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弁(辨・瓣・辯)・弁姦論・謂=言+胃・謂れビコ・磐餘彦

2019-02-18 21:21:00 | 古事記字源

 「囚首喪面(シュウシュソウメン)」
       終  始 双 面?
 「囚=囚人」
 「首=頭⇒髪」
 「喪=喪中の人」
 髪を梳かさない囚人のように乱れた髪
 顔を洗わない喪中の人のように汚れた顔
 顔や髪を整えないこと
 容貌を飾らないことのたとえ
 (蘇洵「弁姦論」)・・・強姦の弁の論?
 ↓↑
 蘇洵
 唐宋八家(唐、宋代の八人の文章家の一人)
 蘇軾(東坡)の父
 「弁姦論(ベンカンロン)・唐宋八家文」
 「弁姦=恩人の見分け方」
  ・・・ベンカン=弁韓・冕冠・弁官・便管
  弁韓=紀元前2世紀末~4世紀
     朝鮮半島南部に存在した三韓の一
     馬韓、辰韓、弁韓(弁辰)
     弁辰とも・弁韓は12の諸小国に分立
     後に加羅 (から)・任那 (みまな)
     6世紀に新羅に併合
 ↓↑
 「大姦は忠に似たり」
 「宋史-呂誨伝」
 「劾安石曰、大姦似忠、大詐似信」
 「王安石」を弾劾した
 御史中丞
 呂誨(リョカイ)
   ・・・呂=背骨の形象・ならんで続くの意
      侶=「膂=旅+月」で背骨)
 ↓↑    ↓↑
      呂禦梅・・・呂を禦す梅(梅里=徳川光圀?)
      唐朝の学者
      朝鮮氏族の
      咸陽呂氏の始祖
 ↓↑    ↓↑  ↓↑
      ・・・咸陽郡ー大韓民国
         慶尚南道にある郡
         朝鮮半島南東部に位置する行政区
         全羅南道、全羅北道、慶尚北道に接する
         慶尚=慶州(新羅の古都)
         と
         尚州を組み合わせ「慶尚」
         この周辺地域を慶尚道
 ↓↑    ↓↑  ↓↑
         前350年
         中国
         咸陽
         秦の
         孝公が
         流域の関中に築いた都
         陝西省の省都
         西安の北西
         渭水の北岸
         始皇帝の統一で秦の都が全中国の首都
         始皇帝は
         咸陽に天下の富豪12万戸と移住させた
 ↓↑    ↓↑  ↓↑
         渭水・・・渭=氵+胃=氵+田+月
              渭樹江雲(イジュコウウン)
              遠くにいる友人を気遣うこと
             「渭樹」=渭水のほとりの樹木
             「江雲」=長江の空に浮かぶ雲
              渭水の北の地にいる
              杜甫が
              長江にいる
              李白を思って詩を作った
              渭川漁父(イセンのギョホ)
              太公望=呂尚
              優れた能力をもつ人物のたとえ
             「渭川」=渭水
             「漁父」=漁師・・・
              呂尚は、周の文王に見出された人物
              渭浜之器(イセンのウツワ)
              渭浜漁父(イヒンのギョフ)
              渭浜漁父(イヒンのギョホ)
         渭=氵+田+月・・・
         謂=言+胃・・・謂れビコ・・・磐餘彦・・・
 ↓↑    ↓↑       ↓↑
      呂禦梅・・・呂を禦す梅(梅里=徳川光圀?)
