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「千葉」・・・「千の言葉の文字」・・・伏姫・八房・・・南総里見八犬伝

2016-03-31 22:13:12 | 古事記字源

 ・・・此処、最近、ボクに取っては、ヤケに「千葉」に関する地名や人名、事件が頻発している・・・で、「チバ」、以前にも書き込んだハズだが、ボク的には実体験したモノは結構記憶され、調べた事実、書き込んだ事実の記憶は残っているが、調べた、書いた、の、文字と文章の内容の詳細記憶は消失してしまう・・・このボクの傾向は「ボケ以前的」なモノであるらしいカナ。「歴史年代の年月日の数字」に至ってはどうしょうもない・・・で、一体全体「千葉(ちば・センバ)の地名由来」はナンなんだか?・・・「千の言葉の文字」なら、「王仁=和邇吉師(わにのきし)=百済王臣下の阿直岐の同輩か先輩=菟道稚郎子の師」の「千字文」だが・・・ブログで調べてみると、「漢字(万葉仮名?)」の、「千(ち・ぢ)」・「葉(は・ば)」そのものの「漢字」の意味から「素直に追求」するモノは少ない・・・古代に於いても、現代に於いても、「同音」のコトバの意味は、「記録された漢字文字の意味」でのみ理解できる・・・単音音声の「あ→か→さ→た→な→は→ま→や→ら→わ→ん(む)」の五行列の「各一音」に、意味があるならば、当て字の漢字理解でしかない・・・「ア・レ、あ・れ」の意味は、「阿」と「禮(礼)」の漢字の意味でしかない・・・のデ、ア・ル・・・ハズだが・・・古代教養帰化人、渡来人には、時間的経過の「始原」として「ニホン(日本)」に上陸する前に「原生、原住した本国の言語と漢字文字」が、先ずアッタ。そして、「ニホン」に上陸移動して「ニホンゴ」に出遭ったのである・・・彼らに取っては「初めに文字(漢字)ありき」であった・・・
ーーーーー
 「千葉」懸
 明治六年六月十五日
 木更津(きさらづ)県
 と
 印旗(印旛・いんば・いぬば?)県
 を廃止して
 千葉県となる
  ↓
 「万葉集」に
 「知波能奴(ちばのの)」・・・「能」と「奴」の区別はナニ?
 「アイヌ語」の
 「チプ・パ(船の数が多い)」
 「ツバ(端・台地の端)」
 「茅生(ちぶ・茅(ちがや)が茂った」
 ・・・からの説など・・・ 「千葉=茅生」なら、その漢字の関連性には納得するだろう・・・?
  ↓↑
 千葉県という県名は、
 1873年(明治六年)
 木更津県と印旛県が合併して
 当県が設置され、
 千葉郡
 千葉町に県庁が置かれたことに由来
  ↓↑
 この地名は、
 「茅(ちがや)」が生い茂る土地で
 「茅生 (ちぶ)」と呼ばれ、
 転じて
 「ちば」になったとする説や、
 葉が多く重なる意味で
 「千葉」に なったとする説
 侵食しやすい地や
 侵食の激しい地に見られる地名
 「ちば」で、「潰れる」の意味
  ↓↑
 「和名抄」に
 「下総国
  千葉郡
  千葉郷」
 と見えるのが古い
 都市としての歴史は、
 1126年(大治一年)
 千葉常重が
 「猪鼻」の地に
 居館を築いたことから始まる
 が、それよりも
 はるか昔からこの地名はあり、
 千葉常重の姓が由来ではない
 平常重が
 上総国
 大椎から
 下総国
 千葉郡
 千葉郷に移り住んで
 千葉氏を名乗った・・・・「平」常重が、「千葉」常重
  ↓↑
 今日のニュースでは「アイヌ語の継承と保存」が「報じ」られていたが・・・「アイヌ」には記録文字を有しなかった・・・とするならば、「邦字」は「蝦夷地」に渡海した「ニホン人(外来人・本土人)」のモノであった・・・
 ・・・以下は、以上に関連した検索頭出しのブログ記事を見つけたので、「仮説」とはこんなモノなんだと、面白かったので、断りもなく参考、参照させてもらい、少々改作して添付したモノ・・・
  ↓↑
 「網走(あばしり)」は、
 アイヌ語由来で、
 「チパシリ chipasir」と呼ばれていた
 その語義は
 「chi 吾・pa 見つける・sir 島(国)」
 である・・・
 「チ=chi(ciとも)、
  意味は
 「吾」は「a(吾)」と
 交代可能なので
 「a pa sir」に変化した・・・
  ↓↑
 ・・・「チ」と「ア」の交代は、その「吾=ア」の漢字を前提的に知っていなければ無理だろう・・・
  ↓↑ 
 知里真志保氏(アイヌ語権威の言語学者)
 は
 「chipa」という語が、
 「inaw-san(幣・棚)」
 の古語であり
 「sir シリ=島」であるから
 「イナウを祀った島」・・・・「伊能(イノウ)」忠敬?
