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コジキジゲン

黛(まゆづみ)ジュンの歌詞・・・

2017-04-08 22:52:00 | 古事記字源

 ・・・4月7日(金)、19時00分~爆報!THE フライデーで、オバァちゃんになった「黛ジュン」をみたけれど。「イタコ」のお告げで「婚約=コンヤク=艮訳」を解消ですか・・・「ふざける」の当て字が「巫山戯る=不山戯る=フサンギる→怖算木留?」だから・・・「恋のハレルヤ(1967年)・愛がほしいの・愛の奇蹟・乙女の祈り・風の大地の・子守り唄・悲しみよ今日は・キャント-バイ-ミー-ラヴ・霧のかなたに・雲にのりたい・真赤な太陽」・・・この「雲にのりたい」が一番印象的・・・歌詩はほとんどが「なかにし礼」の作詞・・・「黛 ジュン(まゆずみ ジュン、1948年5月26日戊子・丁巳(戊・庚・丙)→沖戊←辛亥~)・本名、渡邊 順子(わたなべ じゅんこ)・作曲家の三木たかしは兄」・・・なぜ、「黛(代+黒)=まゆずみ=眉墨・黱=黱 」の芸名にしたんだろう?・・・「黛=タイ・まゆずみ・まゆ・かきまゆ・化粧品(まゆがき)・黛青・眉黛(ビタイ)・青々とした山や樹木・翠黛(スイタイ)・眉黛(ビタイ)・粉黛(フンタイ)・緑黛(リョクタイ)」、「濃い青色・黒青色・山や樹木の青黒い色の形容(姿・様子)」・・・「黛」=「イ(人)の戈(ほこ・矛・鉾・鋒・戞・戛」で、「里」が「灬(烈火・裂罅=裂けてできた隙間・裂け目・割れ目・ヒビ・罅隙(カゲキ)・罅裂(カレツ)・裂罅(レッカ)=燃え上がる」→「レッカ(劣化)」・・・「村里が焼き払われた跡=黛」・・・???・・・「上皇(白王)」、「上后(厂一口)」・・・「午後=午后=午(うまの刻)、正午・正午~夜の子(12時までの時間・―六時⇔午前・正午~日没までの時間=ひるすぎ・午後一=昼休みが終わって、午後の業務の始まった直後」・・・「后=コウ・ゴ・きさき・君主・后王・后妃=皇后 (こうごう)・三后・母后・立后・皇太后 (コウタイゴウ・うしろ・のち・午后 は午後と通用」・・・「天皇」、「天后」ですか・・・
 「チン=朕=チン=肉+关(笑)」の声符の漢字、「眹・𠗲・勝・塍・幐・滕・榺・縢・螣・賸・謄(肉誉・月誉)・騰(肉𠔉馬・月𠔉馬・月龹馬)」と「黱=肉+𠔉(龹)+里+灬」・・・
 「𢍏(𠔉=膝が曲がる意味)=ハ+二+人」、「ケン、カンの音声の形声説、𢍏+刀の会意説がある・音読みはケン、訓読みは、 わりふ(割符)」・・・
 「ワリフ」ならば、「魚拳」の問題だろう・・・逸文の「魏略」は逸聞の「魏略」か?、存在しないモノは「証明」できない「悪魔の証明物」である?、「カミの証明物」でも同じか・・・兎に角、隠滅・湮滅されたら「証明」は如何しょうもない・・・「『南スーダン陸自日報』『「ジュバで戦闘」明記』『「廃棄」一転開示 PKO停止危惧』8日付 東京新聞朝刊・防衛省が廃棄したと説明していた陸上自衛隊の南スーダン PKOの日報が7日開示」・・・無いモノは無い、だがアッタ・・・物証=ブッショウ=物象=仏性か?・・・「倭人自ら太伯の後と謂う」、「呉の太伯の子孫」が「天つ神・皇孫」?・・・「《說文》, 解釋、部居、相關異體は豢、以穀圈養豕也。从豕,𢍏聲。〔胡慣切〕 (197 / 195), 豕 ... 字庫統計; 常用頻次序表; 隨機漢字 · 最近被搜索的漢字 · 使用凡例; 常見問題; 製作單位 · 私隱政策 · 免責聲明 · 意見簿. (管理員). 在線人數」、「攷慮到楷書部件的「龹」有另一來源(來自「𢍏」、「卷」、「券」、「拳」等字的上部,或參「𢍏」、「灷」之例),若是不做區分的話在隸定」・・・挙手・・・「挙(擧・キョ)=あげる・あがる・こぞる・高く持ち上げる・挙手・多くのものの中から取り上げる・挙用・科挙・推挙・選挙・枚挙・列挙」、「事を起こす・起こした事柄・挙行・挙式・挙兵・一挙」・・・「豢」≠「拳」≠「挙」・・・?・・・
 「𨤜=釆+豕」、「豢㹖(カン・ゲン)=穀物を餌とする家畜(ブタや イヌなど)の飼育・穀物を与えて飼育・𢍏+𧰨(豕)=𨤜・䝏=豕+𧲕=ロウ・ル=牝の豕(いのこ)」・・・
 「漢書」は初めての
 「断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)形式」をとった歴史書・・・?