      唐朝の
      翰林学士
      翰林院=唐の玄宗が
 ↓↑        738年(開元二十六年)に
          設けた翰林学士院が起源
          唐中期以降、主に詔書の起草に当たった役所
          元代には国史院と統合され
         「翰林国史院」と呼ばれていた
          明代には旧に復し「翰林院」
         「大順(順=1644年に明朝を倒した
             李自成が建国
             内地18省を実効支配
             満洲や新疆東部に羈縻機構を設置
             建国当初は西安を首都
             李自成が北京を攻略後
             北京を改めて首都)」
          では
         「弘文館」・・・ 江戸初期の林家の家塾
 ↓↑    ↓↑   ↓↑寛永七年(1630)
                 林羅山が江戸上野忍岡に創立
                 元禄三年(1690)
                 五代将軍
                 徳川綱吉が湯島に移し
                 後の「昌平坂学問所」
 ↓↑    ↓↑   ↓↑ ↓↑    ↓↑   ↓↑
                 水戸藩「弘道館」
                 弘道館=水戸藩主
                 徳川斉昭によって創設された学校
                 天保十二(1841)年
                 青山延于 (のぶゆき)
 ↓↑    ↓↑   ↓↑会沢安を総裁として開校
                 水戸藩「彰考館」
                 寛文十二年(1672)春
                 徳川光圀は
                 駒込屋敷の史局を
                 小石川上屋敷故世子
                 綱方の旧殿に移転し
                「彰考館」とした
                 館名は、中国晋代
                 杜預の「春秋左氏伝序」
                 にある
                「彰往考来」
                (過去を明らかにして
                 将来行うべき道を考える)
                という語句
 ↓↑    ↓↑   ↓↑
          と呼ばれた
          清代では
          皇帝直属の
          秘書室で書物の編纂、詔勅の起草
         「貯才の地」ともいわれ
          有為な人材を確保し、勉強や実務の見習
          必要があるときに中央官庁や地方の要職に任命
          学問や政治の最高の人材が揃う
          Academy (アカデミー)と英語訳
 ↓↑    ↓↑
      黄巣が反乱
 ↓↑    ↓↑ (黄巣=唐末の反乱指導者=塩商人
            874年~10年間
            全土を転戦しながら反乱を指揮
            姓・諱 黄巣
            諡号 承天応運啓聖-睿文-宣武-皇帝
 ↓↑    ↓↑     国号 斉)
      の時期に
      新羅に帰化し
      慶尚北道星州郡の
      碧珍面に定着・・・碧の珍の面
      高麗時代に典書を務めた
 ↓↑    ↓↑
 ↓↑  誨=言+𠂉+母=カイ(クヮイ)
      知らない者を教えさとす
      誨(おし)える
      誨淫・教誨
      訓誨(クンカイ・訓戒)
      誡誨(カイカイ)
      教誨師=監獄内の受刑者へ
           徳性涵養のため講説する者
           受刑者にその非を
 ↓↑       悔い改めよと教えさとす人・・・後悔・更改・・・
 の
 『弁姦論』にある言葉・・・ム(よこしま・私)+廾(こまぬく・拱)
    弁(辨・瓣・辯)
    弁(弁当)
    辨(辨官・辨捌・辨証)
    瓣(瓣膜・花瓣)
    辯(辯明・辯説・辯護)
 ↓↑
 蘇 洵(ソ ジュン)
 ↓↑  蘇=よみかえる・よみがえる・蘇生・蘇我
         蘇=艹+魚+禾(ノ十八)
           丿=ヘツ・へチ=経通・経知
 ↓↑   ・・・洵=氵+旬=氵+勹+日
          「上旬・中旬・下旬」は
           1カ月30日を10日ずつに分けた
           旬=10日間=干の陰陽サイクル
             甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
 ↓↑      ↓↑          ↓↑
         洵=氵(水が)勹(包む)日=壬癸
           まことに・本当に
           涙が流れる
           うずまき(渦巻き・竜巻)・・・津波?
         栒=木+旬
         異体字「簨」
         栒=木+旬=木+勹+日
           シュン
           鐘(ショウ)・磬(ケイ)
           などを掛けるための台の横木
           左右の柱は「虡」
           バラ(薔薇)科の木
 ↓↑
 蘇 洵(ソ ジュン)
 大中祥符二年四月二十五日・・・「大中祥符中、天下大蝗」
 (1009年5月22日)
 ~
 治平三年四月二十五日
 (1066年5月21日)
 北宋時代の文人・唐宋八大家の一人
 蘇軾・蘇轍の父
 字は明允
 老翁井という泉のそばに亭を結んで
 老泉と称された
 眉州
 眉山(四川省眉山市東坡区)の出身
 唐の前期に
 眉州刺史を務めた
 蘇味道・・・・・蘇(よみがえらす)味(あじ)の道(みち)?
 の次男の
 蘇份の末裔
 ・・・蘇の份=イ+分
       =分=八+刀
       =邠=分+阜
        あきらか・うるわしい
 ↓↑     ヒン・フン
 蘇 洵は・・・よみがえらして「洵=浮か」ばせる
       蘇我いるか(入鹿・海豚)・・・蝦夷の俘囚・浮浪児
 至和・嘉祐年間(1055年~)
 ↓↑・・・至(いたる)和(倭・話・輪・窪・環)
     日本
     干支=乙未
     天喜三年
 ↓↑  ↓↑  ↓↑
     中国
     北宋  至和二年
     遼   重熙二十四年・清寧元年
 ↓↑ 西夏  福聖承道三年
 蘇軾
 蘇轍の二子を連れ都に行き
 翰林学士であった
 欧陽脩に・・・欧=歐=匚+品+欠
           =体を曲げてかがむこと
           =は(吐)く・もどす
            欧羅巴=欧州の略
 ↓↑     陽=阝+昜(日一勿)・・・≠易
          左辺の阝=阜(こざと)=𠂤+十
          𠂤=つちくれ・タイ・シ
           =丿+㠯
           通仮字「魁」
           異体字「堆」・・・タイ=碓
          右辺の阝=邑(むら・くに)
        脩=イ+丨+攵+月=修
         =ほじし・おさめる・ながい
          シュウ
          干し肉・束脩
          脩身・ながい・脩竹
          棗脩(ソウシュウ)
 ↓↑      束脩(ソクシュウ)
 「権書」
 「衡論」ほか二十二篇を献呈
 ↓↑
 宰相
 韓琦・・・韓の琦(王奇)?
