考えれば考えるほど、優しさって曖昧な言葉だと思います。
結局優しいか優しくないかの判断は、優しくされた側がどう感じるかにかかっているんですよね。
例えばわかりやすい例だと、お金持ちそうなおばあちゃんが重そうに荷物を持っているのを、手伝ってあげたとします。
そのとき、そのおばあちゃんが「あぁ、この人は優しいねぇ」と思えばその行いは優しいということになりますが、もし「まさかこの人は私からお金をせびろうとしてるんじゃ・・・」と思ったらどうでしょう?
途端に、そのおばあちゃんにとってはその行為が優しいものではなくなります。
たとえ周りから見ていたら優しい行為だとしても、その行為を受けた本人がそう思えないようであれば、やはりそれは優しい行為とは言い切れないですよね。
こういう例を見ればわかるように、悪意をもった人が多くいるから、より他人のことを疑ってしまうようになるんじゃないでしょうか。
ただ、それを悪いことばかりだとは思いません。
なぜかというと、それはつまり
自分がある行為を受けたときに、それを優しい行為だと思いさえすれば、どんな行為でも優しい行為だと認定することができてしまうからです。
素直に相手の行為を厚意だと受け止め、心から感謝の言葉を送ることができれば、もし相手が最初は騙そうとしていたとしても、その心をもしかしたら動かすことができるかもしれません。
自分はそれに賭けてみたいと思うんです。
たしかに、極力人を疑わないで生きるというのは難しいことです。
前に
「人を信じる“優しさ”」でも述べましたが、「騙されてもいい」という気持ちをもっている人はそうそう多くはないと思います。
自分はある程度騙されてもいいと思っている人間ですが、それでも限度があると思ってしまっている時点で、完全に騙されてもいいと思っているとは言い切れません。
それでも、騙すよりは騙される方がよっぽどマシだと思っていることだけには、自信をもっています。
「たとえ他人に騙されようと、他人を騙さない」
この気持ちをみんなが持てば、自然に人を疑うなんてことは忘れてしまうような世の中になるかもしれませんね(*´▽`*)
‥‥なんだかまとまらない文章ですいませんヾ(;´▽`A``