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コジキジゲン

「蟻(あり)と螽斯(きりぎりす)」も大変

2021-08-27 21:31:30 | 古事記字源

 「トルソ(伊: torso)」・・・?
 ヤッタぁ~!!
 2021年8月27日
 祝
 大谷翔平
 対オリオールズ シリーズ
 3戦目~第1打席目
 41号ホームラ~ン!!!!
 先頭打者本塁打
 7試合ぶり ベーブ・ルース生誕の地
 ボルティモアで初アーチ


 ↓↑
 体調が狂う・・・日毎の温冷の差・・・「トルソ(伊: torso)」・・・芋虫?
 ・・・「北風と太陽」・・・「南風or颱風&太陽」・・・
 「蟻(あり)と螽斯(きりぎりす)」も大変だぁ~
  ↓↑
 『伊曾保物語』=「伊蘇普物語」
  伊=亻+尹
  ↓↑亻+⺕+丿
    亻+⺕(ヨ・彐=彑)
    イ
    かれ
    かの
    これ
    この
    ただ
    第三人称
    語調の助詞
 ↓↑
 尹=イン
  =長官・監督
   漢姓の一
  「少昊金天」氏の一族
  『通志』氏族略
  「少昊金天氏の子
   殷が尹城
  (河南省宜陽県の北西
   新安県の南東 or
   山西省隰県の北東)
   に封ぜられ
  「工正」に任ぜられ
  「尹殷」と呼ばれ
   封邑をもって姓とした
  「応劭が著した
  『風俗通義』
   商代初期の相国
   伊尹の子孫の一支族が
   伊尹の官職である
   尹を姓とした」・・・
 ↓↑
 咿=イ
   人や動物の声
   物の音などの擬声語
  「喔咿(アクイ)」
   つくり笑い・無理に笑う
 ↓↑
 蛜=虫+伊
   虫+亻+尹
   イ
  「蛜蝛(イイ)」
   虫の名・草鞋虫(わらじむし)
  「䗧蛜(コウイ)」
   昆虫の名・蜻蛉(とんぼ)
 ↓↑
 洢=氵+伊
   氵+亻+尹
   洢水=湖南省の川の名
      伊河
 ↓↑
 曾=八+口+小+日=曽=丷+田+日
   丷+口+小+日
   丷+口+⺌(⺍)+日
   ゾ・ソウ・ソ・ゾウ
   かさなる
   かつて
   すなわち
   ます
   これまで・以前に
   幾重にもかさなる
   ふえる・ふやす=増
  「すなわち」と読み
  「ところが・なんと
   いったいぜんたい」
   などの意
 「曽遊・未曽有(ミゾウ)・曽孫」
  ↓↑ 
  保=イ+口+十+八・・・人の口が壹を拾って捌く
  ↓↑
  物=牛+勿=𠂉+十+勹+リ(ノノ)・・・
    勿=無・毋・亡・莫=存在、事態の否定
       動詞に係り、「禁止」の意
     勿(なか)れ・勿来関(なこそのせき)
     勿論(モチロン)・勿怪(モッケ)の幸い
     勿体無い(モッタイな)い
     勿忘草(わすれなぐさ)
  ↓↑
  語=言+吾(あ・ゴ・己・私・我・俺)
  ↓↑
 「伊蘇普物語」
   蘇=蘇(よみが)えり・・・蘇我
   普=並+日
     䒑+业+日
     丷+一+业+日
   暜=竝+日
     立+立+日
     フ
     あまねく
  ・・・アマ
     海女・海部・天・雨
     ネク
     音句・根来
     ア・マ・ネ・ク
     阿 毎 嶺 九
     あまねし
     広く行きわたる
  ↓↑
 「太陽神アポロンと北風の神ボレアスの話」
 「ガチョウと黄金の卵」
 「カラスと水差し」
 「からすときつね・騙されたからす」
 「鳥と獣と蝙蝠=卑怯なコウモリ」・・・
 「ろばを売りに行く親子」
 「カラスは洗って白くなることはない」・・・
 「金の斧」・・・
 ↓↑
 『イソップ寓話(Aesop's Fables)』
 紀元前6世紀
