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ことりのあしあと

ほんのわずかなじかん、立ち止まって耳をすませて自分を見つめたい。そんなあしあとをペタペタとのこしています。

読書日記8/20 大沼紀子『真夜中のパン屋さん』ポプラ文庫

2011年08月25日 15時30分46秒 | 
期待の新人さんの作品。

真夜中のパン屋さんで、パンの甘い匂いにつつまれて、
どんなお話が展開するのだろう~と、
ワクワクして手にとる。

親に捨てられた少女、
親に捨てられた少年、
捨てる気のなかった母親、
いなくなっただけで愛があった母親、
家族を築けなかった男たち

それらがパン屋さんにつどいながら、
ひとつの家族のように、
比喩ではなくて家族の役割を果たして、
生活を成り立たせていく。

書いてしまうと重くなる。
もっとポップで、もっとやさしい。

そして蛇足のように、底辺を流れている穏やかさの揺らぎをあからさまにしてしまったり。
というところは、まだまだ荒削りですが。
いいではないですか。
真夜中のパン屋さん。

次はどのシチュエーションで書いてくれるのか、
楽しみです。

読書日記8/18-19 小路幸也『東京公園』新潮文庫

2011年08月25日 15時30分02秒 | 
映画東京公園の原作
http://tokyo-park.jp/

原作といえで、脚本ぽく、
読み進めていくと、コマ送りで映像が浮かびます。
とても美しく。

映像の美しさに本筋に流れている枝葉の矛盾は
飲み込まれてしまって。

雰囲気に流されてしまう。
でも、爽やかに過ごしたいこの夏の日差しの中では、
さらりと読んで、すっと風が吹き抜ける。
そんな一冊でした。

読書日記7/8 田中優『原発に頼らない社会へ』

2011年07月10日 09時38分39秒 | 
ううむ。

やっぱりそうか、そうなんだよね。
家庭でつかってる電気9%ですって。
どんなに個々の家庭が節電に励んで、最大限でも9%しか電力カットできない。
やっぱりね。
どうしてもっと、声高に語られないんだろうな。
どうして、メディアは個々の家庭の節電を呼びかけるの?
呼びかける相手、ちがってる。

エアコン、がまんするのやめました。
28°は適温なので、つけます。
30分ごとに5分とめると、十分節電効果あるんですって。

原発からの電気がこなくなっての生活は
現実的ではない、不可能、って、それもウソだった。

原発じゃ、ない、方法は、すでにとっくに、この日本でも開発されていて、
よその国では日本の開発したその方法も用いられていて、
でも、日本では用いられていないんですって。
おかしな話。

要は現状の雇用がこわれるからって。
こわれないうちに、雇用の受け皿の移行はできます。きっぱり。

電気の効率的な供給と、大都市集中型でない働き方は、
密接にリンクしてるってわかった。
地方拡散型にシフトしたら、生活に今以上にはお金はかからなくなる。

大きなお金を稼がなくてもよくなれば、
仕事にがっつり貼りつかなくても、よくなる。
体的にも、メンタルヘルス的にも、楽になる。

いいことづくめ。
阻害しているのはなんなのか、そっちの方が不思議に思えてくる。
もすこし、自分のコトバになるくらい、読みこむといいんだな。

エアコンは、適宜使おう。
キャンドルナイトは、しよう。
電気を消して、節電にはあまり大きな影響はないけれど、
キャンドルのともしびが教えてくれる
静かな時間と、やさしい時間が、
とおくに思いを馳せるのに必要だから。
馳せた思いの分、見えないところにある、あれこれに近づけるから。
それはとっても大事なことだと思うから。

読書日記7/6 平木典子『自分の気持ちをきちんと〈伝える〉技術』

2011年07月09日 16時03分17秒 | 
アサーション。
もう20年近く前から、気になっている言葉のひとつ。
気になっているのに、近づこうとしなかったことを、
今さら、この本を読んだ後に後悔しています。

なんだ、楽になるための出口を、
私は知っていたのに、どうしてその扉をのぞいてみなかったのかしらって。

あんまりヒットしすぎるのは怖い。
のめりこんじゃうから。

たぶん、そんな親近感がもともとあったのだろう。

アサーション。
他のあれこれよりも、ぴったりくる技法。
いや、技法というのは、正確じゃない。
人との関わり方、みずからのとらえ方。
あたりまえすぎる。
あたりまえだから、ぴたっとおさえておくだけで、楽になれる。

いま、読んで良かった。
素直に、読めた。
素直に、うんうん、とうなづけた。
そして、それ以上でも、それ以下でもない、感じに、落とし込める気がする。

発達障害とはなにか、そこから見える日本の教育

2011年07月02日 18時24分09秒 | 
何かのプロフェッショナルでは、ありません。

が、子どもに関わることについて、幅広く、は、
勉強してきたような気がします。

が、NPOとかボランティアということについても、
実践から理論を辿りなおす形で、勉強してきたような気がします。

昨年から、障害児について、とりわけ発達障害について、
チャイルドラインではあまり接点のなかった層の
子どもたちに関わるとりくみに近いところに身を置くようになりました。

頭でっかちになりたくなくて、
出会う人たちのお話、支援したり、当事者だったり、親だったり…
をいっしょうけんめい聴くところからはじめて、
半年以上の時間がたって、大丈夫本を読んでみても。
異なる価値観とか、ここは同じでここは違う。
とか、まるごと、ごろっと知識だけにのみこまれないだろう
ベースができた気がしたので、
ソフトなところから、読みはじめています。

一冊目は藤井茂樹・宇野正章『発達障害 共生への第一歩』
二冊目は茂木俊彦『障害児教育を考える』

どちらとも、読んでいて、あぁ、ちいさな「ことなり」なのだなぁ。
ちいさなことなりが、大きくくくられて別々にされようとしている
差別化、区別化、細分化、排除…の、形が
あらわになったのが「発達障害」の枠組み。

そして、子どもたちは、それを個性というよりも、
やはり、障害として、苦しまなくてはならない状況にあって、
だから、親たちもがんばらなくてはならない状況にある。

諸外国で進む、ひとりひとりに手当していく教育では、
そのひとりひとりの中に、LDとか、ADHDとか、自閉症とか、含まれていて
当たり前に対処の方法が考えられていて、だからすすんでいる。

日本は、遅れていて、その数多の一人ひとり異なるニーズの子どもたちへの
対処の方法から、発達障害はこれ、○○の場合はこれ、
と、いうように諸外国の対応例をひいてくるので、
対応例がどんとおっきくうつる。

きっと、根本的に違うんだ。
大事なのは対処の方法、じゃなくて、
「ひとりひとり手当する」ことが当たり前に確立しているかどうか。

そこを変えたい。
発達障害かいなか、知的障害なのか身体障害なのか、
あるいは、貧困なのか、被災なのか、社会的養護なのか…等々
に関わらず、すべての子どもにとって、ひとりひとりに手当が行き届く
教育のあり方が、ずっとずっとず~っと、この国には必要なんだ。


そう主張する人たちが、常に一定居つづけて、
それでも、根本をしっかりと変えていくところにまで
手を尽くしきれない頑強な仕組みが日本の教育の中に根を張っている。

てごわいな。
でも、知ってる、ということが、大事。
そこに、挑みたい、という気持ちでいる、それが大事。


それにしても、茂木俊彦さんの『障害児教育を考える』良い本でした。