 ほどの意味・・・?
  ↓↑
 田村鈴子氏の辞典に
 「inaw-cipa」に
 「幣(ぬさ)場」という意味を与えているので
 「チパ」=「イナウ」=「幣」
 を祀る場所ないし
 「棚」の類である・・・?
  ↓↑
 つまり本来
 「チパ・シリ」で
 「イナウの・島」だったものが、
 「チ・パ・シリ」と誤分析され
 「吾・見つける・島」と誤解し、
 「チ」と「ア」を交換したものだ・・・
 誤解のもとに
 「ア・パ・シリ」という地名が慣行され
 和人には
 「あばしり」と把握され
 「網走」と宛字されたものだ・・・
  ↓↑
 網走で撮影した
 「チパシリ」
 別名
 「カムイ・ワタラ(神の岩)」
 現在日本語では
 「帽子岩」と呼ばれている・・・
 「千葉」は
 アイヌ語
 「chipa」(幣棚、幣)に因るものか・・・語呂合わせだろう
 アイヌ語
 「ふさ(房・総)」は
 「pusa(房)」がある・・・
 萱野茂の
 『アイヌ語辞典』では
 「pusa 総(ふさ)=束ねた何本かの糸などの先を
           ばらばらにして飾りにした物.
 田村すず子の
 『アイヌ語沙流方言辞典』では
 「プサ pusa=日本語ふさ(房)=房かざり(刀のさやの)
  三角や四角の布のかざりが下げて(つけて)あるもの
  刀の房かざりは、
  四角い布に刺繍(シシュウ)し、
  つり紐の両すそにつけてある
  ukopusakur=suypa kane
  ウコプサクル=スイパ カネ
  宝刀のつり紐のすそから下がっている
  房かざりがいっせいにゆれている
  「Sユーカラ」
  「糸、紐や鎖(くさり)で下げられた
   小さな玉や
   サイコロの形などの飾りは
   tumsi=トゥムシ(a tassel on a sword etc)
  ↓↑
 アイヌ語のpusaは
 日本語からの借用語・・・
 「イナウのふさ」
 「千葉」も「房総」も「イナウ」
 に関わっている地名である、と・・・
  ↓↑
 「伊能忠敬」が関わった地名だろ・・・?