 「アイソーポス」・・・愛想を干す・・・母の諏?
 という奴隷がが作った寓話集
 (ヘロドトス歴史)
 ↓↑
 1593年(文禄2年)
 日本
 『エソポのハブラス
  (ESOPO NO FABVLAS)』
 として紹介され
 イエズス会の宣教師が
 ラテン語から翻訳したもの
 天草の
 コレジオ(イエズス会の学校)
 で印刷されたローマ字のもの
 後
 江戸時代初期から
 『伊曾保物語』
 として各種出版
 内容は
 現在のイソップ寓話集と異なる話も収録
 宣教師向けの
 『イソポのハブラス (ESOPO NO FABVLAS)』
 と、読み物としての
 『伊曾保物語』
 の間に相違
 明治
 英語からの翻訳
 幕臣の学者
 沼津兵学校校長の
 「渡部 温」の
 『通俗伊蘇普物語』
 が修身教科書にも取り入れられた・・・
 ↓↑
 16~17世紀
 「エジプト神話」も
 イエズス会宣教=耶穌会(やそかい)
        =ジェズイット (Jesuit) 教団
 や
 「伊東 マンショ(主席正使)」・・・「伊の東の萬書」?
  伊東 満 所
 大友義鎮(宗麟)の名代
 宗麟の血縁
 「日向国主」
 「伊東 義祐」の孫
 or
 日向(宮崎県)
 都於郡(とのこおり)城主
 「伊東 祐青」の子で、名は祐益(すけます)
 「臼杵」で受洗
 教名 マンショ(Mancio・満所)
    万(萬)書?
 後年、司祭に叙階
 ↓↑
 天正遣欧少年使節
 1582年(天正10年)2月20日(旧暦1月28日)
 長崎港を出港
 ローマへ派遣された4名の少年
 ↓↑
 使節
 伊東マンショ(主席正使)
 ↓↑
 千々石ミゲル(正使)
  大村純忠の名代
  純忠の甥
  有馬晴信の従兄弟
  後に棄教
 ↓↑
 中浦ジュリアン(副使)
 司祭に叙階
 1633年
 長崎で穴吊るしの刑で殉教
 ↓↑
 原マルチノ(副使)
 司祭に叙階
 1629年
 追放先のマカオで死去
 ↓↑
 随員
 ジョルジェ・ロヨラ修道士
 使節の教育係・日本人
 ↓↑
 コンスタンチノ・ドラード
 印刷技術習得要員・日本人少年
 ↓↑
 アグスチーノ
 印刷技術習得要員・日本人少年
 ↓↑
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父
 職務によってゴアにとどまる
 ↓↑
 ヌーノ・ロドリゲス神父
 ヴァリニャーノの後を継いで随行
 ↓↑
 ディオゴ・メスキータ神父
 通訳・イエズス会員
 ↓↑
 ロレンソ・メシア神父
 オリヴィエーロ修道士
 ↓↑
 1590年(天正18年)
 に帰国
 彼らの持ち帰った
 グーテンベルク印刷機によって
 日本語書物の活版印刷された
 ↓↑
 1585年(天正13年)3月23日(旧暦2月22日)
 ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見
 ローマ市民権を与えられる
 ↓↑
 1590年7月21日(天正18年旧暦6月20日)
 使節団長崎に帰港
 ↓↑
 などによって
 「エジプト神話」も
 同時期に日本に伝えられたか・・・?
 ヤッパ、確実なのは「幕末・明治初期」か・・・?
ー↓↑ーーーー
 「グスタフ・クリムト Gustav Klimt」
 1862年7月14日
 ~
 1918年2月6日
 ↓↑
 と生涯が重なる日本人は
 ↓↑
 1862年1月21日~1862年4月7日
 品川~パリ(巴里)到着の
 「文久遣欧使節
  第1回遣欧使節
  開市開港延期交渉使節
  1863年第2回遣欧使節団
  横浜鎖港談判使節団
  文久二年十二月十一日・・・11日・壱拾壱日
  1863年1月30日」
 ↓↑
 正使・竹内下野守(56歳)
    文化4年(1807年)
    ~
    慶応3年2月1日(1867年3月6日)

