気まぐれ翻訳帖

ネットでみつけた興味深い文章を翻訳、紹介します。内容はメディア、ジャーナリズム、政治、経済、ユーモアエッセイなど。

チョムスキー氏語る・9-----ウクライナ侵攻から半年(2022年8月24日)

2022年10月18日 | 国際政治

訳出が遅くて申し訳ありませんが、ウクライナ侵攻からほぼ半年後の状況をめぐる、
チョムスキー氏へのインタビューの文章です。

タイトルは
Chomsky: Six Months Into War, Diplomatic Settlement in Ukraine Is Still Possible
(チョムスキー氏語る: ウクライナ侵攻から半年、外交的解決はなお可能)

インタビューの聞き手は C.J. Polychroniou(C・J・ポリクロニオ)氏。


原文はこちら
https://truthout.org/articles/chomsky-six-months-into-war-diplomatic-settlement-in-ukraine-is-still-possible/


(ネットでの可読性の低さを考慮し、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、
ひんぱんに改行をおこなった)


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Chomsky: Six Months Into War, Diplomatic Settlement in Ukraine Is Still Possible
チョムスキー氏語る: ウクライナ侵攻から半年、外交的解決はなお可能



C・J・ポリクロニオによるインタビュー、『トゥルースアウト』誌

2022年8月24日


(『トゥルースアウト』誌による前文)

ウクライナにおける戦闘は勢いの衰えをいまだ見せない。この悲劇が幕を閉じる気配は
いまだうかがえない。一方、目下の状況がこれからもずっと変わらないままであると
いうこともやはり想像しがたい。この戦争はロシア軍のおどろくべき脆弱さを明らかに
した。また、ウクライナ側の頑強な抵抗は軍事専門家でさえ予想外のことであった。
いずれにしろ、はっきりしているのは、本サイトの独占インタビューでチョムスキー氏が
特に指摘しているように、ウクライナにおいて米国が「代理」戦争を遂行していること
である。そのおかげで、ロシアの軍事作戦策定者は大きな成果をあげることがきわめて
難しくなっている。
侵攻の当初から、チョムスキー氏は、この問題をめぐる発言者の中でもっとも重要な存在
としての地位を築いている。同氏は、ロシアの侵攻を不法な武力攻撃と批判するとともに、
プーチン大統領が隣国への侵攻を決定するにあたっての微妙な政治的、歴史的文脈を解き
ほぐしてみせた。
以下のインタビューで、同氏は、侵攻に対する批判をあらためて口にし、和平交渉を
取りまく状況が「アフガニスタンという罠」をどうしても想起させずにおかないことに
言及するとともに、目下米国で進行中の、一種異様な検閲状況についてもふれた。これは、
ウクライナ戦争に関する歓迎されない意見を組織的に抑圧することでおこなわれている。

チョムスキー氏は、マサチューセッツ工科大学(MIT)の言語学と哲学の名誉教授、
アリゾナ大学の言語学栄誉教授、および同大学の『アグネーゼ・ネルムズ・ハウリー環境
・社会的公正プログラム』のファカルティ・チェアである。
世界で突出して引用されることの多い学者の一人であり、何百万もの人々から米国のみ
ならず世界的な財産と見なされている著名な知識人である同氏は、150余の著作をこれまで
上梓している-----その分野は言語学、政治・社会思想、政治経済学、メディア研究、米外交
政策、国際問題、等々と多岐にわたる。
最近の著作は『言葉の秘密』(アンドレア・モロ氏との共著、マサチューセッツ工科大学
出版局、2022年刊)、『撤退: イラク・リビア・アフガニスタン-----米国の脆弱性』
(ヴィジャイ・プラシャド氏との共著、ザ・ニュー・プレス社、2022年刊)、『危機の
瀬戸際: 新自由主義、パンデミック、社会変革の喫緊の必要性』(C・J・ポリクロニオ氏に
よるインタビュー、ヘイマーケット・ブックス社、2021年刊)など。


C・J・ポリクロニオ:
ロシアがウクライナに侵攻してから半年が経過しました。が、戦争が終結する見込みは
まだうかがえません。プーチン大統領の戦略は大きく裏目に出ました。
首都のキエフ(キーウ)の占拠に失敗しただけでなく、西側諸国の結束をあらためて
強化するとともに、フィンランドとスウェーデンが長年の中立の立場を棄ててNATOに
加盟するという結果をまねきました。加えて、大規模な人道的危機とエネルギー価格の
高騰、そして、ロシアの国際的孤立をももたらしました。
危機の当初から、あなたはこの侵攻を武力攻撃という名の犯罪行為と表現し、それを
米国のイラク侵攻、ヒトラーとスターリンのポーランド侵攻になぞらえていました。
もっとも、ロシアの場合は、NATOの東方拡大に脅威を感じていたわけですが。
今もこのようなお考えに変わりはないと存じます。が、もしプーチン大統領が、自分の
始めたこの軍事的バクチが長期化するとわかっていたら侵攻を思いとどまっていたか
どうか、これについてはいかがお考えでしょうか。

