ことりのあしあと

ほんのわずかなじかん、立ち止まって耳をすませて自分を見つめたい。そんなあしあとをペタペタとのこしています。

地域のつながりは、新たに構築するもの。再び構築するものではない。

2010年12月11日 00時48分30秒 | 子ども
一昨日の夕刊の論説委員室からを読んで、気になって仕方がないまま
持ちこしてしまった記事。
持ちこした分だけ、そうだ、そうだ、そうなんだ、だからなんだ、
という気持ちがふつふつと湧いてきています。

内容は下記の論文を読んだ感想。
健康の面や経済の面で弱っている人ほど、
近所の人に助けを求めることができない。
他人に迷惑をかけたくない、迷惑をかけてはいけない
と思ってしまう。
ゆえに、地域のつながりで支えるのは難しい、のではないか、
というお話でした。

「高齢者の地域生活の現状と地域福祉活動」
―ひとり暮らし高齢者の社会的孤立対策における「支えあい」の限界―
菅野 道生(東日本国際大学)
http://www.jilg.jp/iservice/img/info89.pdf

ちゃんと読んでからと思って探して読みました↑

そして、思ったのです。
だからNPOなんじゃん。って。


私は今日もママ友にSOSをお願いしました。
でも「ママがいい病」発病中のぷうちゃんをお願いするのは、
とっても心が痛かった。ずっと迷って躊躇して、でも
ギリギリになってお願いして、だから余計に始末に悪かっただろうな。
迷惑をかけるだろう、負担をかけるだろう、その両方がブレーキ。
ぷうちゃんよりも、ママ友に対して。

人と人のつながりが個人と個人のつながりの中で、
そこに甘えていくには、甘える側にハードルを越える
エネルギーがないとできないなぁ~、とこのところ、
救急車事件以降、ずっとずっと思っています。


地域のつながりで「ご近所さん」での助け合いというのは
美しいけれど、その絵を描けるのか?

私の答えはNOです。
「触媒」「仕掛け」「仕組み」が必要な時代が今。
そこに住んでいてご近所さんであればいい、という時代ではない。


「お互いさま」の気持ち半分残しながら、
「お仕事ですから」という形をNPOが事業体として
演出していくことが必要。


ついでに、その演出の中に、
健康状態が悪くてもできること、
経済状況が悪くてもできること、
「できること」を提供できる場を小さくとも少しずつ用意していくこと。
「提供した分」だけ「頼む」ハードルがさがります。
それも、NPOの得意とする方法ではないかと思う。


孤独はおとなとして永遠に抱え持つもの。
孤独を抱え持つことができて初めて人は一人前の人足り得る。
原初的にプログラミングされているものだと思います。

でも孤立は、違う。
仕掛けや仕組みによって回避していく方策を組めるもの。
相当の入念な準備と工夫によって避けることができます。


「地域のつながり」は「地域」に住んでいればつながるものではなく
「つながり」を作るために相応の資力を尽くす必要がある。
そのことに気付いていない行政と、
すでに気づいているかも知れない民間組織とがある。

あれ、なんか最近私、同じ話書いたような気がしてきた?
同じ話書いていたらごめんなさい。




最新の画像もっと見る