 副使・松平石見守(33歳)
    文政13年5月26日(1830年7月16日)
    ~
    明治37年(1904年)7月5日
    改名
    松平康直~松平康英~松井康英
    別名
    万太郎・・・萬太郎⇔太安萬侶?
    陸奥棚倉藩主→武蔵川越藩

 目付・京極能登守(39歳)
    ?~元治元年10月29日
     (1864年11月28日)

 組頭・柴田貞太郎(46歳)
    文政6年1月17日
    (1823年2月27日)
  ~
    明治10年
    (1877年8月24日)
    外国奉行・函館赴任
    通称
    貞太郎・日向守
    雅号
    恬斎
    慶応元年(1865年)
    製鉄所建設と
    軍事調査のため
    再び仏英に派遣
    グラバーに対抗するため
    隠密を暗躍させていた

 勘定・日高圭三郎(33歳or26歳)

 勘定格徒目付・福田作太郎(36歳)

 目見持格調役並
   水品楽太郎(32歳)=水品梅処
   岡崎藤左衛門(27歳)

 医師・高島祐啓(31歳)
    文政4年(1821年)
    ~
    慶応4年閏4月18日
   (1868年6月8日)
    漢方医・幕府奥医師
    諱
    久貫

 雇医・川崎道民(31歳)
    天保2年(1831年)
    ~
    明治14年(1881年)
    佐賀藩医
    長崎海軍伝習所参加
    1860年万延元年遣米使節
    1862年文久遣欧使節
    随行医師
    報道・新聞・写真等を学び
    明治5年(1872年)
    最初の新聞
   『佐賀県新聞』創刊
    佐賀の
   「写真技術の元祖」

 普請役・益頭駿次郎(36歳)

 定役元締助・上田友助(45歳)
       上田敏の母方祖父

 定役・森鉢太郎(29歳)

 定役
 通弁御用
 福地源一郎(22歳)
 天保12年3月23日
 (1841年5月13日)
   ~
  明治39年(1906年)1月4日
  政論家・劇作家・小説家
  幼名
  八十吉(やそきち)
  号
  星泓~櫻癡(おうち・桜痴)
  吾曹
  「江湖新聞」発刊
  大蔵官僚
  「東京日日新聞社」主筆・社長
  演劇改良運動
  活歴劇創始
  改修物・翻案物
  時代物・世話物を創作
  衆議院議員
  明治12年(1879年)
  リットン
  『マネイ(人間万事金世中)』
  など
  フランスやイギリスの
  戯曲や小説を翻案し
  河竹黙阿弥
  三遊亭圓朝
  に提供

 定役並
 通弁御用
 立 広作(22歳) 立 作太郎の叔父
 同・太田 源三郎

 同心・斉藤大之進(39歳)
    前年東禅寺事件の警護により
    英政府より褒賞

 小人目付・高松彦三郎(44歳)

    同・山田八郎(41歳)

