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コジキジゲン

辰韓=しろぎ・しらぎ・シンラ・新羅=斯羅=秦

2024-05-07 14:24:49 | 古事記字源
 辰韓=しろぎ・しらぎ・シンラ・新羅=斯羅=秦・・・
    シンカン=震撼・新患・新刊・神官・信管
ー↓↑ーー

 統一新羅
 朝鮮半島
 中 南部・・・南(みなみ・ナン)・・・何・難・納
 ↓↑ ↓↑
   南無阿弥陀仏
   南には無し
   阿の彌(弓の爾)の
   陀(邑の它・拿)の
   佛=イ+弗=仏=イ+ム(私・己・よこしま)
   弗=助字・動作や状態の否定
   「~しない・~でない」
   不 と同義
   フツ・ヒツ
   もとる・はらう・あらず
ねじる
おさめる、はらう、きよめる。
のぞく、さる、とる。
怫(ふつ)と通じ、うれえる。
仏と通じ、ほのか、にかよう。
不・勿と通じ、ず、あらず、なし。
弼(ひつ)と通じ、たすける。
古辞書の訓
   名義抄
   弗=セズ・マジ・ザル・アラズ
     モトル・タガフ・タチマチ・ヲサム
   字鏡集
   弗=ヲサム・タチマチ・モトル・アラハス
     タガフ・ナシ・シム・ハシ・セズ
   声音
   弗=声
     費・佛(仏)・髴・・怫・沸
     など二十字
     「ふつ」は「もつれる(縺れる)」の意
     内から外にあらわれ出る感情や力
     ほのかな状態のものをいう形況の語
     「非・弗」の意をもつ否定詞
     「非・勿・無・(亡)・・(微)・蔑」
     などを用いるが
     本来の否定詞というべきものはない
     屍骨、暮夜
     蔑(ベツ)は
     媚(巫女)を殺して
     その呪力を微(な)くする形
     否定的な意味の語
     弗(弓+丿+丨⇔S+‖)も
     束ねて、もとらす=もたらす?
              持ち込む・特定の状態を 引き起こす
              生じさせる 意
     縦の木二三本(‖・卅)をつかね
     縄でまきつけた形
     曲直のあるものを強くたばねること
     〔説文〕「(もと)るなり」
     省文に従って「丿(へつ)・(ふつ)」する意
     字は枝をまげて強くたばねるので
     「払戻(フツレイ)」の意
     拂(払)の初文
     〔詩、大雅、生民〕
     「以て子無きを弗(はら)ふ」は「祓去」の意
     「不・勿(フツ)」などと同じく否定詞に用いる仮借
     「乃(そ)の司事を虔(ケンジュツ)
      せ弗(ず)んば
       不(あら)ず」
     「休命に對揚せ不(ず)んば
            弗(あら)ず」・・・「S+Ⅱ」?
 ↓↑   ↓↑
  弓=S
    S=ラテン文字(アルファベット)の19番目の文字
    ギリシャ文字の
    「Σ(シグマ)」に由来し
    キリル文字の
    「С」と同系の文字・・・???
    左半円の下に右半円を重ねた形=⊂+⊃=S
    Σ(シグマ)の小文字語末形「 ς⇔S」
    過去に、「長いs」と呼ばれる
     「ſ(f )」に似ているが
    横棒がある場合右に突き出さない
    が用いられた
    フラクトゥール大文字は
    「𝑆」
    他の書体の
    「G」とよく似ている
    小文字は
    「𝑠」
    であるが語尾にしか使われず
    語頭・語中には長い「s(ſ)」が常用される
    「S」の呼称
    拉・独・仏・英・蘭・葡・羅・尼
    スラヴ語:「エス」
    西   :「 ese(エセ)」・・・似非
    伊   :「 esse(エッセ)」
    洪:エシュ=ɛʃ=エス:ソー
    音価・S(無声歯茎摩擦音)
    西欧の多くの言語で
    母音・有声子音に挟まれた単独のsを
    有声の「z」で読む
    英語
    単語によってはどちらで読んでもいいもの
    意味により変化するもの
    黙字となるものがある
    単語によっては
    「/z/」を表すsを
          zで書き換えることができる
    ハンガリー語
    「/ʃ/」をあらわす「sz」 を用いる。
    朝鮮語のローマ字表記
    初声の「ㅅ」に用いる・「ㅆ=ss」
    sh(英語)は/ʃ/、
    sch(ドイツ語)も/ʃ/
    tsch(ドイツ語)は/tʃ/
    Sの意味
    「宇田川榕菴」が著した
    「舎密開宗」の化学実験図で
    実験に用いる器具(管部分)を
    「S字様管」と記録
    単位・数学記号
    S=面積
    対称代数
    秒 (second)
    ジーメンス (siemens)
    生化学
    沈降係数を表す単位
    スヴェドベリ(テオドール・スヴェドベリ)
    対称操作=回映操作の表現記号
    具体的な使用例は分子対称性を参照。
    自然科学
    硫黄=Sの元素記号
    有機化学で光学異性体の一つ=S体
    電界効果トランジスタ (FET) の端子=ソース (Source)
    熱力学
    S=エントロピー
    コンピュータ言語→S言語
    二十八を意味する数字
    三十六進法など
    二十九進法以上
    において
    二十八(十進法の28)を
    一桁で表すために用いられる
    アルファベットの I と O を用いず
    J =十八、K =十九
    N =二十二
    P =二十三
    S =二十六を意味する・・・
    文学・風俗
    主語 (subject) =S
    南 (south)=S
    磁極=S極
    昭和略記=S
    洋服などのサイズの小さめ (small)=Ssize
    劇場や競技場、業績などの順位で
    特別 (Special)
    優良 (Superior)
    Aよりも上で希少性の強い最上位
    S級、S席
    Sよりも上の順位=SS・SSS
    テレビ番組表でステレオ放送=四角囲みS記号
    女学生同士の同性愛=「sister」=S
    将棋の銀将 (Silver) の略号=S
    スキン(コンドーム)の隠語=S
    シエラの略記=S・・・?
    スピード(覚醒剤)の隠語=S
    スパイ(spy)=S
    サディズム(サディスト)の略=S
    特殊作戦群の愛称=S
    文末に置かれる「s」=皮肉記号・・・
 ↓↑   ↓↑
   飢 者 弗 食 、 勞 者 弗 息
   飢える者は食べるものも無く
   働く者は息することも出来ない
   『孟子』梁惠王 章句下
 ↓↑    ↓↑
仏=佛・・・・弗
   南無阿弥陀佛・南無阿彌陀佛・南无阿弥陀佛
   浄土教
   阿弥陀仏=称える者を 浄土 に 往生 せしめる= 本願
   衆生の積むべき
   往生行の
   功徳のすべてを
   代って完成させる呪文
   これを名号
   「南無阿弥陀仏」に収めて
   衆生に 回向
   善導=「南無」+「阿弥陀仏」
   六字に関する釈義
   阿弥陀仏への帰依への文句
   ・・・波蛙見拿部通・・・?
   「南無」=ナモー(namo)の音写語
   「礼拝・おじぎ(お辞儀)・あいさつ(挨拶)」の意の
   「ナマス(namas)」の連声による変化形・・・
   「礼拝」から転じて
   「帰依(śaraṇagamana)」を表明する意味に用いられ
   「わたくしは帰依します」と解釈・・・
   「阿弥陀」
   二つの仏名
   「アミターバ(無量の光明, amitābha)」
   「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)」
