
私たちは もともと「無体」「勿体(もったい)」なのです。
勿体というこの考えから
「もったいない」という言葉が生まれているのです。
自分のものならもったいなさはない。
あらゆる自然と世の中の働きからの預かりもの
さずかりものだからこそもったいないのです。
その「自分」を「私」がこれを傷つけることは許されません。
生産尊重の根本には この「無我」「勿体」の思想があるのです。
ここからすべての想いをスタートさせれば
「わが子」でなく「われらの子」であり
「わが財」でなく「我等が財」であるという
・・・ 「私有」のまちがいがよくわかります。
「我に子らあり」という利己が成りたたぬ以上
子供は 社会の子であり 他人の子もわが子であり
・・・ 一切の区別 差別は まったく無意味になります。
自他一如 自利利他という仏教の慈悲の思想を
これを忘れては理解できないのです。
もし 私たちが この「無我」「無私」の本質がわかり
それが人間社会であることにめざめれば
・・・ 奪いあいも 争いも この地上から消えるでしょうね。
* 2010.11 東ブータンで
勿体というこの考えから
「もったいない」という言葉が生まれているのです。
自分のものならもったいなさはない。
あらゆる自然と世の中の働きからの預かりもの
さずかりものだからこそもったいないのです。
その「自分」を「私」がこれを傷つけることは許されません。
生産尊重の根本には この「無我」「勿体」の思想があるのです。
ここからすべての想いをスタートさせれば
「わが子」でなく「われらの子」であり
「わが財」でなく「我等が財」であるという
・・・ 「私有」のまちがいがよくわかります。
「我に子らあり」という利己が成りたたぬ以上
子供は 社会の子であり 他人の子もわが子であり
・・・ 一切の区別 差別は まったく無意味になります。
自他一如 自利利他という仏教の慈悲の思想を
これを忘れては理解できないのです。
もし 私たちが この「無我」「無私」の本質がわかり
それが人間社会であることにめざめれば
・・・ 奪いあいも 争いも この地上から消えるでしょうね。
* 2010.11 東ブータンで