 翻訳方御雇・松木 弘安(35歳)=寺島宗則
 兼医師
 寺島 宗則・・・字問う志の規則?
 天保3年5月23日
 1832年6月21日
  ~
 明治26年
 1893年6月6日
 爵位 伯爵
 元名
 松木 弘安
 通称
 寺島 改姓後 陶蔵
 日本の電気通信の父
 第4代外務卿
 薩摩国
 出水郡
 出水郷
 脇本村
 字 槝之浦
 (阿久根市
  脇 本字
  ・・・脇・腋・和気・和木
     話記⇔訳
     槝之浦)・・・「槝」は国字
     槝(かし)=木+島=水底に立てる杭
     搗(つく)=扌+島
     郷士
     長野 成宗の次男
     安政3年(1856年)
    「蕃書調所教授手伝」
     薩摩藩主
     島津斉彬の侍医・・・ジイ=辞意・字異?
     後
     蕃書調所に復帰
     文久元年(1861年)・・・文究頑撚?
              頑=元+頁=かたくなに
     遣欧使節団
     西洋事情探索要員・・・探索要員⇔新作要因?
     文久2年(1862年)
     文久3年(1863年)
     薩英戦争
     五代 友厚・・・・語代有効(遊行)?
     とともに
     イギリス軍の捕虜・・・英吉利句務?
     慶応元年(1865年)
     薩摩藩遣英使節団参加
     慶応3年(1867年)11月
    「版籍奉還の建白書」
     を藩主
     島津 忠義に提出
     明治元年(1868年)
     スペインと
    「日西修好通商航海条約」
     の締結に関わり
     同4年(1871年)
     ハワイ(布哇・Hawaii)王国と
    「日布通商条約締結」
     の日本側全権大使
     明治5年(1872年)
     初代の在イギリス日本公使
     明治6年(1873年)
     参議兼外務卿
     関税自主権回復を目指し
     諸外国との条約改正に臨み
     挫折
     明治12年(1879年)
     外務卿辞職
     後
     文部卿・元老院議長
     在アメリカ日本公使
     枢密顧問官・枢密院副議長
     歴任
     明治17年(1884年)
     伯爵
     翌年
     東京学士会院会員
     明治22年(1889年)
     枢密院の
     憲法制定の御前会議で
     枢密顧問官の
     寺島宗則は
     議長
     伊藤博文の
     憲法草案には
     帝国議会に
    「発議権」を付与する項目がないとし
     これを付与すべきと主張
     憲法上に
     帝国議会の
    「発議権」を明記させた
     ↓↑
     議員が議案を議院に提出し
     審議を求める権限

 同・箕作 秋坪(36歳)
   ・・・箕=竹+其(基)
        み・キ
        大ざる
        塵取=地理取り?
        穀物に
        まざった不要なものを
        振るい分ける農具
        振意=ルビの小文字
        舊い訳
        降る委の和家?
        足を投げ出して座ること
        二十八宿の一つ・みぼし
    「箕帚(キソウ)・箕斂(キレン)」
   文政8年12月8日
  (1826年1月15日)
   ~
   明治19年(1886年)12月3日
   洋学者(蘭学者)
   教育者
   啓蒙思想家
   諱  矩
   通称 文蔵
   号  宜信斎
  「菊池 慎」の子・・・?
   幕府天文方で翻訳従事
   安政6年(1859年)
   幕府蕃書調所(東京大学)教授手伝
   慶応2年(1866年)
  「樺太国境交渉」の使節で
   ロシア派遣
   三叉学舎開設
   慶應義塾と双璧の塾
   東郷 平八郎
   原  敬
   平沼 騏一郎
   大槻 文彦
   なども学ぶ
   専修学校(専修大学)開設で
   法律経済科を設置し
   創立者の
  「相馬 永胤」
   らに教授を任せる
   明治12年(1879年)
   教育博物館(国立科学博物館)館長
   明治18年(1885年)
   東京図書館
  (帝国図書館・国立国会図書館)館長
   東京師範学校摂理
   明治6年(1874年)
   森 有礼
   らと
  「明六社」創立、社長就任
   明治12年(1879年)
   福澤 諭吉
   西  周
   加藤 弘之
   らと
   東京学士会院創設参画
   創立会員7名の一人

 同・福澤 諭吉(29歳)
   天保5年12月12日
   〈1835年1月10日〉
   ~
   明治34年
   〈1901年2月3日)
      大運1893年6月(58歳)癸未劫財
  甲午(丙 丁)食神・偏財 胎⇔庚子偏印
 ┏丁丑(癸辛己)正財・劫財 衰⇔己丑正官
 ┗壬寅(己丙甲)  ・偏官 病⇔壬子比肩
  丙午(丙 丁)偏財・偏財 胎⇔丙午偏財
   辰巳空亡