ノーム・チョムスキー:
プーチン大統領の心を読み解く試みは小規模な業界を形成するに至っていますね。その中
には、茶葉占いで、ごく少ない茶葉を判断材料に、自信満々の態度で断言する、そういった
風な人々がいます。私も多少の推測はしますが、こういった人々はほかの人々よりきちんと
した証拠に基づいて発言しているわけではありません。ですから、あまり信を置くことは
できません。

私の推測としては、ロシアの諜報機関の判断は、米国政府の発表した予想と同じであった
ろうというものです。つまり、キエフの占領および傀儡政権の樹立はたやすいという見方
です-----現実に起こったような、大失敗をするという見方ではなく。
これも私の推測ですが、もしプーチン大統領がウクライナ国民の抵抗の意志とその能力、
また、自国軍の能力不足についてもっとましな情報を得ていれば、その作戦計画はちがった
ものになっていたでしょう。
たぶん、その作戦計画は事情通の多くの評論家が予想していたものであり、また、ロシアが
目下、代替案として採用するに至っているらしきもの、つまり、クリミアと自国への経路の
より堅固な支配、およびまた、ドンバス地方の併合です。

プーチン大統領は、おそらくは、もっと良質の情報を得ていれば、賢明な対応、つまり、
マクロン大統領の申し出た構想をもっと真剣に検討していたのではないかと思います。これは
戦争を避けられたであろう、交渉による事態収拾の手立てでした。あるいは、ドゴール大統領
やゴルバチョフ大統領がかつて提唱した線に沿った、欧州とロシアの協調に向けた動きに踏み
出していたかもしれません。
私たちが知っているのはただ、これらの提案が一笑に付され、顧みられなかったこと、その
結果、大きな犠牲が生じたこと、そしてその大きな犠牲はとりわけロシアに生じたことです。
プーチン大統領はこれらの提案の代わりに武力侵攻という残虐行為にうったえました。つまり、
米国のイラク侵攻、ヒトラーとスターリンのポーランド侵攻と並ぶ悪行です。

ロシアがNATOの東方拡大に脅威を感じていること、その東方拡大は当時のゴルバチョフ
大統領への確固、明確たる約束に反したものであったこと、この点は、ロシアとおよそ30年
の間、つまり、プーチン大統領の登場のずっと以前からロシアとつきあってきた米外交当局
の高官のほぼ全員が強調しているところです。
その例にはこと欠きませんが、一つだけ挙げると、2008年に、当時、駐ロシア大使であった
ウィリアム・バーンズ氏(現在はCIA長官)は、ブッシュ第43代大統領が無謀にもウクライナ
にNATO加盟をすすめた際、こう警告しています。
「ウクライナのNATO加盟は、ロシアの支配者層(プーチンだけではなく)にとって、レッド
・ライン(越えてはならない一線)の最たるものである」と。さらには、「NATOに加わった
ウクライナはロシアの国益に対する、まさしく直接的な脅威である、そう考えない人間を私は
一人として知らない」とも述べています。同氏は、より一般的に、こう語っています。NATO
の東欧への拡大は「よく言っても時期尚早、悪く言えば『不必要に挑発的』である」。そして、
拡大がウクライナに達した場合は、「プーチン大統領が強力な反撃に打って出ることはまず
まちがいないであろう」と。

バーンズ氏はたんに、1990年代初頭にまでさかのぼり得る、米国政府上層部の人間の共通認識
をあらためて述べているにすぎません。当のブッシュ第43代大統領の下で国防長官をつとめた
ロバート・ゲイツ氏もこう認めています。
「ジョージアとウクライナをNATOに加えようとする試みは明らかに矩をこえている。…
ロシア人が自身の最重要の国益と考えているものを無謀にもいっさい顧みないやり方だ」と。

事情に通じた政府関係者からのこれらの警告は、声高で明確なものでした。しかし、それは
歴代の政権から無視されました。クリントン政権の時代からずっと無視され、今の政権に至る
も同様です。
その事情は、侵攻の背景を精査した、つい先頃のワシントン・ポスト紙の包括的な調査を
伝える記事で確かめることができます。調査を検証したジョージ・ビーブ、アナトール・
リーヴェンの両氏はこう述べています。
「戦争回避をめざすバイデン政権の取り組みはまったく不十分であると見なされています。
ロシアの外相セルゲイ・ラブロフ氏が、侵攻の数週間前に述べたように、ロシアにとって
『すべての鍵は、NATOが東方拡大をしないという保証である』。しかし、このウクライナの
将来のNATO加盟に関し、米国政府が具体的な妥協案の提示を検討したという文言はワシントン
・ポスト紙の記事の中にはまったく見出せません。それどころか、米国務省がすでに認めて
いるように、『米国は、プーチン大統領がたびたび口にする国家安全保障上の重大な懸念の
一つ-----つまり、このウクライナのNATO加盟の可能性-----について、何ら取り組む努力を
しませんでした」。

