヨーロッパの諸国は、そのような革命によって、民主主義を勝ち取ってきたわけですから。

ただ、中国にその日がくるかどうかは正直怪しいです。
中国4000年の歴史は、全てその下向的法形成の歴史ですから、国民の意識が変わるのは並大抵のことではありません。
ヨーロッパの国民たちは、最初から「キリスト教」という、彼らにとって国家権力よりも重い“正義”を持っていたことが、革命を後押ししたとも言えます。
当地では“自然法”という呼ばれ方をしていますね。
明文化されていなくても、まさにヨーロッパの人々の心に刻まれている法律なのです。


そういうわけで、中国の人は本当の“正義”というものよりも自分たちの考えた自己中心的な“正義”に基づいて行動してしまうということですね。

そのような状況に陥っていては、“優しさ”に基づいた行動など到底できないと思います。
きっと一部の優しい国民はわかっているかもしれませんが、全体をみると彼らは波に飲まれてしまっている状態ですね・・・



たぶん自分がここで書いていることを本にしたら、ヨーヨッパでは「そんなの当たり前じゃん」と鼻で笑われますよ(笑)
日本や中国のように、自然法の無い国の人にこそ読んでほしい本になると思います♪