 そのほか
 三使節の家来2名ずつ
 柴田の従者1名

 竹内下野守家来・長尾条介
       同・高間応輔

 松平石見守家来・野沢伊久太
       同・市川渡(市川清流)

 京極能登守家来・黒沢新左衛門
       同・岩崎豊太夫

 柴田貞太郎従者・永持五郎次
 賄方並小使雇人7人
 各藩の藩士も含まれていた

 佐賀藩士の石黒寛次
 杵築藩士の佐藤恒蔵(39歳)
 加賀藩士の佐野鼎
 長州藩士の杉徳輔(杉孫七郎)
 阿波藩士の原覚蔵
 伊勢屋八兵衛手代の十兵衛
 ↓↑
 帰国
 と
ーー↓↑ーーーーー
 「1863年第2回遣欧使節団
  横浜鎖港談判使節団」
 の日本人・・・
 34名の外交団員のダレかが・・・
 ↓↑
 「グスタフ・クリムト Gustav Klimt」
 1862年7月14日
 ~
 1918年2月6日
 ↓↑
 と重なる
 人物は・・・
 「益田孝(1848年~1938年)
  中外商業新報(日本経済新聞)創刊
  三井物産設立」
 茶人 鈍翁と号
 佐渡国
 雑太郡
 相川町(新潟県佐渡市相川)
 に生まれる
 幼名 徳之進
 父の
 鷹之助は
 箱館奉行を務めた後
 江戸に赴任

 麻布善福寺の
 アメリカ公使館に勤務
 ハリスから英語を学ぶ
 文久3年(1863年)
 フランスに派遣された父とともに
 遣欧使節団
 (第二回遣欧使節
  横浜鎖港談判使節団)に参加
 帰国後
 幕府陸軍に入隊・騎兵
 慶応3年(1867年)6月15日
 旗本
 慶応4年(1868年)1月
 騎兵頭並
 明治2年(1869年)
 横浜貿易商館
 ウォルシュ・ホール商会の事務員
 「中屋徳兵衛」
 と名乗って輸出商を手掛けた
 大蔵大輔(大蔵次官)の
 井上馨の勧めで
 明治5年(1872年)
 大蔵省
 造幣権頭で
 大阪へ赴任
 新貨幣にきりかえる任
 明治6年(1873年)
 「尾去沢(おさりざわ)銅山汚職事件」
   ・・・尾去沢疑獄事件=尾去沢汚職事件
      708年(和銅元年)
      この銅山発見の伝説・・・
      金銀銅鉛亜鉛などが発掘
   秋田県鹿角市にあった鉱山
   江戸末期
   南部藩は御用商人
  「鍵屋・村井茂兵衛」
   から多額の借財をなし
   証文は
   形式上
   藩から商人村井に
   貸し付けた文面になっていた
   藩所有の尾去沢鉱山は
   村井から借りた金で運営
   書類上は
   村井が藩から鉱山を借りて経営の形
   1869年(明治元年)
   採掘権は
   南部藩から村井に移されたが
   明治新政府
   大蔵大輔の
   長州藩出身の
  「井上 馨」は
   1871年(明治4年)
   この証文を元に返済を求め
   その不能をもって
   大蔵省は
   尾去沢鉱山を差し押さえ
   村井は破産
   井上は
   尾去沢鉱山を競売に付し
   同郷人の
  「岡田平蔵」
   に無利息で払い下げた上
  「従四位井上馨所有」
   という高札を掲げさせ私物化を図った
   村井は司法省に一件を訴え出
   佐賀藩出身の
   司法卿
  「江藤 新平」
   ・・・江戸城無血開城の時
      紅葉山文庫から
      幕府所蔵の書籍を全て
      持ち出した
     「楓山(ふうざん)文庫」とも
   がこれを追及
   井上の逮捕を求めたが
   長州閥が抵抗
   井上は大蔵大輔辞職
   江藤が下野し
  「佐賀の乱」で死刑になり
   真相不明
   尾去沢銅山事件
  (尾去沢疑獄事件、尾去沢汚職事件とも)