 「断代史」は、一つの王朝に区切った歴史書の意味なのか?
 「班固が
  『史記』と
  未完の
  『後伝』を整理補充して
  『漢書』を制作。
  ただし、その
  八表と・・・・・・・「八表」ってナニ?
  天文志は
  未完であり、
  和帝の時、・・・・・「和帝」ってダレ?
  妹の
  班昭
  と
  馬続・・・・・・・・「馬」が「続」って、「司馬遷」か
            それとも
            「瑪拉基書=マラキ書」
            「馬太福音=マタイ伝」
            「馬可福音=マルコ伝」
            「羅馬書=ローマ人への書簡・手紙」
            「馬の続き」によって完成された、って?
ーー↓↑ーー
 古舘さん司会の「サイトウ」の「名字(みょうじ・苗字)」も面白かったけれど、「斎宮」=「いつきのみや」・・・「斉藤・斎藤・齊藤・齋藤・西藤」、判子屋は襤褸(ぼろ)儲け・・・
 「経済」の「済=氵(水・さんずい)
         +
         斉
        (斎=文丿示 |
         齊=亠刀Yノレ乀丿二 |
         齋=亠刀Yノレ乀丿示 |)」
 「サイトウ=西塔・西東・賽等・歳等・祭等」の
 「差異トウ」だろうが、
 「判子(はんこ)」は
 「漢書(かんじょ?ナゼかカンショではない)」
 を編纂した
 後漢の
 「章帝」の時の
 「班彪」の・・・史記は武帝で中断未完成
 息子の
 「班固」、
 娘の
 「班昭」
 らのハンコ(印鑑・印章)が押印されたモノ?
 「漢書」は前漢の歴史書
 「二十四史」の一つ
 「本紀・十二巻」、
 「列伝・七十巻」、
 「表・八巻」、
 「志・十巻」
 の計
 「百巻」
 から成る
 「紀伝体」。
 前漢の成立から
 「王莽」政権までの記録・・・
 「王莽(オウモウ)」の
 「莽=サ+一+大+廾」は
 「𢍏(ケン・カン)=釆(とる・サイ)+廾=ノ+米+廾」に、
 観た目が、似ている漢字?だと思うが・・・
 「奔放=ホンポウ=奔流・本邦・本俸」・・・本邦=日本
ーー↓↑ーー
 ピアニストの「上原ひろみ(1979年3月26日~)」さんもスゴイッ!のは既に記したが・・・ジャズに「音譜」があるなんてのも不思議だ・・・アレンジ(arrange)・・・「アラン字」だろう・・・
ーー↓↑ーー
 「則天武后」はもっとスゴイッ・・・
 則天大聖皇帝
 則天順聖皇后
ーー↓↑ーー
  王朝 武周
 在位期間 690年10月16日~705年2月22日
 都城 長安
 姓・諱 媚娘→武照(武曌)
 諡号 則天大聖皇帝
 則天順聖皇后
 生年 武徳7年1月23日
    (624年2月17日)
 没年 神龍元年11月26日
     (705年12月16日)
 父 武士彠・・・武士を尋ね蒦(はかる・カク・獲得)
          蒦=ワク・クワク・キャク・カクヤク・カク・ヤク
            はかる・ものさし・のり・はかり
            〔方言・第五〕に「篗・榬なり」
            〔説文解字〕の本字は「籆」で、
            〔説文・巻五〕に「絲を收むる者なり」
            〔玉篇〕には
            「籆(竹隹又)=榬なり」
            「籆=糸を巻き取る道具・糸巻」
            「又州名・《篇海》漢宜春縣,隋置 袁州
             又姓・《通志·氏族略》袁氏・嬀姓・舜後
                 陳胡公之後裔
                 胡公生申公
                 申公生請」
「榬・獧・辕・媴・猿・袁」
             字形: 形声で声符は蒦
             音訓: 音読みは「ワク(漢音)」
          「蒦(わく)」の地名
         福島県伊達市月舘町布川 字 蒦ノ内(わくのうち)
         福島県伊達市月舘町布川 字 蒦ノ内山(わくのうちやま)
         熊本県阿蘇市黒川 字 蒦引川原(わくひきがわら)
 母 楊夫人
 陵墓 乾陵・・・乾(十日十ノ一乙)=いぬい=戌亥・・・北西
ーー↓↑ーー
 誕生           死亡
 624 甲申(己・壬・庚) 705 支合 乙巳(戊・庚・丙)偏財
    沖(己)
 002 丙寅(己・丙・甲) 012    戊子(壬・ ・癸)印綬
  干合(壬癸)・偏印-正官-正財
 017 辛卯(甲・ ・乙) 016 支合 戊戌(辛・丁・戊)印綬