   に共通する
   「アミタ(無量・amita-)のみを音写したもの・・・?
   「南無阿弥陀仏」とは
   「はかりしれない光明、はかりしれない寿命」
   の
   「阿弥陀仏に帰依いたします」
   という意味・・・???
   発音
   『一遍聖絵』には
   「なもあみたふ」・・・名模蛙見他譜?
   と表記
   鎌倉時代には
   「なもあみだぶ」・・・ナもアミだ部・・・
   と発音・・・
   西本願寺に伝わる
   親鸞の直筆に
   「南无阿彌陀佛」・・・「无=無」と同義だがmoの発音
   天台宗
   「なもあびたふ」と称える
   「なむあみだぶつ」と唱える場合も
   浄土真宗本願寺派
   「なもあみだぶつ」
   真宗大谷派
   「なむあみだぶつ」
   と発音する・・・
   称名念仏としての称え
   「なんまんだぶつ」「なんまんだぶ」
   「なんまんだー」「なんまいだー」
   とも発音
 ↓↑    ↓↑
 ・・・また、ヨコシマな寄り道で「シラギ」がトンだ・・・
 ↓↑
 統一新羅
 朝鮮半島
 中南部
 以南の統一
 ↓↑
 文武王
 ↓↑・・・文武天皇=珂留=かる=軽
     軽=孝徳天皇
     皇極天皇(斉明天皇)の同母弟
     元号 大化
     ・・・大=一+人=壹(壹與)の人は
        化=イ+匕(匕首・牝・雌・女・召・聘)
        ↓↑
        白雉・・・白記事?
        はくち=白地・泊地
        『白痴(ハクチ・Идиот )』
        フョードル・ドストエフスキー
        の長編小説
        善人=ムイシュキン公爵=白痴
 ↓↑      悪人=プウチン=黒痴=国恥
 神文王(在位:681年~692年)・・・新聞応・新文謳?
 の時代には
 官僚機構の整備
 拡大した領土の
 統合体制の構築
 文武王は
 679年
 首都 月城(つきしろ・ゲツキ・ガッキ=月忌・楽器)
    月=肉(ジク=字句?) 
 の王宮を修築
 付近に築いた
 苑地(月池の「雁鴨=かりかも」池?)
 に
 東宮を建造した(臨海殿)・・・臨海伝⇔勝海舟=咸臨丸
 王宮周辺には
 坊里制がしかれ
 方形の区画で区切って
 上流階級の
 邸宅・寺院・・・綴他句・字音?
 が建設・・・・・建(たける)の設定(もうける)
 官僚機構の整備
 神文王代までに
 上級の
 13の官庁と・・・壹拾参歳⇔「壹與=卑弥呼の宗女」
 下部機構からなる
 行政機構が整え・・・行正記考
 682年
 官吏の・・・管理・監理・甘利・柬理
 養成機関・・・要請期間(記間・紀間・基幹
             季刊・既刊)
 として
 国学が創設
 ↓↑
 統合された領土は
 全体で9つの州(九州)に区分
 それぞれの州は
 州・郡・県
 に分け地方統治体制が整備
 王都
 慶州が・・・慶喜(徳川)・慶応
 地理的に・・・知理・地利・塵・・・埃及
              芥  エジプト
 偏った位置
 となったため
 五小京(北原京〈原州〉)
 中原京〈忠州〉
 西原京〈清州〉
 南原京〈南原〉
 金官京〈金海〉
 が置かれた
 九州の州治
 五小京の一部は
 王都と同じく
 碁盤目状の・・・規範の目状?
 都市整備が行われた
 軍制の整備
 九誓幢(9つの軍団)
 ↓↑・・・求青銅(声同・精銅)
      和銅五年
      和銅(ニギアカガネ)・・・邇-邇藝阿賀兼?
      1月   太安万侶、「古事記」完成、撰上
      9月28日 出羽国を建てる
      ↓↑
      6年
      4月3日  丹後国・美作国・大隅国を建てる
      5月   諸国に風土記の編纂
        国・郡・郷名に好字使用
      ↓↑
      7年
      6月25日 首皇子、立太子
      ↓↑
      8年
      9月   元明天皇譲位
 ↓↑ ↓↑       氷高内親王が即位(元正天皇)
 ↓↑ ↓↑       氷=冫=冰=仌=𣲝=こおり・ひ・ヒョウ
   幢=トウ ・ ドウ・はた(旗)
     はたぼこ(旗戈)・軍旗
     黄幢=帯方郡吏
       「張政」
       247年(魏暦 正始八年)
       ⇔邪馬台国(卑弥呼)
         VS
        狗奴国(卑弥弓呼・卑弥弓呼-素)
   倭国
   57年 後漢の都洛陽に遣使
      委奴国王が
      「漢委奴国王印」を贈られた
   107年 倭面土国王 帥升等
       後漢に遣使
       70〜80年
       倭国内で大乱発生
       女子を王に共立=卑弥呼
      『三国志・魏書 卷三十 東夷伝 倭人』(魏志倭人伝)
      「其國 本亦以男子爲王
       住 七八十年 倭國亂
         相攻伐歴年
        乃 共立一女子 爲王
          名曰 卑彌呼
          事  鬼道 能 惑衆
          年  已 長大 無夫婿」
      『後漢書・卷八十五 東夷列傳第七十五』
      「桓 靈閒(桓帝・霊帝の治世146年~189年)
       倭國大亂
       更 相攻伐 歴年 無主
       有一女子
       名 曰 卑彌呼
       年長 不嫁
          事 鬼神道
          能 以妖 惑 衆
          於是 共立 爲王」
      『梁書・卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭』
      「(後)漢
       靈帝
       光和中(178〜184年)
       倭國亂
       相攻伐 歷年
       乃 共立 一女子
       卑彌呼 爲 王」
      『隋書・卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 俀國』
      『北史・卷九十四 列傳第八十二   倭國』
    ↓↑
     黄巾の乱(コウキンのラン)
     黄巾之乱=黃巾之亂
     後漢末期
    ↓↑
     184年(中平元年)・・・倭国 大乱 七八十年
    ↓↑       靈帝 光和中(178〜184年)
     中国、
     「蒼天 已死 黄天當立 歳在 甲子 天下大吉」
     のスローガンを掲げた
     「太平道」の教祖
     「張角」を指導者とした
     配下の兄弟や同調者
     「張宝・張梁・張曼成・波才」
     らが指揮した農民反乱
     「黄巾軍」残党は広範な地域に
     跋扈し、反乱、山賊、盗賊行為
     「楊奉・韓暹(カンセン)」
       ・・・暹=日の出や太陽がのぼる意
         シャムロ=暹羅=シャム(タイ・)の 古称
          暹国と羅国が合体して一国を形成
         暹が吸収し
         「暹羅」=シャム(泰国)
         シャム猫=シャムネコ=暹羅猫
              タイ(泰国)王国原産で「短毛種の猫」
              「戦場にかける橋
              (The Bridge on The River Kwai)」 
              川の旧来の名称=メークロン川
              映画によって「クワイ川」が著名となり
              「クウェー・ヤイ川」と改名
              「クウェー川鉄橋」
              『クワイ河マーチ=ボギー大佐の編曲』
             https://www.youtube.com/watch?v=k0SRh0tR0NU

     に率いられ
     白波谷に拠った残党は
     「白波賊」
     と称され
     献帝・・・献帝(獻帝・ケンテイ)
     ↓↑    後漢第十四代(最後)の皇帝
          諱 協
          霊帝の次男
          少帝 劉辯の異母弟
          母 美人(側室)の王栄
          諡号
          魏 から 孝献皇帝
          蜀漢から 孝愍皇帝
     ↓↑
     献帝
     の洛陽帰還の際に後漢に帰順
     皇帝奪還を目論む
     「李傕・郭汜」らと交戦し
     後に盗賊のことを
     「白波」と称する・・・「白波五人(誤認)男」?
 ↓↑
 九誓幢(9つの軍団)
 が首都に設置され
 新羅人の軍団が3つ
 高句麗人の軍団が3つ
 百済人の軍団が2つ
 靺鞨人の軍団が1つ
 からなる
 歩騎混成軍
 別に各地に
 十停とよばれる
 騎兵軍が設置
 ↓↑
 地方の田地を
 国家が
 直接支配することを目指し
 旧来の
 食邑(貴族や豪族が支配土地)
 の縮小が進められ
 689年
 禄邑(下級官僚の共同所有地)
 の廃止が行われた
 食邑に変わって
 職田(畑)が与えられ
 禄邑にかわって
 祖米を支給することとされた
 新羅の律令制の整備は
 食邑や禄邑の廃止は強い抵抗にあった・・・
 ↓↑
 景徳王(在位:742年~前765年)
 唐との外交関係も安定
 唐の制度・文化を積極的に移入
 地名を唐式に改め
 官庁・官名も唐式に改名
 仏国寺や石仏寺などの仏教寺院が建立
 当時作られた石仏などは
 新羅仏教文化の代表
 ↓↑
 社会の変容
 王権の弱体
 恵恭王(在位:765年~780年)
 767年
 大恭・大廉
 兄弟の大規模な反乱
 政治的混乱の中で
 恵恭王
 776年正月
 教書を出し
 律令体制を強固に推進した
 景徳王が唐風に改名した
 百官の名称を
 旧来のものに戻した
 ↓↑
 780年
 恵恭王
 は
 王妃とともに殺害
 以降
 反乱と簒奪が常態化
 『三国史記』
 恵恭王殺害以降の衰退の時代を
 「下代」と呼ぶ
 恵恭王に代わって王位に就いた
 「宣徳王」
 782年閏正月
 唐に朝貢
 勢力を強めている渤海に備え
 北方面の守備に努め
 781年7月
 浿江(大同江)
 以南の地に使者を送って安撫
 782年2月
 漢山州(京畿道広州市)の住民を
 浿江鎮(黄海北道平山郡または金川郡)
 へ移住させた
 在位6年目
 785年正月
 唐の
 徳宗から
 検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王
 に冊封されたが
 病に倒れ正月13日に死去
 ↓↑
 元聖王(785年2月)
 自祖先への追封
 五廟を再整備
 788年
 官吏登用制度
 科挙に類似する
 「読書三品」を定めた
 儒教的・律令体制的な政策
 天災により民が餓えることがあったが
 律令体制の下で貢納された租粟を
 振舞って民の救済を行った
 「恵恭王」
 788年秋
 西部で盗賊
 791年
 元の侍中の
 「悌恭」
 が反乱し誅殺
 ↓↑
 唐に対して
 786年
 使者を派遣して貢納
 徳宗からは
 新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書を得た
 宣徳王に与えられた
 官爵
 〈検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王〉
 をそのまま引き継いだ
 ↓↑
 哀荘王
 海印寺
 第40代
 哀荘王の時代(在位 : 800年~809年)
 801年10月
 「耽羅国(済州島)」・・・「耽羅=とら」?
 からの朝貢
 「耽羅国」
 文武王十九年(679年)
 新羅に隷属
 後に独立
 802年
 順応・利貞
 らの高僧に命じて
 「伽耶山」
 に
 海印寺(慶尚南道陜川郡伽耶面)
 を創建
 ↓↑
 803年
 日本とも国交が再開
 『三国史記』
 新羅本紀
 「哀荘王」の四年(803年)七月
 五年(804年)五月
 「日本から黄金三百両が進上された」
 七年(806年)三月
 「日本からの使者を朝元殿で引見した」
 九年(808年)二月
 「日本国の使者を厚くもてなした」
 『日本後紀』
 延暦二十三年(804年)九月己丑条
 「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」
 805年
 唐
 「順宗」が即位
 先王の
 「昭聖王」への哀悼の使者が送られ
 「哀荘王」も新たに冊封
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・鶏林州刺史・兼持節充寧海軍使
 上柱国・新羅王
 へと官爵を進められた
 唐には朝貢及び、冊命の謝恩使の派遣
 ↓↑
 809年7月
 摂政の
 「金彦昇(憲徳王)」
 が
 「伊飡(2等官)」の
 「悌邕(テイヨウ)」
 とともに反乱
 「哀荘王」
 は弟の
 「体明侍衛」とともに殺害された
 『三国遺事』王暦
 元和四年(809年)七月十九日
 王の叔父の
 憲徳・興徳
 の2人によって殺害された
 ↓↑ 
 「憲徳王」
 は即位後ただちに唐に使者を派遣
 先代の哀荘王の死を伝え
 唐の憲宗からは
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使
 上柱国・新羅王
 に冊封
 810年10月
 王子
 「金憲章」
 を送って金銀製の仏像などを献上し
 定期的に朝貢
 819年7月
 唐の鄆州(山東省済寧市)
 「李師道」
 が反乱
 兵馬を徴発する
 憲宗の詔勅に応えて
 将軍
 「金雄元」
 ら3万の援軍兵を派遣
 ↓↑
 812年9月
 渤海へも使者を派遣
 宣王
 「大仁秀」
 が即位
 826年7月
 漢山州(京畿道広州市)
 以北の州・郡から1万人を徴発し
 浿江(大同江)沿いに
 300里の長城を築いて
 渤海の南下を食い止める備えとした
 ↓↑
 度々災害が起こって
 民が餓える事態が発生
 租を免じたり
 穀倉を開いたが
 816年
 浙江省東部へ流入した民が
 170人にものぼった
 ↓↑
 819年3月
 各地の賊徒がいっせいに蜂起
 諸州の都督や太守に命じて鎮圧
 ↓↑
 金憲昌
 梵文
 の反乱
 822年3月
 武珍州(全羅南道、光州広域市)
 菁州(慶尚南道晋州市)
 熊川州(忠清南道公州市)
 の都督職を歴任した
 「金憲昌」
 が反乱
 熊津(公州市)を都として
 「長安国」と号する
 支配領域は
 武珍州・菁州・熊川州
 完山州(全羅北道全州市)
 沙伐州(慶尚北道尚州市)
 の五州
 及び
 国原(忠清北道忠州市)
 西原(忠清北道清州市)
 金官(慶尚南道金海市)
 の三小京に及んだように
 旧百済の領域を中心として
 国土の大半が
 「金憲昌」
 を支持し、王権に対抗
 「金憲昌」
 の反乱は1ヶ月ほどで鎮圧
 乱の鎮圧に活躍した討伐軍は
 貴族の私兵と花郎集団であり
 律令体制の下での
 兵制は有名無実化
 ↓↑
 825年1月
 「金憲昌」の子の
 「金梵文」
 が高達山(京畿道驪州郡)