 1873年(明治6年)秋
 井上は
 鉱山を手に入れた
 岡田と
 「東京鉱山会社」設立
 翌年1月に
 鉱山経営に
 米の売買
 軍需品輸入
 の貿易会社「岡田組」設立
 岡田の急死(銀座煉瓦街で死体)
 により鉱山事業を切り離し
 同年3月
 益田らと
 「先収会社」を設立
 これが
 「三井物産」へと発展
 で井上が下野し
 益田も職を辞した
 明治7年(1874年)
 井上が設立した先収会社
 東京本店頭取(副社長)就任
 明治9年(1876年)
 「中外物価新報」創刊
 先収会社を改組し
 三井物産設立
 初代総轄(社長)就任
 「渋沢栄一」
 と共に
 幕府騎兵隊時代の同期生の
 矢野二郎(商法講習所所長)を支援
 三井財閥総帥
 「中上川」の死後
 実権を握った
 大正7年(1918年)
 男爵
 弟の
 「益田英作」
 も
 「野々村仁清」作の
 色絵金銀菱文茶碗(重要文化財)
 などに代表される収集家
 箱根強羅の別荘地開発
 大正15年(1926年)
 慶應義塾大学医学部
 に寄附し
 食養研究所設
 と
ー↓↑ーーーー
 「三宅秀(1848年~1938年)
  東京大学初の
  医学博士
  初の名誉教授」
 三宅 秀(みやけ ひいず)
 嘉永元年11月17日
 (1848年12月12日)
 ~
 昭和13年
 (1938年3月16日)
 医師・洋学者
 医学者・貴族院議員
 幼名
 復一(またいち)
 明智光秀
 or
 明智光秀の弟
 の子孫・・・
 「錦鶏間祗候」
 肥前にて
 代々医業
 お玉ケ池種痘所(東京大学医学部)
 の創設に携わった医師
 「三宅艮斎(みやけ ごんさい)」
 の長男として江戸本所で生まれた

 安政4年(1858年)
 川島元成のもとで蘭学を習う
 文久3年(1863年)
 「田辺太一」
 の従者として
 遣欧使節に随行
 元治元年(1864年)
 帰国後
 横浜のヘボン塾(明治学院高校)
 で英学を学び
 元アメリカ海軍医
 ウェッダー(Alexander M.Vedder)
 の助手となり医学を学ぶ
 慶応3年(1867年)
 加賀藩壮猶館で
 英書翻訳や英学教授に従事。
 明治3年(1870年)
 大学へ出仕
 中助教・大助教
 文部少教授を歴任
 明治7年(1874年)
 東京医学校長心得
 明治9年(1876年)
 渡米
 万国医学会の副会長に選任
 明治14年(1881年)
 東京大学医学部長
 医科大学教授
 医科大学長歴任
 明治21年(1888年)
 東京大学 初医学博士
 明治24年(1891年)4月15日
 貴族院勅選議員
 明治36年(1903年)
 東京大学 初名誉教授
 昭和13年(1938年)
 死去 享年91(満89歳)
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 1998年
 シチリアとテュニスの間の深海に
 沈没した難破船から紀元前4世紀の
 「青銅のサテュロスのトルソー」
 が引き揚げられた
 「トルソ(伊: torso)」
 人間の頭部・両腕・両脚の
 五体を除いた胴体部分
 「木の幹」や「胴体」を意味する
 ↓↑
 「イーノー(Īnō)」=「イノ」
 テーバイの王女
 「ボイオーティア」の王妃
 死後
 「ゼウス」によって女神とされ
 海の女神
 「レウコテアー(Leukothea)」
 「レウコトエー(Leukothoe)」
 として信仰された
 「レウコテアー」=「白い女神」
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