 の計らいで
 舎人院・・・舎の人のイン
 に召されたが
 病気を理由に辞退
 秘書省・・・秘の書
 校書郎となる
 後に
 太常寺・・・太の常の寺(字・事・時・示)?
 の命を受け
 覇州
 文安県・・・文案に懸ける?・・・文・在?・・・虎相のW文?
 ↓↑     文・喜(ムン・ヒ? 1945年3月3日)
       乙酉(庚 辛)・偏財比肩 建禄
       戊寅(己丙甲)・印綬偏印  胎
       辛未(丁乙己)   偏印  衰
        戌亥=空亡・・・ナルホド・・・
 ↓↑    ・・・厚顔無恥・・・ホトケのカホも・・・ナンカイ・・・
 主簿の禄を受け
 陳州
 項城令・・・項(工の頁)の条の令・・・1965年?
 姚闢・・・姚=女+兆=オンナのキザシ
 ↓↑          美しい
            ヨウ(エウ)・ヨウ(エウ)
      闢=門+辟=ひらく左右に押し開く
            しりぞける
          闢・開闢
          壁・城壁・外壁・牆壁
           ・障壁・岩壁・絶壁
          璧・完璧・双璧
            和氏の璧⇔厲王・足切
         碧・碧玉・碧瑠璃玉・碧海
           ・碧空・碧水・碧潭
           ・紺碧・丹碧       
          劈・劈開・劈頭
            さく・つんざく・ひきさく
          擘・ハク・バク
            おやゆび・さく・つんざく
            特にすぐれたもの
           巨擘・擘裂・巨擘
          躃・𧾷+辟=足が不自由
            異体字「躄」
          悶絶躃地
            苦しみ悶え転げまわること
   癴躃(レンビャク)・痙攣
          甓・瓦甓(ガヘキ)
           =塼・専・磚・甎
          僻・僻地・僻隅・僻案
           ・僻見・僻在・僻説・僻論
          𠒱=辟+儿
            ひがむ・拗(すね)ねる
          𠪮=狭い
          霹・霹靂(ヘキレキ)=礔礰
          癖・潔癖・性癖・盗癖・難癖
          避・避難・回避
          𪇊=鳥+辟=鷿鸊䴙𩁊
            𪇊鷈・𪇊鵜(ヘキテイ)
            カイツブリ(鳰)
          澼=水+辟=氵+尸+口+立+十
            ただよい・ただよう
            ヘキ・ヒャク・ケキ
          辟=𡰪+辛
           =尸+口+立+十
           =尸+口+辛
            𡰪=異体字「䐁・ぶた」
 ↓↑   ・・・壁を造る意味?・・・トランプ?
 と
 建隆・・・建の隆・・・隆(西郷隆盛)を建?
