文字ヶ関村・・・歎異抄・・・タリキホンガン?
文字ヶ関村・・・歎異抄・・・タリキホンガン?
↓↑
高 史明 氏
1932年 1月17日
~
2023年 7月15日
大運2015年7月(83歳)壬辰正官
害
辛未(丁乙己)偏財・偏印冠帯⇔癸卯偏官
冲己=食神
辛丑(癸辛己)偏財・偏財 墓⇔己未食神
丁丑(癸辛己) ・偏財 墓⇔甲戌印綬
丙午(丙 丁)劫財・食神建禄⇔庚午正財
申酉空亡
↓↑
悪人正機
悟ったところで
ダレも救われない・・・
生きている「人間」にとって
「活殺」が日常である・・・
悟った後が問題だ・・・
「ぬすむな」・「うそつくな」・「ころすな」・「さべつするな」
「ぬすむ為」に「ウソ」をつき
「サベツ」して、「コロす=命をぬすむ=イノチを奪う」・・・
で、「どうするの」・・・
「生きている人間」にとっては「ムリ」・・・
「命題の人間」にとって「願望=絶望」・・・
「人間=人々=从=したがう=従う・從う・随う・遵う・順う・倭」?
「人間=人々=从」は支配階級に従って生存しているヒトビト=倭」?
↓↑
「隨=したがう=順=倭」・・・?
・・・源 順(したごう)
平安時代中期の貴族・歌人・学者
嵯峨源氏、大納言・源 定の曾孫
左馬允・源 挙(こぞる)の次男
官位は従五位上・能登守
梨壺の五人の一人
三十六歌仙の一人
20歳代、日本最初の分類体辞典
『和名類聚抄』編纂
『万葉集』の訓点作業
『後撰和歌集』の撰集作業に参加
↓↑
「あめつちのうた四十八首」という和歌48首を詠んで
私家集『源順集』に収録され
和歌の内容を
春・夏・秋・冬・思・恋
の構成としてそれぞれ8首、合わせて48首が収められている
↓↑
あめ つち ほし そら やま かは みね たに
天 地 星 空 山 川 峰 谷
↓↑
くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ
雲 霧 室 苔 人 犬 上 末
↓↑
ゆわ さる おふせよ えのえを なれゐて
硫黄 猿 吝伏施与 得能重乎 為例得出(氐)?
↓↑
あめ つち ほし そら
阿女 都千保之 曽 里女之訛説也 此誦為勝?
「大為爾」=大為爾の歌(たゐにのうた)
天禄元年(970年)
源 為憲が著した『口遊(くちずさみ)』の中に
「謂之借名文字(これを借名〈かな〉文字と謂ふ)」
という但し書きを最後に付け加えて記録
↓↑
大為爾伊天 奈従武和礼遠曽 支美女須土
田井に出で 菜摘む 我 をぞ 君 召すと
↓↑
安佐 利比由久 也末之呂乃 宇知恵倍留
あさ り ひ ゆ く や ま し ろ の うち ゑへる
求〈あさ〉り追ひ行く 山城の うち 酔へる
↓↑
古良 毛波保世与 衣不弥 加計奴
こら もは ほ せよ え ふね か けぬ
子等 藻は 干せよ え 舟 繋けぬ
????・・・
↓↑
安和二年(969年)の
「安和の変」以後の官途に影響を与えた
↓↑
倭の訓=やまと・したがう
〔漢書、地理志下〕
「樂浪(らくらう)中に倭人り。れて百餘國と爲る」
〔魏略〕
「倭は帶方東南の大中に在り。山島に依りて國を爲す」
「其の語を聞くに
自ら太伯(呉の始祖)の後なりと謂ふ」
〔後漢書、光武帝紀下〕
「倭奴國」
↓↑
倭(ワ)=訓義は
したがう・低い姿勢
倭遅は、はるかに連なるさま
中国による古称で呼称
倭(ワ)=やまと
↓↑
邑阿自(オウアジ)=日下部氏の祖・・・
「邑阿自(オウアジ)」が「名前」ですか・・・?
今現代に生きているボクにとっては
とても「名前」とは思えないが・・・
↓↑
邑=口+巴(ともえ・ハ)
・・・唇を窄(すぼ)める形?
