さて、今日は昨日の続きのお話をしようと思います。
というのも、昨日トラックバックしていただいた
「ブログで情報収集!Blog-Headline」様に、電車で化粧をすることに対する意見を載せた様々なエントリーが紹介されていて、それを見るうちにまた自分の中で考えるところがあったからです。
特に自分が「これは・・・」と思ったのは
「油小路ニュー中猫屋」様のエントリーです。
なんていうか‥‥こういう考えをしている人が、電車の中で化粧をしているんだという良い勉強になりました。
たしかに、現代社会は昔に比べて自由度が増している社会だと思います。
だから、「何やっても、犯罪じゃなければいい」なんて思ってしまうのかもしれません。
しかし、本当にそれでいいと思いますか?
「他人が不快に思おうとも、それは関係ない」というのでしたら、仮に自分がいくら不快に思うことをされたとしても、「それは個人の自由だから仕方がない」と割り切るハメになるんですよ。
それは例えば、電車で隣の人が大音量でウォークマンを聴いていても、我慢しなければいけないと主張するのと同じことです。
「ウォークマンと違って、化粧や食事は目を閉じれば済むじゃないか」と思うかもしれませんが、他人の目を閉じさせる権利があるんでしょうか?
結局、ウォークマンも化粧も食事も、同じ種類の迷惑行為だと思います。
そもそもなぜ、人は「電車で化粧」などの行為をなぜ不快に感じてしまうのでしょう?
また、不快に感じない人もいるのでしょうか?
自分が思うに、
それはその行為をした人のことを、赤の他人だと割り切れるかどうかの差なんじゃないでしょうか。
つまり、「その人は赤の他人だから、自分には関係ない」と割り切ってしまえば、気になることもないし、当然注意するなんて行動にはつながらないわけです。
逆に、その人を赤の他人だと割り切れない人は、どうしても気にしてしまうわけですね。
現代社会では、人と人のつながりが薄くなっているとよく言われますが(例:近所付き合いの希薄化)、まさにここに、若者が(全員とは言いませんが)他人との壁を高くしているというのが表れていますね。
それに対して老年層は、近所ともマメに付き合う社会に生きてきたために、他人を赤の他人と割り切ることができないんだと思います。
おせっかいが好きな老人が多いというのは、そういう意味なんじゃないでしょうか。
人は、人の中に生きています。
たとえ、たまたま同じ電車に乗ったというだけでも、自分は何かの縁だと思います。
それを「赤の他人」という扱いで片付けるのは、すごく寂しいことなんじゃないでしょうか。
あと、「電車で化粧」肯定派の方に質問したいのですが、その車両に友達や恋人が乗っていても平気で化粧できるものなんでしょうか?
「できる」というなら、単に羞恥心が足りないだけだという問題ですが、「できない」というなら、それはきっとあなたが電車内の人を「自分とは関係のない赤の他人だ」と扱っているということですよね。
しかし、あなたが電車内の人を赤の他人だと扱っていたとしても、電車内の人が果たして同様にあなたは赤の他人と扱っているかどうかが問題なのです。
そして、そのような人に対しても気を遣うことができることが、優しさです。
つまり、化粧をしている人を見てどう思うかというのに、それが知り合いであるかどうかは、そんなに関係ないと思うわけです。
だから周りの人の中には、化粧をしている人が知り合いであるのと同じくらい気になってしまう人もいるということですね。
「ほっといて」と思うかもしれませんが、いるんですよ、ほっとけない人って(笑)
とにかく、「知り合いがいる、もしくはいるかもしれないから化粧をしない」というのではなく、「知り合いのように思ってくれている人がきっといるから化粧をしない」という風に思っていただきたいです。
どんなときでも周りにいる人間とはつながっているんだという意識がもてなかったら、この世はとても冷たいものになってしまいますから・・・
そしてその結果、周りの人間から「周りに気を遣えない優しくない人」という烙印を押されることは、本当に悲しいことです。
どうせ噂をされるんだったら、良い噂を立てられたいですよね。
たとえ周りが知らない人だらけでも、「優しい人だ」と思われることは決して損なことではありません。
なぜかというと、またどこかで縁があるかもしれないという利益を除いたとしても、それはとても気持ちいいことだからです。
だから、自らが周りの他人を気遣って我慢することで、他人を不快に思わせない努力が必要なんだと思います。
赤の他人だと思われないということは、本来なら喜ぶべきことなんじゃないでしょうか?
それが人と人とのつながりというものですし、人間社会では他人を無視して生きていくことは本当に損なんです。
いつ、他人が他人じゃなくなるかわからないのが、人間社会ですからね。
ましてや、同じ場所にいるという縁に恵まれたわけですから、その人たちに不快な思いをさせることは、いかにも愚かです。
もちろん、「油小路ニュー中猫屋」様がおっしゃっているように、規制すべきだとは自分も思いません。
明確に規制されていないものだからこそマナーというのであって、それを規制するのは馬鹿げていますよね。
ですが、お偉いさんが規制しようと言い出すのは、それが民衆の声だからです。
(政治家が民衆の声を無視していたら、それは政治とは言えませんよね。)
最近は人権侵害の意識が市民にも浸透してきていて、嫌煙権(タバコの煙を吸わされない権利)や環境権(騒音や悪臭などに晒されない権利)など、今までは認められなかったようなものまで認められるようになりました。
なぜそのような権利が認められるようになったかと言えば、自由度が増したことで他人の迷惑を考えない方が増えたからに他なりません。
もしみんなが、他人に煙を吸わせてしまうことを気にして、人前でタバコを吸わないように心がけていれば、歩きタバコは禁止されていなかったでしょうしね。
法律によってきちんと統治されている現代国家においては、
自由である(=規制がない)ということは、規制が必要ではないからという理由でしかないということを意識する必要があります。
政治家も喜んで規制を作っているわけではないということですね。
規制が増えるのは、なんにせよ自由度が減って良いこととは言えませんが、
そこまでしないといけないほどの状態になってしまっているからこそ、規制せざるを得ないわけです。
本当にごく一部の人の意見だったら、規制にまでは至らないわけです。
だから、そのような話題になるということは、その意見が一部のものではなく、そしてとても深刻なものだということをわかってあげてほしいと思います。
我慢すべきところで我慢することも、優しさの1つです。
それが一見他人には見えにくいものであろうと、それを実行し、周りの人もそれを感じ取って優しい気持ちを増やしていけるような社会になるといいですね(*´▽`*)