要するに、さまざまな挑発が最後の最後まで続けられたのです。それは外交交渉を骨抜きに
することにとどまらず、ウクライナをNATOの軍事指揮系統に組み込むという構想のさらなる
推進もともなっていました。それは、米国の軍事専門誌の言葉を借りれば、結局、ウクライナ
を「実質上」NATOの一員にすることです。

おそらくこれまでの事実として挑発行為があまりに明白であるまさにそれゆえに、ロシアの
侵攻は「挑発されたわけではない」・「いわれのない」ものと形容されねばならない暗黙の
ルールが登場するのです。
かかる言い回しは、礼節を心得た社会ではまず使われませんが、今回の場合にかぎっては
必要とされるのです。このような興味深いふるまいは、心理学者にとって造作なく説明できる
はずのものです。

挑発行為は、上述のような警告にもかかわらず、何年にもわたって次から次へと実施された、
意図的な行為でしたが、だからといって、プーチン大統領が武力侵攻という「究極の国際
犯罪」に手を染めたことを正当化できるわけではもちろんありません。挑発的な行為は当該
の犯罪行為の理由を説明する手助けにはなるとしても、その正当化事由にはなり得ません。

ロシアが国際的孤立におちいった、「のけ者国家」となったという言説については、私は
多少の留保が妥当であろうと考えています。
確かにロシアは、欧州やアングロスフィア(英語圏)においては、「のけ者国家」になりつつ
あるのでしょう。それは、古株の「冷戦闘士」さえおどろかせるほどです。
グラハム・フラー氏は、長年、米国諜報界の大立て者の一人と見なされてきた人物ですが、
最近こんなコメントを発しています。
「私はこれまでの人生のうちで、ウクライナをめぐって今現在目にしているような、米国
主流派メディアによる大々的なキャンペーンをほかに知らない。米国は目下、たんに出来事
の『解釈』を押しつけているだけではない。ロシアを国家として、社会として、そしてまた
文化として徹底的に『悪者扱いすること』に専心している。その不当さは常軌を逸している。
冷戦時代に私がロシアにかかわっていた間、今のような状況に至ったことは決してなかった」。

再度、とぼしい茶葉を判断材料にして読み解くならば、こう言ってもいいかもしれません。
ロシアの侵攻を「挑発されたわけではない」・「いわれのない」ものと形容することが必須
である事情と同じく、上記の展開にも、ある種のうしろめたい感情が抑えがたく噴き出して
いるのだ、と。

ロシアを「究極の悪者」あつかいすることが米国および、大なり小なり、その緊密な同盟国
の姿勢です。ですが、世界の大部分の国は一歩ひいた態度を採っています。
つまり、侵攻は非難するけれども、ロシアとはこれまで通りの関係を維持しています。それは
ちょうど、米国と英国によるイラク侵攻を批判した西側に属する国々が、この(明らかに
「挑発されたわけではない」)武力侵攻をおこなった米英と、それまでの関係を維持したこと
と同じです。
また、米国とその同盟国が人権や民主主義、「国境の不可侵性」などをおごそかに語ることに
対して、あざけりの声が広く上がりました。ほかならぬ、暴力と政権転覆に関して世界有数の
チャンピオンがそれらを説いたからです。いわゆる「グローバル・サウス」(訳注・1)に
属する国々は、このことを豊富すぎるほどの経験から骨身にしみて知っています。

(訳注・1: 南の発展途上国。主に南半球に偏在している発展途上国を指し、南北問題を論じる
ときに用いられる(英辞郎より))

C・J・ポリクロニオ:
米国はウクライナ戦争に直接的に関与しているとロシアは主張しています。米国はウクライナ
において「代理戦争」を戦っているとお考えですか。

ノーム・チョムスキー:
米国がこの戦争に深く関与していること、それも誇らしげにそうしていること、これについて
は疑う余地はありません。そして、「代理戦争」を戦っているという見方は、欧州とアングロ
スフィア(英語圏)以外の世界では広く共有されているものです。
なぜそうなのかは理解に難くありません。米国の公的な方針はあけすけに表明されています。
この戦争は、ロシアが極度に疲弊し、あらたな武力攻撃をしかけられなくなるまで続けられ
なくてはならぬというものです。
この方針を正当化するために高らかにかかげられる標語は、「『民主主義、自由、すべての
善きもの』対『世界征服をめざす究極の悪』との宇宙的な闘争」です。この手の気負った
レトリックはそう目新しいわけではありません。かかるファンタジーのような「語り」は
冷戦時代の代表的な文書「NSC68」(訳注・2)では、コメディの域にまで達していました。
そしてまた、米国以外でもごく普通に見られるものです。

(訳注・2: 「国家安全保障会議文書第68号」。米国の冷戦時の戦略的枠組みを規定した重要な
文書とされる)