ひょっとこの口
口をすぼめて曲げたような
表情の男性、その 面 のこと
潮吹き面 (しおふきめん)
語源は竈(かまど)の火を
竹筒で吹く「火男」がなまった・・・説
口が徳利のようであることから
「非徳利」からとの・・・説
舞楽に登場する
「二の舞」に登場する滑稽な役を演ずる役の面
里神楽(さとかぐら)では
一連の番数の神楽のほかに
番外として舞われる
「もどき」と称される踊り
ひょっとこの面をつけた踊り
面の造型自体は
猿楽で使用されていた
「黒尉」の面などに由来
同種の面は
「うそぶき」と呼ばれ
目はまるく、口をとがらせて突き出た形
島根県の民謡「安来節」
「ドジョウ掬い踊り」
出雲国(島根県)はかつて製鉄が盛んで
その砂鉄採取の所作が源流
炎と関係の深い金属精錬神への奉納踊り
邑=オウ・ユウ・・・ユウ=猷・酉=とり=鷄・鶏・雞
うれ(憂)える
くに=𡈁・国・圀・國・六合・那・郁・邦
みやこ=都
むら=村
さと=里
天子・諸侯・大夫の領地
巴=ハ
ずまき
ともえ
うずまき・うずまきのような形をしたもの
大蛇・象をも飲みこむほど巨大な伝説上の蛇
四川省重慶市を中心とした一帯
ともえ
鞆(とも)
弓を射るときに左手首の内側につけて
矢を放った後の
弦が腕に触れるのを防ぐ道具
鞆絵(ともえ)
阿=阝+可
阝+丁+口
阝+一+亅+口
ア
お
おもねる
くま
ひさし
よる
おか・大きい丘
くま・曲がって入りくんだところ
こびる・へつらう
ひさし・のき
よりかかる・もたれる
姓名や呼び名の上につけて親しみを表すことば
女性の名の上につける愛称
娿=婀=妸・・・阿毎王朝の皇后=阿輩雞彌?
自=ノ+目
白+凵
ジ
おのずから
↓↑
『豊後国風土記』
靭編郡の条
欽明天皇の時代
日下部氏の祖である
邑阿自(オウアジ)
が
靱部として仕え
村について家を構えた
靭負(ユギオイ)村
後に
靭編(ユギアミ)郡
と呼んだ
ユギオイ=靭(ユギ・ユキ・矢を入れる容器)を使用する者
ユギアミ=靭を作る者
邑阿自(オウアジ)は
大化の改新後は郡司に任ぜられ
大蔵氏 (豊後国)が
郡司に就くまで
日田の支配権を握っていた
↓↑
大化元年(645年)
和布刈神社付近に
「文字ガ関」
が置かれ
門司の地名由来
古代に九州地方を統括していた大宰府への第一の関所
↓↑
文字ヶ関村
町村制施行時(明治22年)の村名
明治元年当時の町村名
周防灘
関門海峡
企救郡
文字ヶ関村
田野浦門司
楠原小森江柳ヶ浦村
東郷村松ヶ江村
豊前国であった門司市の前身
文字ヶ関村は
1889年(明治22年)
町村制施行に伴って
楠原郷の田野浦村(明治20年、田野浦町を合併)
門司村(明治20年、楠原=くすばる村を合併)
柳郷の小森江村の3村が合併
当時の戸数は570戸、人口は3060人
役場は、中央の旧門司村に設置
企救郡、旧小倉藩領に属し
廃藩置県後は
日田県、小倉県を経て
1876年(明治9年)以降は
福岡県に属していた
ーーーーー
(ユカリとオジさんの世迷い言・2)
古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』(1)・(42)
http://web.archive.org/web/20080501061632/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kojiki42.htm
↓↑ ↓↑
エメラルドブルーの謎 (碧き眼の人形伝説) 奈井江 五郎
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
↓↑
干支歴
↓↑
追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
↓↑
メリキリの - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃん
https://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
↓↑
モウ君の総合目次
↓↑
コジキ姫赤い絨毯に乗る(m)
↓↑
古事記と虎関師錬
↓↑
鉄腕アトムのロボット法を
思い出して
これを
貼り付けてみたけれど・・・
AIの記憶・・・まだ、若いみたい・・・
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます