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コジキジゲン

ナミダ→那美妥

2013-03-27 21:31:59 | 古事記字源
 なみだ=泪=涙=涕・・・「悔しい・口惜しい・感激・爆笑・辛い・切ない・苦しい・悲しい・哀れ・痛い」、いずれも「喜怒哀楽」には「顔面、身振り、手振り、身体、四肢状態の内外面」も変化し「ナミダ」がトモなう・・・涙腺から零れ落ちるナミダの粒の跡筋・・・湖の真ん中で泣いてこぼしたナミダは波紋となって湖面を伝わり岸壁のヒトに届くだろうか・・・小さくなった漣には気がつきもしない・・・
 雷光は波紋には見えない。波ではない。「暗黒」のナニかを切り裂いている形はジグザグである。TV番組で見た「宇宙空間」に放出される「雷光」の映像は茎のような光の束に観えた・・・光の「一粒=一光子」は人間の目と脳ミソでは認識できない。「超光速撮影機」は「光速」を超えたモノでなくちゃぁ・・・「光速」を超えるナニかが宇宙には詰まっている・・・

 で、「氵」はナゼ「さんずい=サンズイ」とヨムのか?・・・漢字では記録されていないが「山水・散水・産水・算推・蒜(サン・にんにく・ひる・のびる)穂・纂出」・・・「氵」の由来、爾来は「サンズイ=纂隋(隋書は、二十四史の一つで第十三番目にあたる)」?・・・「隋=氵+ナ+エ+月=ズイ→瑞→瑞穂(みずほ)→(水)→出(スイ)」・・・「随=ズイ=隨」は同音異字で意味は同義である。その意味は「シタガウまま・まにまに・他人の後にそのままついていく・随員・随行・随従・随伴・追随・付随・夫唱婦随・成り行きにまかせる・随意・随時・随想・随筆・気随」、そして「隋道・隧道」で「随処・随所」・・・「随筆」・・・、

 「隋書・巻八十一・列傳第四十六・東夷伝俀国(ズイショトウイデンわコク)」・・・「俀(イ+妥)=(タイ・ダイ・テイ・よわい・ダ?)」は「倭(イ+禾+女)」に類字するが「ワ・ハ」とは読めないだろう。「イ(意・異・為・委・人)」の「妥協、妥結、妥当」?→「妥=(爫+女→やすい・おだやか・おちる・ダ・タ→大修館漢和辞典238頁」、同じく373頁には「挼→もむ・もみあわす・もみくちゃにする・ダ・ナダイ・ネ・キ・ズイ→挼祭=食物を祭る、祀る)」→「采女(うぬめ)の采(爫+木→とる・サイ→採)」、「釆(ノ+米→わける・ハン・ベン←898頁=種を蒔く、播くの源字)」にも類字・類似する。

 そして、記述されている。兎に角、「魏書東夷伝倭人条=魏志倭人伝(著者西晋の陳寿・280年~297年)」の「邪馬臺國=邪馬壹國」の「倭(イ+委)」の漢字とは類似(字)するが「俀(イ+妥)」とは異なる・・・また、

 「大業四年(607?・608?)」

 の内容である。

ーーー

 「随書」の編纂

 本紀五巻

 志三十巻

 列伝五十巻

 唐の

 魏徴と

 長孫無忌らが

 唐の太宗の

 勅を奉じて勅撰

 編纂には

 顔師古

 孔穎達らが

 参加

 636年(貞観十年)には

 魏徴によって

 本紀五巻

 列伝五十巻が完成

 第三代高宗に代替わりした後の

 656年(顕慶元年)

 長孫無忌

 によって

 志三十巻が完成

 後、

 編入が行われた

ーー

 長孫 無忌(ちょうそん むき、生年不詳~659年)

 唐の太宗の

 長孫皇后の兄

 唐朝の外戚

 長孫无忌とも書かれる。

 字は

 輔機

 本貫は

 河南郡

 洛陽

 三人の子はみな

 朝散大夫

 武昭儀(武則天)が

 高宗の男子を産んだため、

 皇后に立てる議論が起り

 長孫無忌は

 武氏立后に

 反対の立場で

 高宗に諫言したが

 655年

 武氏が皇后となる

 657年

 褚遂良

 来済らに謀反を

 誣告されて

 左遷

 659年

 許敬宗が李奉節らに指示して

 朋党事件をでっちあげ、

 その黒幕を

 長孫無忌であるとし高宗に訴えられる

 長孫無忌の官爵を削って

 黔州(貴州省)に流刑

 許敬宗や李義府が

 かれの謀反を訴えたため、

 長孫無忌は配所で

 首を吊って自殺

 674年

 官爵を復帰され

 孫の

 長孫元翼が

 爵位を継ぐ

 長孫無忌は、

 「唐律疏義」や

 「隋書」の

 編纂者

 彼の生存期間中

 「?~659年」に日本では何が起こったか?