 を根拠として反乱
 北漢山州(京畿道広州市)
 の都督によって鎮圧された
 826年10月
 「憲徳王」死去
 ↓↑
 第42代
 「興徳王」
 唐の文宗からは
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・新羅王
 に冊封されて以降
 唐への朝貢を続けて文物の招来に努め
 827年
 旧高句麗系の僧の
 「丘徳」
 は経典を唐より持ち帰った
 828年
 帰国した
 「金大廉」
 が茶を持ち帰り
 新羅での喫茶が盛んになった
 827年
 漢山州
 (京畿道広州市)瓢川県から
 速富の術(すぐに富貴になれる方法)
 という信仰が流行
 教祖を遠島へ流刑
 ↓↑
 832年
 春夏の旱魃
 7月の大雨で凶作
 餓えた民衆が盗賊となって蜂起
 10月には各地に使者を派遣して慰撫
 833年
 凶作で民が飢餓、流行病で多くの死者
 834年10月
 王自らが巡幸
 834年
 身分の上下に応じて
 色服・車騎・器物・家屋
 などの区別を厳然とさせて
 違反者には刑罰を用いるとする教書を発布
 奢侈を禁じる
 王都の住民に対する身分序列を明確化
 この教書の中で規定された身分序列は
 「真骨・六頭品・五頭品・四頭品
  平人のそれぞれ男女」
 7世紀中葉に成立していた王族を中心とする
 身分序列で
 「骨制度」(聖骨・真骨)に対して
 「頭品制度」とされる
 骨制度・頭品制度をあわせて
 新羅の骨品制度
 ↓↑
 838年3月
 「張保皐の乱」・・・張(は)って保(たも)つ皐(さつき)
 「張保皐」
 のもとに集結した
 「金祐徴」
 らの一派は軍事活動を起こし
 「祐徴」派の
 「金陽」が
 武州(光州広域市)を下し
 南原小京(全羅北道南原市)を陥落させ
 12月
 「金陽」が
 武州
 鉄冶県(全羅南道羅州市)まで軍を進めたが
 新羅王
 「閔哀王」
 は
 「金敏周」
 を派遣して迎撃したが
 「金陽」軍に壊滅させられた
 ↓↑
 839年1月19日・・・干支 己未
          ・・・おのれ・よこしま
              未(いまだ)来(こぬ)
       日本 承和 六年
             八月
             遣唐使
             藤原常嗣ら
             大宰府に帰着
       皇紀   1499年
            14・99
            1+4+9+9=5+18
                5+1+8=5
       皇紀 太陽暦採用と共に
            1873年施行
     中国 唐 開成 四年
       渤海 咸和 九年
       南詔 保和十六年
     朝鮮
       新羅 閔哀王二年
          神武王元年・・・神武?
          文聖王元年
 「金陽軍」が
 達伐(大邱広域市)にまで及び
 王は
 禁軍を用いて防戦にしたが
 兵の半数以上が戦死
 王の側近は皆逃亡し
 王は殺害された・・・
 「祐徴」
 は王の儀礼を以て
 「閔哀王」の屍を埋葬
 古礼に則って即位式を執り行い
 王位を継承し
 「神武王」・・・「神武」って、ダレだっけ?
 として即位したが
 病で同年死亡
 その子
 「文聖王」
 は、
 「張保皐」に官位を与えるが
 「張保皐」は不満を持ち
 846年
 清海鎮(全羅南道莞島)
 で反乱を起こしたが
 王軍は
 「張保皐」を暗殺・・・
 ↓↑
 862年7月
 第48代
 「景文王」
 唐へ使者を派遣して土産物を貢納
 864年4月
 日本からも
 国使を迎えた・・・
 日本側史書には対応する記事はない
 865年4月
 「懿宗」
 開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督
 鶏林州諸軍事・上柱国・新羅王
 に冊封
 869年7月
 王子の
 「金胤」
 らを唐に派遣
 馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉
 870年2月
 「沙飡(8等官)」の
 「金因」
 を唐に宿衛させ
 874年
 「僖宗」
 からの
 「宣諭使」・・・宣教師?
 を受け、唐との交流は盛んになった
 866年10月
 「伊飡(2等官)」の
 「允興」
 がその弟の
 「叔興・季興」
 とともに反逆を謀ったが
 事前に発覚し
 「允興」
 らは
 岱山郡(慶尚北道星州郡)に逃走したが
 捕縛されて斬刑、一族は誅滅
 867年5月
 王都金城(慶尚北道慶州市)
 で疫病流行
 8月
 洪水
 地方各地で不作
 王は各地へ安撫の使者を派遣、慰問
 868年1月
 「伊飡」の
 「金鋭・金鉉」
 らが反乱し誅殺された
 870年
 王都が地震・洪水
 冬には再び疫病流行
 873年
 飢餓と疫病
 王は民に穀物を与えて救済
 政情は不安定
 874年5月
 「伊飡」の
 「近宗」
 が反乱し宮中まで至り
 王は近衛兵を派遣して撃破
 逃れた
 「近宗」一味を捕らえて車裂きの刑
 875年7月8日
 「景文王」死去
 876年7月
 憲康王
 (在位 : 875年~886年)
 唐へ朝貢
 878年4月
 「僖宗」
 から冊封
 7月
 「黄巣の乱」
 の起こり使者の派遣中止
 885年10月
 「黄巣の乱」の鎮圧平定
 唐に祝賀する使者を派遣
 878年8月
 日本からの使者を朝元殿で引見
 882年4月
 日本国王が
 黄金300両と明珠10個とを
 進上する使者を派遣してきた
 『三国史記』新羅本紀
 日本側の史料には対応する記事は無い・・・
 ↓↑
 869年
 新羅の海賊船が
 博多を襲って以来
 新羅と日本との間には緊張関係
 「新羅の入寇」
 『日本三代実録』元慶四年(880年)条
 新羅の賊が侵入で
 日本海沿岸の諸国は厳重な警戒態勢
 『三国史記』新羅本紀
 「憲康王」時代
 879年6月
 「一吉飡(7等官)」の
 「信弘」
 が反乱し誅殺
 ↓↑
 新羅下代唯一の女王
 「真聖女王」
 「三国史記」
 もと
 「角干(官位)」の
 「魏弘」・・・魏=委(任された)鬼(おに・キ)
        弘=弓のム(よこしま)
 と通じ
 即位後、入内させて用いていた
 「魏弘」
 が卒して後
 少年美丈夫、2〜3名を
 密かに引き入れて姦淫
 彼らに
 要職を授けて国政を委ねた
 綱紀は弛緩
 女王の治世には国内で反乱が続発
 後三国時代の幕開け
 治世十一年・・・壹拾壱の念(今の心)
 897年
 女王は
 「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」
 と宣言し
 「太子」に譲位
 12月
 金城(慶州)の北宮で死去
 ↓↑
 後三国時代
「後百済・後高句麗」
 892年
 農民出身の
 「甄萱」
 が南西部に
 「後百済」を
 901年
 新羅王族の
 「弓裔」
 が北部に
 「後高句麗」を建て
 「後三国時代」に入る
 新羅の
 「孝恭王」
 は、酒色におぼれ
 新羅は滅亡の道へ・・・
ーー↓↑ーー
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春のトンボ・・・蜻蛉・・・