 (960年~963年)
 ↓↑=宋朝最初の元号
    元年正月甲辰(4日)
    陳橋の変
    趙匡胤・・・北宋の初代皇帝
    開封で後周の
    恭帝から禅譲を受け皇帝即位
    元年乙巳(5日)
    国号を宋とし、
    建隆と建元
    2年  杯酒釈兵権
    4年2月 荊南が宋に降る
    4年4月 建隆応天暦が施行される
 ↓↑4年11月 乾徳と改元
 以来の
 礼書を編纂
 太常院革礼100巻をつくり
 完成後すぐに死没
 光禄寺丞を贈
 ↓↑
 蘇洵は
 王安石が
 新法を実施するより以前に死去しているが
 蘇洵の『弁姦論』が
 新法・旧法の争いの時代に
 「姦」が
 王安石
 のことであるとされた
 ↓↑
 王 安石(オウ アンセキ)
 天禧五年十一月十二日
 (1021年12月18日)
  ~
 元祐元年四月六日
 (1086年5月21日)
 北宋の政治家・詩人・文章家
 字は介甫
 号は半山
 撫州臨川(江西省撫州市)の人
 「新法党の領袖」
 「神宗」の政治顧問となり
 「制置三司条例司」
 を設置して新法を実施
 政治改革・・・
 「仁宗」に上奏した
 「万言書」は名文
 唐宋八大家の一人
 儒教史上、新学(荊公新学)の創始者
 『周礼』『詩経』『書経』
 に対する
 注釈書
 『三経新義』
 を作り、学官に立てた
 ↓↑
 1067年(熙寧二年)
 神宗に一地方官から
 皇帝の側近、
 翰林学士に抜擢され
 ↓↑
 1069年
 副宰相となり、政治改革
 ↓↑
 「王安石の新法」
 大商人・大地主達の利益を制限
 中小の農民・商人たちの保護
 ↓↑
 1058年
 「万言書」
 と呼ばれる
 建白書を
 仁宗に奏上
 ↓↑
 1067年
 神宗が即位し
 王安石は抜擢
 ↓↑
 1069年
 富弼が宰相となり
 参知政事(副宰相)
 政治を主導
 煕寧二年~九年
 王安石は
 呂恵卿・曾布
 と一緒に
 富国強兵をめぐって次々と新法を実施
 ↓↑
 第一
 国家供給の調整と
 商人に対する制限
 均輸法・免行法・市易法
 均輸法=都の実需と在庫状態を調査させ
     「貴を徙して賎に就け、
      近を用いて遠に易える」
     「便宜蓄買」させ
      従来の定額制より
      供給が保障され
      政府の支出と民の負担を軽減した
 市易法=市易務を設け
     商人が財産を抵当に入れて
     二割の利息を払って
     政府から融資をうけたり
     平価で買い付けた貨物を掛売り
     最初は都に実施された市易法
     後にほかの商業都市にも実施
 免行法=政府への物品供給を引き受ける
     開封の各業種の商店が
     利潤の多寡によって
     市易務に免行銭を納め
     従来の順番に現物。人力を
     政府に提供することを廃止するもの
     免行法の実施後
     宮廷が雑売場と雑買務を通して
     物品を購入
     商人の利益を保護しながら
     政府の収入増加を目指した
 第二
 国家と農民との関係を調整する政策
 農業生産を発展させる措置
 青苗法・募役法・方田均税法・農田水利法
 青苗法=凶年に備える
     常平倉・広恵倉の
     銭穀を元金として
     正月と五月という端境期に
     自由意志で農民に貸付をし
     収穫のときに
     夏秋の両税と一緒に返済する
     農民が高利貸しの
     搾取を避けながら
     政府も利息の収入を得られる
     ことになった。
 募役法=免役法
     宋代
     家庭の財産収入状況によって
     戸の等級が分けられ
     戸等によって
     順番に衙前などの州県の小役人を担当
     このやり方を廃止し
     州県の官庁によって
     役人を雇う形に変わった
     毎年の雇用経費は
     州県官庁がその予算を作り
     戸等によって割り当てて
     免役銭を納めさせる
     従来の小役人を担当しないと
     女戸も相応する戸等で
     免役銭の半額である助役銭を納めた
     政府の収入が増加
     役を担当しなかった特権者も
     役銭を納めなければならなくなった
 方田均税法=毎年九月に土地を測量し
       肥沃の程度によって帳簿に登録
       それによって納税額を決めた
       地主の脱税を防止し
       政府の土地税が増収した
 農田水利法=戸等によって資金を寄せ集め
       水利工事を興すこと
       王安石の地方官時代の拡大化
 第三
 統治基盤と軍事を強化する措置
 将兵法・保甲法
 将兵法=北方の各路に百余りの将を設け
     各将に
     実戦経験と武芸を有する
     正・副将を置き、軍事訓練
     将兵法が行われる州県では
     地方官は軍政に関与できない
     実施は軍隊の戦闘力を高めた
 保甲法=農民を十家で一保
        五保を一大保
        十大保を一都保とし
     一家庭に二人の成年男子がいれば
     一人が保丁を担当し
     住民の中で財力と能力がある人によって
     保長・大保長・都保長を担当させる
     同じ保の人が
     相互に監督し、治安を維持
     農閑期には軍事訓練
     保甲法の実施目的
     農村に民兵組織を立て
     軍事費を節約し
     地方自治による反乱防止
     戦時に兵隊に徴兵編入できること
 ↓↑
 王安石は科挙と学校教育制度の改革
 王安石の『三経新義』は教科書とし
 人材養成を目指す三舎法が実施
 既得の利益が犯される
 改革の理念が違うとか
 王安石の新法は
 内外から強い反対があったが
 改革は長く堅持された
ーーーーー
 ・・・???・・・「原文=by ウィキペディア(Wikipedia)」・・・

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