 604年頃:聖徳太子十七条憲法

 607年推古天皇・聖徳太子が法隆寺建立

 610年第一次遣唐使出発

 612年随が高句麗侵入

 623年

 (推古三十一年)法隆寺金堂釈迦三尊像

 645年

 (大化元年)大化の改新

  高句麗に唐が敗北

  唐大宗が直接大軍を率いて高句麗に侵攻

  「安市城の戦」で唐軍を撃退

 655年則天武后が皇后

 659年長孫無忌が自殺

 660年

  新羅が唐と軍事同盟し

  百済を滅亡

 白村江の戦い

 663年

 10月

 4日

 天智天皇

 二年

 八月

 二十七日

 ~

 10月

 5日

 (八月二十八日)

  中大兄皇子が百済救済

  二万7千人の水軍を派遣

  白村江で唐・新羅軍に敗北

 「唐・新羅・日本・百済」の関係者

 唐

 則天武后

ーー

 劉仁軌

 隋の

 仁寿二年

(602年~685年3月2日)

 字は正則

 楽城文献公

 汴州尉氏出身

 龍朔三年(663年)

 九月

 百済残党、倭の水軍を白村江で撃破

 嗣聖二年一月二十二日

 685年3月2日

 文昌左相同固閣鸞台三品として

 在職中に死没

 享年八十四

 記録文

 旧唐書巻八十四 列伝第三十四 劉仁軌

 新唐書巻百八 列伝第三十三 劉仁軌

 資治通鑑巻200~203

ーー

 劉仁願・劉徳高・郭務悰

 蘇定方

ーー

 新羅

 文武王(?~681年七月一日)=金春秋

 新羅の第三十代の王(在位661~681年)

 在位二十一年間

 墓所は海中王陵

 姓は金

 諱は法敏

 武烈王の長子

 母は角干(1等官)の

 金舒玄の娘(金庾信の妹)の

 文明夫人

 王妃は

 波珍飡(4等官)の

 善品の娘

 慈儀王后

 676年11月

 白江河口部の

 伎伐浦で唐軍を撃破、朝鮮半島から駆逐し

 半島の統一

ーー

 日本

 斎明天皇・天智天皇

 上毛野君稚子・安曇比羅夫・阿倍比羅夫

 朴市秦造 田来津(えちはたのみやつこ たくつ)

 ?~天智二年(663年)八月

 近江国

 愛智郡出身

 白村江で戦死

ーー

 百済

 鬼室福信=徐福信・・・首を塩漬けにされた

 徳執得・・・・・・・鬼室福信を讒訴した人物

 鬼室集斯・・・・・・鬼室福信の縁者で帰化人

 沙宅相如

ーー

 黒歯 常之=徐常之

 ?~689年(永昌元年)十一月二十六日

 唐に投降、則天武后の将軍として

 対

 突厥戦線で活躍・・・後に

 689年(永昌元年)

 十一月二十六日

 讒訴されて撲殺?

ーー

 續(続)守言は

 鬼室福信に半島で捕まり、

 日本に送られた唐の捕虜

 後、渡来唐人、薩弘恪と朝廷に仕えた

 持統天皇三年(689年)に稲、

 持統天皇五年(691年)九月に銀二十両を賜る。

 「続守言・薩弘恪」は朝廷での

 「(漢字音教授)音博士」

 『日本書紀』巻二十七・天智天皇二年(663年)二月

 是月条「佐平福信・上送・唐俘・續守言・等」

 持統六年

 (692年)

 十二月十四日

 ~

 700年六月十七日に死亡・・・?

 「日本書紀」の

 「巻十四~巻十九」の作者が「続守言」・・・?



 「長孫無忌」の

 記録文

 『旧唐書』巻六十五 列伝第十五「長孫無忌伝」

 『新唐書』巻一百五 列伝第三十「長孫无忌伝」

 『三国史記』二十八巻百済本紀

 『旧唐書』百九十九巻上百済伝

 