2024-05-07 10:58:11 | 古事記字源
 ヒマジンの終日・・・「suno」さんとアソンだ・・・

 一夜のコイも叶わず・・・銃弾に落下する・・・ロシアントンボかな
 ↓↑
 蜻蛉=かげろう=とんぼ=蜻蛉=dragonfly
   =あきつ・かげろう・だんぶり
    「蜻=セイ・ショウ」
    「蛉=レイ・リョウ」
    トンボ
    多色印刷で
    刷り合わせを正確にするため
    版面につける見当合わせ用の
    十字形の印
   「筋斗=トンボ」・・・筋(キン・すじ)=竹+月(肉)+力
              斗(ト・ツ・はかる)=冫+十(拾)
 ↓↑

    極楽蜻蛉=ゴクラクとんぼ=語句等句頓慕
    蜻=虫+靑
      虫+青
      虫+龶+円
      虫+龶+月
      中+ム+龶+肉
 ↓↑  ↓↑
    蛉=虫+令
      虫+亼+龴
      虫+亽+龴
      虫+人+一+龴
      虫+人+丶+了
      中+ム+𠆢+了
    「蜻蛉(セイレイ)」は「とんぼ」
    「螟蛉(メイレイ)」は「あおむし」

 ↓↑
https://suno.com/song/7dcad750-f67c-41f3-978c-ee4692339948
揺らぐ炎の影 by @kiripin723 | Suno

揺らぐ炎の影 by @kiripin723 | Suno

dark country song. Listen and make your own with Suno.

 

 ↓↑
https://suno.com/song/91fcf6ec-8449-4e01-8ba7-19cf2c26f641
揺らぐ炎の影 by @kiripin723 | Suno

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dark country song. Listen and make your own with Suno.

 

 ↓↑
 揺らぐ炎の影

 プロフィール
 キリヤ723

 暗い国

 [詩]
 空にかげろうが ゆらゆらと
 ゆれてます 一夜の恋の悲しさに
 身をふるわせて 明日をも知れぬ
 さだめならば 命をかけて

 [2節]
 燃えつきれ この時に
 愛の炎は 高く舞い上がる
 街の灯りも 光り輝く
 二人の間にだけ 痛みが広がる

 [コーラス]
 夜の影 闇に舞い踊る
 愛の歌を 心に響かせて
 夜の影 悲しみに包まれて
 ただ一度だけの 一夜の恋
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「高=髙」のカンジ名のクニから・・・高緯度って北・・・

2024-05-07 01:25:37 | 古事記字源
 前回の「辰のオトしゴ」のツヅキ・・・
 先ずは「高=髙」のカンジ名のクニから・・・

ーー↓↑ーー
 新羅の初出記事
 『資治通鑑』巻104・・・・指示
 太元二(377年)年条・・・太の元に似(爾・邇)?
    太安万(萬)侶
 ↓↑
 高句麗と・・・高(たかい)=亠+口+冋
        句(ク・コウ)=勹+口
        麗(うるわしい・うららか・うらら)
         =䴡=婯=丽
          一+冂+丶+鹿
          一+冂+丶+一+冂+丶+广+コ+‖+比
        高麗
    単なる「高=髙」の漢字の羅列だが・・・
        ↓↑
        高天原
        ↓↑
        高皇産霊尊
        高木神
        高木大神
        神王高御魂命
        高魂命
        高御魂尊
        高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
        高御牟須比乃命
        高皇産霊尊
      天照高彌牟須比命
        ↓↑
        高木神之命
          ・・・高木岬・南極地名
             高木兼寛・ヴァイタミン発見
             明治海軍医官・慈恵医大 
             海軍軍医総監・脚気病対策
        ↓↑
        高橋虫麻呂 
          ・・・高橋景保・天文・書籍
             伊能忠敬・日本地図
        ↓↑
        高天原廣野姫天皇
        持統天皇
        大倭根子天之廣野日女尊
            諱 鸕野讚良
        ↓↑
        日本根子
        高瑞浄足姫天皇
            元正天皇
            諱 氷高・日高・新家
        ↓↑
        高野姫・第四六代天皇(在位749~758)
            阿倍
            高野姫尊
            高野天皇
            宝字称徳孝謙皇帝
            倭根子(ねこ)天皇
         孝謙天皇・穪(称)称徳天皇
        ↓↑
        高野山
          ・・・高野長英・瑞皐
        高知県
       日高国
        ↓↑
        高島易断
        高島 嘉右衛門(たかしま かえもん)
        1832年11月22日(天保三年十一月一日)
        ~
        1914年(大正三年)10月16日)
           大運1907年12月(75歳)己未・偏官
       壬辰(乙癸戊)劫財・正官 養⇔甲寅・傷官
       辛亥(戊甲壬)偏印・劫財帝旺⇔甲戌・傷官
        三合乙・食神
       癸卯(甲 乙)  ・食神長生⇔乙亥・食神
       癸丑(癸辛己)比肩・偏官冠帯⇔丁丑・偏財
        辰巳空亡
     ?・・龍蛇の空がムナしい・・・