文字通りに解せば、この公的な方針は、1919年のヴェルサイユ条約によってドイツに課せられた
よりももっときびしい罰をロシアは受け入れなければならないということを意味します。
対象とされた人々は表明された方針を文字通りに受け取るでしょう。その結果、その人々が
どのような対応にうったえるかは明らかです。

米国が「代理戦争」に力をそそいでいるという見方は、欧米でしばしば交わされている議論
によって裏付けられます。ロシアの武力攻撃にいかにうまく反撃するかについてはさかんに
論じらています。ところが、惨事をいかに終息に導くかに関しては、それにふれた文章を
見つけるのは容易ではありません。その惨事はウクライナのみにとどまらない、きわめて
広範な領域におよぶものであるにもかかわらず、です。
あえてこの後者を論ずる人間は、大抵の場合、非難されることになります。キッシンジャー氏
のように敬意をはらわれている人間でさえそうです。もっとも、おもしろいことに、外交的
解決を呼びかけた文章は、老舗の専門誌に掲載された場合、お決まりの非難を浴びせられる
ことなく、通用しています。

人がどんな言い方を好むにせよ、米国の政策や方針をめぐる基本的な事実は十分にはっきり
しています。「代理戦争」という言葉は、私にはもっともなものだと思えますが、いずれに
せよ、重要なのは政策や方針の方です。

C・J・ポリクロニオ:
予想できたことですが、侵攻後、関係国すべてにおいてプロパガンダ合戦がずっと続いて
います。これについては、先頃、こうおっしゃっていましたね。ロシアの国営メディア
であるRT(ロシア・トゥデイ)をふくむロシアのメディアの報道を禁止したことで、米国民
は1970年代のソビエトよりも敵対国に関する情報を制限されている、と。この点について、
もう少しお聞かせください。とりわけ、国内の検閲をめぐるあなたの発言がはなはだしく
歪曲されている状況ですので。読者は、あなたの発言の意味するところは、目下のアメリカの
検閲状況が共産主義時代のロシアのそれよりももっとひどいということだと考えるに至って
います。

ノーム・チョムスキー:
ロシアについて言えば、同国内のプロパガンダはすさまじいものです。一方、米国はと言えば、
確かに公には検閲はおこなわれていませんが、上でふれたグラハム・フラー氏の見方を退ける
ことは容易ではありません。

直接的な検閲は米国や他の西側諸国ではまず見られません。けれども、ジョージ・オーウェル
が1945年に『動物農場』の(当時は紹介されなかった)序文で書いているように、自由社会
の「たちの悪い事実」は、検閲が「おおむね自発的なものであることです。公に命じなくても、
不人気な考え方は封印されたり、具合の悪い事実は公表されなかったりする」。これは、
思想統制のやり方としては、総じてあからさまな強制より効果的です。

オーウェルが言及しているのは英国のことでした。けれども、そういった慣習は英国にかぎらず、
広くおこなわれています-----実に興味深いやり方で。
ごく最近の例をあげると、中東に関する高名な学者のアラン・グレシュ氏は、フランスの
テレビ局による検閲を経験しました(訳注・3)。イスラエルが占領するパレスチナのガザ地区
における最近のテロ行為について、批判的なコメントを呈したからです。

(訳注・3: 同氏のインタビュー記事がネットに掲載されず、また、予定していた2度目の
インタビューがキャンセルになったという事実を指す)

同氏はこう述べています。「こういった形の検閲は異例です。パレスチナ問題に関して、検閲が
これほどあからさまなやり方でおこなわれることはめったにありません」。もっと効率的な検閲
はコメンテーターを慎重に選ぶことで実施されます。コメンテーターとして選ばれるには、と
グレシュ氏は説明します。「当該の暴力行為を悔いる」一方で、イスラエルが「自身を守る
権利」を有することに言及しつつ、「双方の側の過激主義者と闘う」必要性を強調することが
求められます。しかし、「イスラエルの占領とアパルトヘイト(人種隔離政策)を強く批判する
人々が選ばれる余地はそもそも存在しないようです」。

不人気な考え方を封じ込めたり、具合の悪い事実を公表せずにおくという手口は、米国では
精密技術の域にまで達しています。突出して自由な社会では当然予想されることですが。
今では、このような事例を精細に分析した文章が文字通り何千ページも書かれています。
メディア批判を展開しているアメリカの『FAIR』、イギリスの『メディア・レンズ』などの
卓抜な組織が、これについて定期的、精力的に論じています。

この欧米流の洗脳が、全体主義国家の粗野であからさまなやり方よりすぐれていることも、
活字媒体でさかんに論じられています。さまざまな教義は、自由社会のより洗練された手口に
よって、押しつけではなく前提条件としてすり込まれるのです。グレシュ氏が述べている例に
うかがえるように。
そのルールは決して口にされることはありません。ただ、暗黙のうちに受け入れられるだけ
です。議論は許されます。推奨されさえします。ですが、ある境界内に制限されています。
その境界が明示されることはありませんし、それはきわめて厳格なものです。そして、人の
心に深く浸透しています。
オーウェルが述べているように、この精妙な洗脳-----高等な教育などもこれに属します-----を
受けた人々は、自分の心の中で了解するようになります、ある種のことは「言ってはならない」、
あるいは、考えてさえもならないということを。

洗脳のやり方は意識するにはおよびません。それをおこなう人はすでにある種のことは
「言ってはならない」もしくは考えてさえもならないということを了解事項として内面化して
いるからです。

このようなしくみは、きわめて他と隔絶した文化-----たとえば米国のそれのような-----に
おいては、とりわけ効果的です。外国の情報源にあたってみようなどとはほとんど誰も思い
ません。非難の対象となっている国のそれについてはなおさらです。無制限の自由があるかの
ような外見をそなえている文化では、既存の枠組みを突破しようという意欲がわかないのです。

私がRT(ロシア・トゥデイ)などのロシアの情報源の報道禁止-----グレシュ氏の言葉を
借りれば「異例」なことです-----について言及したのは、このような広い文脈においてです。
他の話題もあつかう長いインタビューでは、少ない言葉数でていねいな説明をする時間は
ありませんでした。が、このような直接的な禁止は、約30年前に私がふれた興味深い事実を
思い起こさせます。
自分の他の多くの論述と同じく、その文章においても私は、不人気な考え方を封印したり
歓迎されない事実を抑圧したりする自由社会のいつものやり方に関して、たくさんの事例を
検証しました。そしてまた、官学共同のある研究についても言及しました。1970年代、
すなわち、ソビエト連邦の後期であり、ゴルバチョフの登場以前の時代におけるロシア人が
ニュースをどこから得ていたかを考究したものです。
結果が示したのは、きびしい検閲にもかかわらず、ロシア人がかなり高い割合でBBCなど
から、さらには非合法な地下メディアからさえも情報を得ていて、ひょっとしたら米国民
よりも事情に通じていたかもしれないということでした。

当時、私はこの点を確かめようとして、ロシアからの移住者に話を聞きました。この強圧的な、
しかし、たいして効果のない検閲をかいくぐった経験を持つ人々です。
彼らは上の研究結果をほぼうべないました。ただし、そのかなり高い割合の数字は高すぎると
感じていました。おそらく調査対象がレニングラードやモスクワに偏っていたからでしょう。

敵国側の報道を直接的に禁止することは不当であるだけでなく、有害なことです。つまり、
米国民は知っているべきだったのです-----侵攻の直前に、ロシアの外相が「すべての鍵は、
NATOが東方拡大をしないという保証である」と強調していたことを。東方拡大とは、この
場合、ウクライナの加盟であり、それは何十年にもわたって越えてはならぬ明確な一線でした。
おぞましい犯罪行為を避けようとする意向、よりよい世界をのぞむ意向がもし本当であったの
ならば、この東方不拡大の保証は追求すべき足がかりだったのですが。

侵攻が実際に始まってからも、ロシア政府の声明には追求すべき足がかりがありました。
たとえば、5月の29日にロシア外相のラブロフ氏はこう言っていました。

「われわれの目標は以下の通りである。まず、ウクライナの非軍事化(ロシアの領土を
おびやかす兵器が配備されてはならない)。次に、ウクライナ憲法と慣習に沿った、同国内の
ロシア人の各種権利の回復(現ウクライナ政府は反ロシア的法律を採用することで憲法に違反
している。また、慣習はウクライナを越えて広く及んでいる)。そして、ウクライナの非ナチ化
である。ウクライナの日常生活にはナチとネオナチの言説と活動が深く浸透し、それは法律
にも成文化されるに至っている」。

これらの言葉を、米国民がテレビのスウィッチ一つで知ることができれば有益でしょう-----
少なくとも、破滅的な戦争に飛び込むよりも、この惨事を終わらせることに多少でも関心が
ある米国民にとっては。別の米国民は、この破滅的な戦争を茶葉占いから導き出し、暴れ狂う
熊がわれわれ全員を平らげる前に檻に入れることを主張していますが。

C・J・ポリクロニオ:
ロシア・ウクライナ政府間の和平交渉は春の初め辺りから停滞しています。当然のことながら、
ロシアは自国に有利な形で和平を押しつけたい。一方、ウクライナは、戦場でのロシアの
見通しが悪くなるまで交渉に応じないという方針のようです。
この紛争は近いうちに収束するとお考えですか。和平交渉は宥和政策にすぎないのでしょうか。
それに反対している人々はそう主張していますが。