     午未=空亡
    ↓↑
 705 乙巳(戊・庚・丙)
 012 戊子(壬・ ・癸)
 016 戊戌(辛・丁・戊)
ーー↓↑ーー
 則天武后は「戊子(鼠)」ではなく、「甲申(猿)」の誕生?なら「サル年生まれ」となるが・・・「猿女=宇受女(渦目・臼目・有珠目)」と「猿田彦(提督)」が重なる、が・・・
ーー↓↑ーー
 「上皇・上后」・・・「天皇・皇后」の初出の「皇后」の意味は「皇の后=あと=後」・・・「后=厂+石」喜咲=キサキ・きさき=記作(詐)紀・・・「启=戶口・户口」=ひらく・はじめる・ケイ=open, begin, commence, explain.」・・・
 「短い手紙=谢启礼状」、「開く、開ける=开启=開く」、「指導する、教える=启发」、「始める、開始する=启行=出発する」、「申し述べる=敬启者拝啓」・・・
 年号 光宅:684年
 垂拱:685年 - 688年
 永昌:689年
 載初:689年 - 690年
 天授:690年 - 692年
 如意:692年
 長寿:692年 - 694年
 延載:694年
 証聖:695年
 天冊万歳:695年
 万歳登封:695年 - 696年
 万歳通天:696年 - 697年
 神功:697年
 聖暦:698年 - 700年
 久視:700年 - 701年
 大足:701年
 長安:701年 - 704年
 「曌」は「照」の則天文字。
ーー↓↑ーー
 利州
 都督
 武士彠
 と
 楊夫人の間に
 次女として生まれた
 諱を
 照
 幼名を
 媚娘
 12歳
 父が死去
 14歳
 太宗の後宮に入り
 才人(妃の地位。正五品)
 当初は
 太宗の寵愛を受けていたが
 宮廷に
 「唐三代にして、女王昌」
 「李に代わり武が栄える」
 との流言が蔓延し
 「武照の聡明さが
  唐朝に災禍をもたらす」
 と疑い
 太宗は、
 武照を疎遠にした
 李君羨という武将が
 「武が栄える」の
 「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑
 太宗は李君羨の処刑後もなお
 武照と距離を置き続けた
 太宗の子である
 李治(高宗)が
 武照を見出し、
 太宗に殺害されることを恐れた
 武照は李治を籠絡し、
 李治は妄信的に
 武照を寵愛した・・・
ーー↓↑ーー
 太宗の崩御
 出家
 だが、
 額に焼印を付け
 仏尼になることを避け、
 女性の
 道士(坤道)となり
 道教寺院(道観)で修行
 太宗の後継者である
 高宗の皇后だった
 王皇后と、
 高宗が寵愛していた
 蕭淑妃が対立
 王皇后は高宗の寵愛を
 蕭淑妃から逸らす為、
 高宗に
 武照の入宮を推薦
 武照が
 昭儀(後宮における上から5番目の地位)
 として後宮に入宮
 高宗の寵愛は王皇后の狙い通り
 蕭淑妃から逸れ
 同時に
 王皇后自身も
 高宗から疎遠となった・・・
ーー↓↑ーー
 立后
 永徽六年(655年)六月
 昭儀(後宮の位の一つ)だった武照を
 新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、
 宰相の
 韓瑗と
 来済の反対で実現はしなかった
 中書舍人
 李義府などの側近が
 皇后廃立と
 武照擁立の意図を揣摩し、
 許敬宗、
 崔義玄、
 袁公瑜
 等の大臣が結託し
 高宗に
 武照立后の上奏文を送った。
 高宗は
 王皇后を廃して
 武照を皇后に立てる事の是非を
 重臣に下問
ーー↓↑ーー
 長孫無忌
 朝廷の主な人間
 太宗の皇后の兄
 ↓↑
 褚遂良
 高祖
 李淵と同じ
 北周八柱国出身の
 于志寧
 ↓↑
 太宗の下で
 突厥討伐などに戦功を挙げた
 李勣
 ↓↑
 の四人
 ↓↑
 長孫無忌と褚遂良は反対
 于志寧は賛成も反対もせず
 李勣は
 皇后の廃立を容認
 ↓↑
 10月13日(11月16日)
 高宗は詔書を以て、
 「陰謀下毒」の罪
 により
 王皇后と蕭淑妃の二名を
 庶民に落として罪人として投獄
 同二名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪
 7日後、
 高宗は再び詔書を発布
 武照を立后
 諫言した
 褚遂良を潭州都督へ左遷
 11月初旬
 皇后になった武照は
 王氏(前皇后)と
 蕭氏(前淑妃)
 棍杖で百叩きにし
 処刑
ーーーーー
 ・・・「嫉妬」って、オッソロシイ・・・

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