 ↓↑
 高句麗と
 ともに
 前秦に朝貢した記事
 考古学的には
 積石木槨墳
 墓制の登場をもって
 新羅の成立・・・
 円墳
 複数の円墳が複合した
 双円墳
 集合墳の形態
 新羅が「成立」した4世紀頃
 おおよそ
 洛東江を境にして
 東側は新羅
 西側は伽耶
 異なる政治的・文化的な領域・・・
 ↓↑
 周辺諸国と新羅
 377年
 前秦への遣使が
 高句麗と共同で
 (高句麗の影響下で)行われた
 初期の新羅は
 高句麗に対し相当程度
 従属的な地位
 382年
 新羅は再度単独で
 前秦への遣使を行ったが
 高句麗の承認の下だった・・・
 新羅は建国初期から
 ↓↑
 「倭人の脅威」
 にも晒されていた
 ↓↑
 4世紀末~5世紀
 『三国史記』
 「中原高句麗碑」
 などの発掘史料
  ↓↑
 「広開土王碑」
  ・・・好太王碑・・・
    「好=女+子」
    「太=一+人+丶」・・・
       初めの人のテン(氐務)?
    「好太王」の業績(広開土=領土拡大確保)
     を称えるため
     子の
    「長寿王」が設置
     碑文
    「甲寅年九月廿九日乙酉」
    (西暦414年10月28日)
     ↓↑
     甲寅(戊丙甲)劫財・劫財帝旺
     甲戌(辛丁戊)劫財・正財 墓
     乙酉(庚 辛)  ・偏官 絶
     丁丑(癸辛己)食神・偏財 衰
     に建設
     ↓↑
     1880年(光緒六年)
     清国集安の農民が発見
     その翌年に
    「関月山」によって
     拓本作成・・・
     ↓↑
    「百殘=百済」と刻字
    「王」の刻字は
     高句麗王に限定
    「主」は
     百済王
    「百済王=殘主」(2回)
    「百済=百殘」 (3回)
    「殘国」    (1回)
    「殘」     (1回)
     などと刻字
    「倭=倭賊」  (1回)
    「倭寇」    (2回)
     殘=残
     殘=歹+戔
       一+夕+戈+戈
       ザン
       のこる・のこす
       あまる・あまり
       そこなう・きずつける
       いためつける・ほろぼす
       むごい・むごたらしい・ひどい
       残酷
    ↓↑
    百済と高句麗の激闘
    百済は高句麗王
   「斯由」を戦死させ
    372年
    東晋から
    鎮東将軍・領楽浪太守の地位を与えられた
    高句麗領の
   「楽浪」を支配する名目的な地位を獲得
    倭=任那の
    倭軍と同盟
   「好太王」の主要な敵は「倭」・・・
    繰り返し倭軍への攻撃
    百済の要請に応じて
    倭が
    平壌近くまで出兵
    高句麗はその倭軍と戦った
    百済の救援要請で
    倭の五王が
   「都督百済諸軍事
   (百済を軍事的に支配する権限)」
    好太王が
    新羅の要請を入れて
    倭軍と戦った記事
    倭の五王が称号に
    新羅における
   「軍事支配権(都督新羅諸軍事)」を主張
    新羅は高句麗の勢力を背景に
    倭の勢力を排除するが
    高句麗の勢力下に組み込まれ
    この高句麗を排除するため
    倭の軍事力に依存・・・
   「倭王」の新羅に対する
   「都督新羅諸軍事」の主張・・・
   「秦韓=斯韓=辰韓=新羅」
   「慕韓=馬韓=百済」・・・慕(した)う韓・・・
                ダレをシタウのか?
   新羅や百済の非支配下=弁韓=任那・加羅
              倭に依存
        「都督 秦韓・慕韓 諸軍事」
  「任那=弁韓=倭の支配下」
        「都督 任那 諸軍事」
         倭王の軍事支配権
         後
        「都督諸軍事」+「加羅」
        『南斉書』
        建元元年(479年)
        加羅国王が
        独自に南斉に朝貢
        「輔国将軍・加羅国王」
        に封冊
        「高霊加羅」
        のきを背景にした称号追加・・・
 ↓↑     ↓↑
  ・・・1906年
     白鳥庫吉
     と
     日本海軍
     が、好太王碑を日本へ搬出しようと計画
     好太王碑が
    「大なる故運搬の困難にして
     又
     字面損傷の恐ありし爲め、中止」・・・
     ↓↑
     高麗王朝代の
    『三国史記』に記録なし
    『日本書紀・古事記』にも記録なし
    『三国史記』には
     高句麗、百済、新羅
     のそれぞれの本紀に関連記事としてはある・・・
    「好太王碑」には
    「後燕」との関係記事が無い
     高句麗の敗北や屈辱的な服属は
     記述の対象外・・・
    『梁書』高句麗伝
    「後燕」の
    「慕容垂」の死後
     即位した
    「慕容宝」
    は
    「句驪王安(好太王)
     を以て
     平州牧と為し
     遼東・帯方二国王に封ず。
     安
     始めて
     長史・司馬・參軍官を置く」
    と記録
    「好太王碑」
    に太子が「世子」と記録
    「好太王」
    が
    「後燕」の封冊を受けていた・・・
    ↓↑
    碑の拓本を日本に招来したのは
    「酒匂景信」
    研究に着手したのは
    陸軍参謀本部・・・
    呼称
   「好太王碑=広開土王碑」
   「高句麗碑=高句麗古碑」
   「東扶餘永楽太王碑」
   「高句麗第十九世広開土王墓碑」
   などと呼称・・・同一物
   名の由来
   碑文のなかに
   4箇所にわたって
   「国岡上 広開土 境 平安 好太王」
   その名が記録
   『三国史記』に
   「広開土王」の名は記録
   ↓↑
   日本と拓本
   1884年(明治十七年)1月
   情報将校
   陸軍砲兵大尉
   「酒匂景信」
   が参謀本部に持ち帰った
   参謀本部の
   文官
   「青江秀」
   「横井忠直」
   が研究解読
   「倭の五王以前」
   の古代日本を知る史料とわかり
   漢文学者
   「川田甕江」
   「丸山作楽」
   「井上頼圀」
   らの考証を経て
   1888年(明治二十一年)末
   酒匂の名により
   拓本は宮内省へ献上された
 ↓↑
 など多くの史料
  ↓↑
 「広開土王碑」
 新羅を高句麗の属民とし
 大きな戦いを記録
 高句麗は古より
 百済を
 「属民」とし
 391年
 倭が
 百済、新羅を
 「臣民」としので
 高句麗は出兵し
 倭軍を撃退
 その戦いの中
 400年頃
 新羅の王都が
 倭軍に占領
 高句麗が
 新羅に出兵
 倭を撃退し
 「任那加羅」
 まで追った
 新羅が
 高句麗と倭の両方に
 王子
 「宝海(卜好)」
 と
 「美海(未斯欣)」
 を人質として送った
 「中原高句麗碑」
 高句麗が
 新羅領内で
 人夫を徴発
 碑文は
 高句麗王
 と
 新羅
 「寐錦(王)」
 の関係を兄弟に擬制し
 高句麗王を兄とした
 上下関係を表現・・・
 ↓↑
 450年
 新羅が
 高句麗の
 辺将を殺害
 高句麗が
 新羅征討を計画したが
 新羅が謝罪し
 一旦問題は収まったが
 ↓↑
 454年
 高句麗が
 新羅領に侵入
 翌年
 高句麗と百済の戦いで
 新羅は百済へ援軍を送り
 高句麗から
 自立していった
 ↓↑
 5世紀末頃
 慶州盆地の丘陵に
 月城=王城を築き
 この盆地に
 喙部、沙喙部、牟梁部
 本彼部、習比部、漢岐部
 6地域(新羅六部)があり
 自律的な政治集団を形成しつつ
 対外的には
 王京人として結束、連合体を形成
 喙部、沙喙部は突出
 ↓↑
 西暦500年
 「智証麻立干(在位500年~514年)」
 国号を正式に新羅とし
 王号を旧来の
 「麻立干」から「王」へと変更
 ↓↑
 503年
 『迎日冷水碑』
 で
 「智証(至都蘆=智証の異表記)」
 「葛文王」
 ↓↑
 524年
 『蔚珍鳳坪碑』
 「法興王(在位:514年~540年)」
 「寐錦王」
 と称している
 ↓↑
 「智証王」
 の跡を継いだ
 「法興王」
 は
 520年
 「律令」を発布
 独自の官位制を整えた
 140年ぶりに
 中国(南朝、梁)への遣使
 ↓↑
 522年
 「大伽耶(高霊)」・・・高霊=高麗?
 と婚姻
 ↓↑
 532年
 伽耶地方の
 金官国
 を降伏させて併呑
 ↓↑
 536年
 独自年号
 「建元」
 を制定
 ↓↑
 527年
 仏教を導入
 新羅における仏教の端緒を開いた
 「法を興す」
 という彼の名はこれにちなんでおり
 王は廃仏派の群臣たちと
 対峙して処刑された
 「異次頓」
 僧侶
 「阿道」
 とともに新羅仏教の三聖人に数えられている
 「法興王」
 『蔚珍鳳坪碑』
 犯罪者に杖刑を裁定する際の
 裁定者として
 「牟即智(法興)=寐錦王」
 「従夫智=葛文王」
 複数の「王」が併存する体制が継続
 ↓↑
 6世紀中頃
 急激な領域拡大
 真興王(在位:540年~576年)
 の時代
 新羅は高句麗と争い
 551年
 「小白山脈」を超えて
 高句麗の10郡を奪取
 ↓↑
 552年
 高句麗と百済の争いの中で
 漢城(ソウル)を手中に収め
 「新州」を置き