ノーム・チョムスキー:
交渉が停滞しているかどうかははっきりとはわかりません。報道自体がかぎられているから
です。
けれども、「戦争終結に向けての協議がふたたび議題にのぼっている」らしくはあります。
すなわち、「ウクライナ、トルコ、国連間の話し合いからは、ウクライナ政府がモスクワとの
協議を前向きに検討している空気が感じられる」、と。そして、「ロシア軍の進撃が続いて
いることを考慮すれば」、ウクライナ政府の「戦争終結に向けた外交的解決への抵抗感は
薄れている」かもしれません。
そういうことであれば、プーチン大統領の「表明した、和平交渉への熱意が実際には嘘である」
か、それとも、内実をともなったものなのか、それを決定することはプーチン大統領自身に
かかっています。

現在起こっていることは模糊たる霧の中です。それは、以前論じたことのある「アフガニスタン
という罠」を想起させます。
あの時、アメリカはロシアとの代理戦争を「アフガン人の最後の一人に至るまで」戦おうとして
いました。この表現は、コルドベス氏とハリソン氏の2人がその決定版的な共著の中でもちいた
もので、その共著では、外交的解決を阻止しようとするアメリカの試みにもかかわらず、国連が
どうにかソビエト軍の撤退をお膳立てしたその経緯を詳述しています(訳注・4)。
当時、カーター大統領の下で国家安全保障問題担当大統領補佐官であったズビグニュー・
ブレジンスキー氏は、ソビエトの侵攻をそそのかしたことを自分の功績に帰し、「激した
イスラム人」という代価をもたらしたものの、その結果に拍手を送りました。

(訳注・4: この共著とはおそらく Out of Afghanistan: The Inside Story of the Soviet Withdrawal
(『アウト・オブ・アフガニスタン-----ソビエト撤退の内幕』)、オクスフォード大学出版局、
1995年刊)を指す)

今日、私たちはこれと似たような事態を目撃しているのでしょうか。たぶん、そうなのでしょう。

もちろんロシアは自国に有利な形で和平を押しつけたいと思っています。交渉による外交的解決
とは、自分自身の要求のいくつかは断念しつつ、双方が承認するものです。交渉に関して、
ロシアが本気かどうかを確かめる術は一つしかありません。やってみることです。うしなうもの
は何もありません。

戦闘の展開予想については、軍事専門家が自信たっぷりに、しかし、際立って相反する意見を
述べています。私はその種のことについて語る力はありません。ただ、遠くから見ていて、
いわゆる「戦場の霧」はまだ晴れてはいないと言うのが妥当であろうと思っています。
目下の米国の姿勢ははっきりしています。あるいは、少なくともはっきりしていました-----4月に
ラムシュタイン空軍基地で開かれた、NATO加盟国と米国が組織したその他の国の軍事指導者
たちによる会合では。すなわち、「ウクライナ政府は自国の勝利を断じてうたがっていないし、
この会合に参加している者全員もまた同様」、です。
その時実際にそう信じられていたかどうか、あるいは、今でもそう信じられているかどうか、
それは私にはわかりません。そしてまた、それを確かめる手立ても持ち合わせていません。

一応言わせていただくと、私は個人的には英労働党の党首であったジェレミー・コービン氏の
言葉に敬意をはらっています。ラムシュタイン空軍基地での会合が開かれたその日のうちに
発表されたものです。それは、同氏の労働党からの事実上の追放に一役買うことになりました。
「ウクライナについては、ただちに停戦しなければならない。そして、それに引き続き、
ロシア軍の撤退、および、今後の安全保障体制に関するロシア・ウクライナ間の協定が必須
である。すべての戦争は何らかの形の交渉に終わる。であるから、今それを試みたらどう
であろう」、と。


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[補足など]

■元サイトに掲載されている写真その他やインタビュアーのC・J・ポリクロニオ氏に関する
詳細な紹介文は割愛させていただきました。


■ここで述べられている、アメリカを代表とする欧米諸国での静かな形での検閲、思想統制、
洗脳、プロパガンダなどについては、これまでも何度か言及したように、チョムスキー氏が
エドワード・ハーマン氏との共著の形で上梓した

『Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media』

(邦訳は、
『マニュファクチャリング・コンセント-----マスメディアの政治経済学 1・2 』(2巻本、
トランスビュー社、中野真紀子訳)

で詳細に分析されています。

チョムスキー氏語る・8-----ロシア・ウクライナ紛争について(2021年12月23日)

2022年04月22日 | 国際政治

チョムスキー氏のブログ https://chomsky.info/ は長い間変化がなかったので油断して
いました。最近、大幅に更新されていました。
その中から、ロシア・ウクライナ紛争についてのインタビュー記事を今回は選びました。

ただし、昨年の12月23日に公開されたもの、つまり、ロシアが侵攻する前であり、ロシア
がウクライナとの国境に軍を集結させて緊張が高まっていた頃のものです。

また、この紛争の現実的な解決策については、チョムスキー氏は、英国の著作家で政策
アナリストでもあるアナトール・リーヴェン氏の意見に同意していて、特に独自の解決策
を提示しているわけではありません。


タイトルは
Chomsky: Outdated US Cold War Policy Worsens Ongoing Russia-Ukraine Conflict
(チョムスキー: 米国政府の時代遅れの冷戦政策が目下のロシア・ウクライナ紛争の悪化を
もたらす)