  ↓↑
 「千葉」地名が行われた地は
 中世の
 下総国千葉郡(千葉県千葉市中央区及び周辺)
 近隣の
 「稲毛」も
 「inau-ke=イナウを削る」
 と解することができて、
 相互に
 アイヌ語起源を傍証しているようだ・・・
ーーーーー
 以下は「ウイッキペデア」などから・・・
  ↓↑ 
 『日本後紀』
 大同元年正月癸巳(1月28日)条
 「千葉国造(ちはのくにのみやつこ)
  大私部直
 (おおきさいべのあたい、直=カバネ)善人」
 人物が記録
 大化改新以前より
 千葉に
 国造が置かれていた可能性が高く、
 律令制成立後も
 下総国
 千葉郡
 と呼ばれる郡が成立
 『倭名類聚鈔』には
 千葉郡にあった
 七つの郷の1つに
 「千葉郷」と呼ばれる郷があったと記録
 同郷は現在の
 稲毛区
 穴川・黒砂
 付近を指していたと考えられている・・・
  ↓↑
 千葉氏の本拠地
 平安時代に
 千葉氏の祖、
 平常重が
 千葉郡
 千葉郷・池田郷一帯に
 千葉荘を開き、
 池田郷
 「亥鼻」に拠点を築いて
 「千葉介」を名乗る
 以後子孫が
 室町時代まで
 下総国守護職として周辺を支配
  ↓↑
 享徳の乱
 に乗じた
 原胤房
 と
 馬加康胤
 によって
 千葉胤宣が討たれ、
 千葉氏宗家が滅びた後は、
 千葉妙見宮の
 小さな
 門前町となった
  ↓↑
 徳川藩政時代
 江戸時代
 現在の
 千葉市域の大半が
 佐倉藩の領土
 (市域は生実藩・曽我野の2小藩の本拠地)
 となった
  ↓↑
 戊辰戦争終結~第二次大戦終結まで
 戊辰戦争後の
 1871年8月29日
 廃藩置県では、
 現千葉市は
 印旛県の領内に入れられた
 1873年
 印旛県
 と
 木更津県
 が合併されて
 千葉県が設置
 旧両県の境で
 千葉氏の本拠地でもあった
 現千葉市(亥鼻地区)に県庁が設置
  ↓↑
 千葉市が誕生
 1921年(大正十年)1月1日
 市域は、
 現在の中央区の北半分から
 稲毛区の南東部にわたり、
 これは
 1889年(明治二十二年)に設定された
 千葉町の町域をそのまま引き継いだもの
 戦前、現在の
 川崎町の埋立地に
 日立航空機製作所と
 日立製作所などの
 軍施設が集中する軍都として発展
 1945年(昭和20年)
 6月10日
 と
 7月7日
 に
 連合国軍による
 大規模な空襲(千葉空襲・七夕空襲)に見舞われ、
 市域の7割が壊滅
  ↓↑ 
 1126年(大治元年)
 千葉常重が
 「猪鼻」の地に居館を築く。
 1455年(享徳四年)原胤房に千葉城を急襲され、
         千田庄(香取郡多古町)に逃れた
         千葉胤宣が
         康正元年八月十二日
         原胤房に加担した
         馬加康胤に討たれ
         千葉氏宗家が滅亡した。
 1871年(明治四年)
 十一月十三日
 廃藩置県
  木更津県、印旛県、新治県が設置
 1873年(明治六年)
 六月十五日
 木更津県と印旛県が合併
 千葉県が設置
 県庁を
 両県の境となる
 千葉郡千葉町(千葉市中央区本千葉町)に設置
 1875年(明治八年)
 五月七日
 新治県が分割
 利根川以南が千葉県に編入
 現在の千葉県域が形成
 1889年(明治二十二年)
 四月一日
 町村制施行
 千葉町、寒川村、登戸村、
 千葉寺村、黒砂村
 が合併し、
 千葉郡千葉町が発足
 1921年(大正十年)一月一日
 千葉町が市制を施行し千葉市
 全国で
 六十六(66)番目
 県内初の市制施行
 1931年(昭和六年)
 千葉市歌を制定
 1937年(昭和十二年)
 二月十一日
 千葉郡
 蘇我町、・・・・・ナゼか、「蘇我」・・・
 検見川町、・・・・ナゼか、「検見のカワ・セン」・・・
 都賀村、・・・・・ナゼか、「都の賀・トガ→訳臥」?
 都村を編入
 1944年(昭和十九年)
 二月十一日
 千葉郡
 千城村を編入
 1954年(昭和二十九年)
 七月一日
 千葉郡
 犢橋村
 を編入
 このとき
 犢橋村が
 村内の軍施設を
 千葉市に報告しなかったため、
 1979年(昭和54年)に
 信管付き
 不発弾が見つかり、大騒ぎ・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・何層サトミ発見伝・・・伏せ秘め・葉知の附差・・・千葉のカイ・・・「南総里見八犬伝・伏姫・八房(曲亭馬琴・瀧澤馬琴)」・・・

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