 壬申の乱

ーーー

 「髄道」ならば「脊髄の神経」である。

 「氵」は「川(かわ・セン)=巛」の水の流れの変形だと思うし、大修館漢和辞典(285ページ下段)に説明がある「巛」は「川の本字」で、この「巛」は「水の流れ、水面の動的変化の波形」表示である。砂や雪の「地走り」、「津波」が押し寄せて来る状況、花火のように「火山灰」を吹き上げる状況にも似ている。平仮名の「く」が三重に重なった「巛=三重ク」・・・同じく大修館漢和辞典(315ページ)にある「彡(サン・セン・さん作り)=毛で造った髪飾り・筆や刷毛でなすったあと・毛髪の揃った形」は「あと・サン・セン」と音読みする同音の漢字でもある。「形」は「一+廾(こまねく・キョウ・ク)+彡」の合字である。「巛の形」はモノの「波形」か「曲がり」を意味している文字である。「巛」の部首漢字は「巡(めぐる・ジュン・シュン)・災(わざわい・サイ)・莖(くき・ケイ)・逕(こみち・ケイ・キョウ)・痙(ひきつる・ケイ・ギョウ)・剄(くびきる・ケイ・ギョウ)・菑(わざわい・サイ・シ)・甾(シ)」に使用されている。自然「災害」とは「巛(河川の氾濫)と火(火山、火事)」の「害」である。絹織物の糸を吐く「蚕(かいこ)=天+虫→中+ム」も「サン」と音読みする。「天虫」の同音漢字は「天誅・典中」である。「蚕(サン)」の災難は熱湯である。「蚕(かいこ)」の同音異字は「解雇・懐古・回顧→過去を振り返る」である。「過去(カコ)」の同音漢字は「水主(かこ)」である。

 「水主(かこ)」町とは「名古屋」に存在する地名である。加えるに「瑞穂(みずほ)」区の地名もある。名護屋、名児耶、那古屋、名子哉、奈古耶、名越である・・・

 そして「杉(すぎ)=木+彡」も「サン」と音読みする。甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、川中島、諏訪湖。風に「靡(ビ・ミ・なび)くハタ(旗→機・秦・旛・幡多・羽田・波田・波多・葉多・傍=イ+旁→旁=かたわら・かたがた・ボウ・ホウ)」は「毘沙門天の毘」と「風林火山」。

 「隋書」の「耶靡台国」の「耶(邪)に靡く台の国」・・・

 「氵」は片仮名の「シ」の変形にも思える。大修館漢和辞典(499ページ中段)には「水の漢字が偏になる時の形」・・・「氵九(氵+九)」は「側面の穴から湧き出る泉=出水=氵+九泉(キセン)」、「水の涸れた岸の土」、「狭く長い川」、「氵+九濫=水が湧き出る・湧き水」、「氵+九泉(キセン)=横穴から湧き出る泉」・・・「汁(しる・ジュウ・シュウ・シウ)=物質に混じっている液体・飲食物の液汁・おつゆ・吸い物・おかげ・なみだ・みぞれ」、「啜汁(シルをススル・旨いことにありついて利益を得るコト)」は「史記・魏世家・欲啜汁者衆」が出典らしい。

 「氻(ロク)=水の音」・・・「495ページ」には「水(みず・スイ)」は「氺(漢字の脚になる時の字→したみず)」とあり、「111ページ」には「冫=にすい=ニスイ」は「氷(こおり・ヒョウ)」で、源字は「冰」で、形象は「人+人=∧+∧」が上下に重なった形とある。「Λ=λ」はギリシャ文字の「ラムダ」である。「ラムダ→ランダ→乱打→(阿)蘭陀」である。「Λ」の逆文字が英語の「V=v=ヴイ→部位・武威」である。更にこれを横にしたら「く」で、重ねたモノが「く+く=《・≪」である。「<」は数学記号の「1<2=1は2よりも小さい」で、英語では「less than sign」である。「クク・くく」とは一般的には「掛け算の九九」で、「九×九=八十一・八拾壱」である。「≪≫《》」記号は英語では「double bracket」とされている。「bracket(ブラケット)」とは「持ち送り・腕木・腕金・張り出し棚受け・腕木で支えられた張り出し棚」で記号としては「二重角括弧」である。

 「冫=にすい=ニスイ」が漢字の脚になった時は「〓・=・ニ→冬の字のニの部分」で、「冬=夂+二」の「二→ン・こ」の類字は「ン」と「こ」である。八卦の「〓」は「陽気+陽気」で「太陽」である。「三爻(サンコウ)」の「≡」は「乾(ケン・カン)」の象徴意は、「いぬい=戌亥=狗(犬)猪」で「自然は天」、「性格は健(すこやか)」、「家族は父」、「身体部位は首(頸・頚)、「方位は西北」である・・・

 

 「氷(ヒョウ)」の同音異字は

 ヒョウ

 雹=雨+包

 表=十一+衣

 票=西+示

 豹=豸(チ・ジ)+勺(シャク・ジャク・くむ)

   君子豹変

    ↓

   訓詞表変=訓読みのコトバは文章が変わる

   「豹」の類字は「杓・酌」→「杓子・斟酌・媒酌」

   「約」→「約束・新約・旧約」→「誓約書・聖書」

 漂=氵+西+示(二ハ亅)

 平=一+ハ+十

 評=言+平

 郡=君+阝(邑)→こおり→氷

 兵=丘+ハ

 瓢=西+示+瓜

 彪=虎+彡

 俵=イ+表

 拍=手+白

 標=木+票

ーーーーー

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