インタビューの聞き手は C.J. Polychroniou(C・J・ポリクロニオ)氏。


原文はこちら
https://chomsky.info/20211223/


(ネットでの可読性の低さを考慮し、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に
改行をおこなった)


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Chomsky: Outdated US Cold War Policy Worsens Ongoing Russia-Ukraine Conflict
チョムスキー: 米国政府の時代遅れの冷戦政策が目下のロシア・ウクライナ紛争の悪化をもたらす



Noam Chomsky Interviewed by C.J. Polychroniou
C・J・ポリクロニオによるインタビュー

2021年12月23日 『トゥルースアウト』誌


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(『トゥルースアウト』誌による前文)

ロシア・ウクライナ間の国境をめぐる緊張は、多くの文化的共通点を有したこの2国の目下
進行中の係争を象徴しているだけではない。それは、一方に米国と欧州、もう一方にロシア
を置いた、ずっと大きな角逐の一部でもある。
本誌による、以下のチョムスキー氏への独占インタビューの中で、同氏が読者に思い出させ
ているように、ウクライナは、2014年に、親ロ派の政府が米国の支援を受けたクーデター
によって打倒され、米国と欧州の支持する政府が政権を掌握した。
この展開は、冷戦時代の2つの超大国を戦争の淵に近づけるものであった。ロシアは、米国と
欧州によるウクライナへの干渉、および、北大西洋条約機構(NATO)の執拗な東方拡大の
2つを、ロシアの「封じ込め」をねらった狡猾な戦略と見なしたのである。
この「封じ込め」という戦略は、まさしくNATOと同じぐらいの歴史を持っている。かくして、
プーチン大統領はつい先頃、ウクライナ、そしてさらに、旧ソ連の勢力圏にあった地域まで
をもふくむ領域でのロシアの行動に関して、一連の要求事項を米国とNATOに示したのであった。
また、同時に、ロシアの上級官吏は、もっと大胆に、もしNATOがロシアの国家安全保障上の
懸念を無視し続けるなら軍事的対応もあり得ると警告した。

チョムスキー氏が以下に述べているように、ロシア・ウクライナ間の紛争は解決可能である。
だが、巷間では、アメリカがずっと「ゾンビ政策(死んでも動き続けるゾンビのように、
古くさいが消滅しない政策)」のとりこであり続けるのではないかという懸念がささやかれて
いる。そのゾンビ政策の帰結は、外交が失敗した場合、恐るべき破局をもたらす可能性を
はらんでいる。

ノーム・チョムスキー氏は、今存命の知識人のうちでもっとも重要な人々の一人であると
世界的に認められている。
知の世界における同氏の偉大さはガリレオやニュートン、デカルトのそれになぞらえられて
きた。その業績が学問的探求、科学的探求の幅広い分野にわたって、甚大な影響をおよぼした
からである。その分野には言語学、論理学、数学、コンピューター・サイエンス、心理学、
メディア研究、哲学、政治学、国際関係論、等々がふくまれる。
その著作はおよそ150冊にもおよぶとともに、同氏はきわめて権威の高い賞を数々授けられ
てきた。たとえば、シドニー平和賞、京都賞(日本におけるノーベル賞と言ってよい)など
である。また、世界的に著名な大学からあまたの名誉博士号を得ている。
マサチューセッツ工科大学(MIT)名誉教授であり、現在はアリゾナ大学言語学栄誉教授と
して同大学で教鞭をとっている。

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C・J・ポリクロニオ:
1980年から1991年にかけてのソビエト連邦の瓦解を受けて、ウクライナの人々は、1991年に
圧倒的多数の支持の下、この共産主義帝国からの独立を宣言しました。
ウクライナはそれ以来、欧州連合(EU)と NATO との密接な関係構築に努めてきました。が、
このような動きにロシアは反対をとなえています。ウクライナはロシアの一部であると長年
見なしてき、それゆえ、同国の内政に干渉し続けてきました。
それどころか、2014年には同国を戦場と化さしめました。プーチン大統領がクリミアを併合
すると決めたからです。同大統領はクリミアをロシアの「魂の源」と表現しました。そして、
以来、この2国の間の緊張は解消しがたいものとなっています。
このロシア・ウクライナ間の紛争の背後には何があるとお考えでしょうか。

ノーム・チョムスキー:
もちろん、付言しておくべきことはあります。
2014年に起こったことは、いずれにせよ、米国の支援を受けてのクーデターであり、それに
よってロシア寄りの政府が米国・EU寄りの政府に変わったのです。
それがクリミアの併合につながりました。ロシアにとって唯一の不凍港とその海軍基地を
維持掌握することが、その主なねらいでした。そしてまた、クリミアの人々のかなりの
割合がそれをうべなったと見られます。
これらの複雑な事情については、さまざまな学術的文献が存在します。代表的なものは、
リチャード・サクワ氏の『前線のウクライナ』や氏の最近の述作です。