 朝鮮半島の西海岸に勢力を伸ばした
 漢城は元々百済の首都であったが
 475年
 高句麗によって奪われ
 新羅の行動は
 百済との関係悪化を招いた
 ↓↑
 553年
 百済の
 聖王が率いる軍勢を
 新羅軍が撃破
 聖王を戦死させ
 漢城周辺を確保
 ↓↑
 562年
 伽耶地方の
 大伽耶を滅ぼして占領
 洛東江下流域の
 伽耶諸国が
 新羅の支配下に入った
 王都では
 仏教の隆盛
 寺院建築
 仏教儀礼
 が盛んとなり
 「花郎」
 貴人の青年組織が制度化
 ↓↑
 564年
 北斉に朝貢
 翌年
 「使持節 東夷校尉 楽浪郡公」
 に冊立
 ↓↑
 568年
 南朝の
 陳にも朝貢
 南北両王朝との外交関係の構築は
 新羅が高句麗や百済と並んで
 東アジアの中で地位を確保
 新羅の拡張と中国王朝との関係構築は
 その両者によって挟まれる
 高句麗
 に脅威を与え
 570年
 初めて
 倭国に使者を送って
 外交関係の構築を模索
 ↓↑
 三国時代の終焉
 589年
 隋が中国統一
 中国の南北朝時代終焉
 高句麗と百済、遅れて新羅が
 隋に朝貢し
 隋を中心とした国際秩序が形成
 隋と国境を接する
 高句麗はその軍事的圧力を強く受け
 度重なる隋の侵攻を受けたが
 隋の高句麗遠征は失敗
 ↓↑
 隨王朝は倒れ
 618年
 唐が興った
 唐は当初三国の和解を促しつつ
 情勢の安定化を試みたが
 640年代
 隋代に失敗した
 高句麗への遠征を再び繰り返す
 ↓↑
 高句麗
 642年
 「淵蓋蘇文」
 がクーデター
 唐の侵攻に備えた
 ↓↑
 百済では
 「義慈王(在位:641年~660年)」
 即位し
 642年
 新羅に侵攻
 新羅は敗北を喫し
 伽耶地方を中心に
 40城余りを失い
 大耶城(慶尚南道陜川郡)
 失陥の際には
 城主が妻子もろとも殺害された
 この城主の妻は
 新羅の王族
 「金春秋」
 の娘であり
 新羅では一連の敗北を
 「大耶城の役」と呼び
 城主一家の死にこだわり続ける
 翌年には
 高句麗と百済が和睦
 倭国とも連携する動きも生じ
 新羅は孤立
 敗戦の後
 新羅の
 「善徳女王」
 「金春秋」
 そして
 旧金官国の王族
 「金庾信」
 が結束
 642年~676年
 朝鮮半島統一に帰着
 新羅は
 643年・・・645年(大化の改新・乙亥の変)
 唐に
 救援を求めたが得られず
 「善徳女王」
 を退けて唐の皇族を
 新羅王に据えることを要求され
 新羅国内では
 親唐派
 と
 反唐派の対立
 上大等の
 「毗曇」
 が女王の廃位を求めて反乱
 「善徳女王」
 が急死し
 「毗曇」の反乱は半月程度で鎮圧
  ↓↑
 「金春秋(武烈王)」
  が
 「真徳女王」
 を立てて唐との関係構築を模索
 「金春秋」
 は中国の律令制度を取り入れる改革を始め
 650年
 新羅独自で用いていた
 「年号・太和」・・・太和⇔大和・・・?
 を廃止
 唐の年号を用いるなど
 唐との連携を強めていった
 ↓↑
 655年
 高句麗と百済から攻撃を受け
 唐に救援と出兵を依頼
 ↓↑
 658年
 唐は高句麗遠征を行ったが
 隋と同じく度重なる失敗
 唐は
 高句麗征服するに
 まず
 百済を先に攻略することを決定
 ↓↑
 660年
 海路から百済を攻撃
 新羅もこれに呼応し
 百済に出兵
 百済将軍
 「堦白」を撃破
 百済の首都
 「泗沘」が唐によって攻略
 「熊津」
 も攻撃を受けて
 百済滅亡
 百済の遺臣は
 倭国や高句麗の支援を
 頼みに反乱を起こし
 倭国から
 派遣された援軍が
 663年
 「白村江の戦い」
 で大敗
 百済復興失敗
 唐は
 南北から高句麗を包囲し
 高句麗攻撃をしたが失敗
 666年
 高句麗の
 「淵蓋蘇文」
 死去
 息子たちの間で不和
 667年
 唐は
 高句麗遠征を開始
 新羅の
 「文武王(在位:661年~681年)」
 は唐に呼応して
 30人の将軍と共に
 高句麗に侵攻
 668年
 唐軍が高句麗の首都
 平壌を陥落させ
 高句麗滅亡
 唐軍は20万とされる捕虜を連れ帰り
 新羅軍も7000人の捕虜を得て
 王都へ帰還
 ↓↑
 唐
 一連の征服に伴い
 旧百済領 に熊津都督府
 旧高句麗領に安東都護府
 を設置して
 「羈縻州」
 として組み込み
 新羅
 「文武王」
 を
 「鶏林大都督」
 として朝鮮半島全域の支配を目論んだが
 新羅は
 高句麗最後の王
 「宝蔵王(在位:642年~668年)」
 の外孫とされる
 「安勝」
 を
 「高句麗王(報徳王)」
 に封じて庇護
 「高句麗の使者」を
 「倭国」に朝貢させ
 新羅の使者も
 帯同して
 高句麗使が
 「倭国」へ送られた・・・
 これは
 新羅が
 高句麗を
 保護下に置いていることを
 外交的に示威
 「報徳王」
 の冊立とともに
 新羅王権の正統性を内外に示し
 唐が設置した
 「安東都護府」
 に対抗
 新羅は旧百済領の一部を事実上併呑
 唐は百済故地に置いた
 「熊津都督府」
 の都督に旧百済王族の
 「扶余隆」
 を据え
 新羅王と会盟を行わせ
 制圧した城や遺民の返還を要求
 新羅は謝罪使を派遣
 朝鮮半島全体を
 「羈縻州」
 とする唐の論理を逆手にとって
 「百済と新羅は共に
  唐の羈縻州であり
  境界をわかつべきではない」
 と主張して正当化し
 670年
 軍事行動を起こして旧百済領に侵攻
 672年
 2度目の謝罪使を派遣
 侵攻と謝罪を繰り返しつつ勢力を扶植
 674年
 唐は新羅征討軍を起こし
 675年
 新羅は3度目の謝罪使を派遣したが
 唐の皇帝
 「高宗(在位:649年~683年)」
 の逆鱗に触れ
 「文武王」
 の官職剥奪のまでに進展
 新羅は謝罪外交と並行して
 更なる軍事的処置を取り
 676年
 伎伐浦で唐軍を破って事実上
 旧百済領全域の支配を掌握
 唐は同年中に
 熊津都督府を遼東の建安城に
 安東都督府も遼東城に後退させた
 唐はなお
 新羅征討を計画したが
 チベット
 吐蕃の勢力拡張によって
 朝鮮半島に兵力を回す余裕がなくなり
 678年
 に新羅征討を断念
 新羅は朝鮮半島中部以南から
 唐の勢力を排除
 「安勝」
 の高句麗亡命政権も
 684年
 に取り潰した
 ↓↑
 698年
 旧高句麗領
 旧高句麗遺民
 や
 靺鞨
 などが中心となって
 渤海が興った
 渤海は唐の退潮による
 東北アジアの権力の空白を埋める形で
 中国東北地方
 (満洲)南部
 朝鮮半島北部
 ロシア沿海州
 に相当する地域に勢力を広げた
 8世紀
 黒水部に対する
 渤海の勢力拡張を巡る紛争から
 唐と渤海の対立が深まり
 732年
 渤海が唐の登州(山東省蓬莱市)を襲撃
 唐は新羅に渤海攻撃を要請
 新羅はこれを受け入れたが
 その攻撃はほとんど戦果がなかった
 が、唐と新羅の関係は改善
 翌年に新羅は渤海攻撃の功績によって
 浿江以南の地を冊封された
 渤海は
 8世紀後半の
 「文王」の頃には
 高句麗の後継者とし
 「高麗国王」を名乗った
ーー↓↑ーーー

(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm


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エメラルドブルーの謎  (碧き眼の人形伝説)  奈井江 五郎
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 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)  + (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
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 ボクの「古事記字源」の発端・・・
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 干支歴
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 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」

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 メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8



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 モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?



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 モウ君の総合目次
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  コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)

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 古事記と虎関師錬
 ↓↑鉄腕アトムのロボット法を思い出してこれを貼り付けてみたけれど・・・


オジタリアンと「鉄腕あとむ」の「ポ


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