また、現在の状況についての秀抜な議論が最近の『ネーション』誌に掲載されました。
アナトール・リーヴェン氏の書かれたものです。
同氏は、現実的な論の中で、ウクライナは「世界でもっとも剣呑な[喫緊の]問題である」と
ともに、「原理的にはもっとも解決の容易な問題でもある」と述べています。
その解決方法はすでに提示され受け入れられています-----原則的には。すなわち、「第2次
ミンスク合意」です。2015年にフランス、ドイツ、ロシア、ウクライナ間で採択され、
国連安全保障理事会が満場一致で支持した取り決めです。
その取り決めでは、ウクライナにNATO加入を勧めたブッシュ大統領の提言を引っ込める
ことが暗黙の前提となっていました。そして、オバマ大統領もまたこれを支持しました。
ところが、フランスとドイツは拒否しました。ロシアの指導者であれば誰であれ、こういう
展開は甘受しないでしょう。
この「ミンスク合意」が求めるのは、ロシア寄りで分離派の地域(ドンバス)の武装解除、
および、ロシア軍(義勇軍)の撤退です。そしてまた、和平に向けての中核的条件を細かく
規定しています。つまり、「3つの根本的で相互依存的な要素、すなわち、非武装化、
ウクライナの主権回復(対ロシア国境の管理をふくむ)、ウクライナにおける全般的な権力
分散化を背景にしてのドンバスの完全自治」です。
このような展開の最終形態は、アメリカを初めとする他の連邦制国家とそれほどかけ離れた
ものではないでしょう、こうリーヴェン氏は述べています。

「第2次ミンスク合意」は、そのさまざまな措置の実施期日について意見がまとまらなかった
ために宙ぶらりんとなっています。
この問題は、リーヴェン氏の言葉を借りると、米国の政界とメディアの間では「埋められて」
います。「ウクライナ政府がこの合意事項の履行を拒んでいること、および、米国政府が
その履行に向けて圧力をかけることを拒んでいること、の2つが原因です」。
同氏は、そして、こう結論づけています。米国は「ゾンビ政策」-----まだ生命をたもっている
ふりをし、全員の邪魔者となりながらさまよっている、すでに効力を失った戦略-----をずっと
維持し続けている。というのも、その政策策定者たちは、それを土に埋める勇気がないから
である、と。

現在の差し迫った危機は、この「ゾンビ政策」を埋葬し、理にかなった政策を採用すること
を至上命題とします。

目下の行き詰まりを打開するのは容易ではありません。ですが、リーヴェン氏も述べている
ように、他の選択肢は考えるだにおそろしいものです。
肝心な点は理解されています。つまり、ウクライナにはオーストリア型の中立が求められて
いるということです。それは、すなわち、軍事同盟もしくは他国の軍事基地がないこと、
そして、「第2次ミンスク合意」に大筋に沿った形で国内の不和を解消すること、を意味
します。

したがって、この「世界でもっとも剣呑な問題」は、わずかばかりの理性を働かせれば
解決が可能なのです。

より広い文脈で問題をとらえるためには、30年前のソビエト連邦の崩壊にまでさかのぼら
なければなりません。
ソ連の崩壊後に確立されるべき世界秩序のあり方をめぐり、3つの際立ったヴィジョンが
ありました。
3つが共通して受け入れたのはドイツが統一されること、そしてNATOに加盟することでした。
ロシアにとっては並々ならぬ譲歩です。なぜなら、それまでの1世紀の間に、ドイツは単独で
-----敵対的な軍事同盟の中の一国としてではなく-----ロシアを2度も壊滅状態におとしいれた
という経歴をほこっていたからです。加えて、ロシアでボルシェビキが政権を奪取した時
には、他の西側諸国(米国をふくむ)と協力して、すぐさま「介入」したという過去も
持っています。

上記の3つのヴィジョンのうちの一つは、ゴルバチョフ氏のものです。大西洋岸からウラジオ
ストクまでをカバーする、軍事同盟なしの、包括的なユーラシア大陸安全保障体制でした。
しかし、米国はこれを決して選択肢の一つとは考えませんでした。
もう一つのヴィジョンは、ジョージ・ブッシュ大統領とその大統領補佐官であるジェイムズ・
ベイカー氏が提唱し、西ドイツが賛同したものです。NATOは「東へ1インチ」たりとも-----
東とは東ベルリンを意味します-----拡大することはない。それを超えることは、少なくとも
公的には検討されていませんでした。
最後のヴィジョンは、クリントン大統領の示したものです。NATOはロシア国境にまでせまり、
その隣接諸国で軍事演習をおこなう、そして、国境地帯に兵器を配備する。この兵器は、
たとえ米国がその近隣に多少でも似たような状況を許す(考えがたいことですが)としても、
その場合、確実に攻撃用兵器と見なすであろう類いの兵器です。
採用されたのは、この最後の「クリントン・ドクトリン」でした。

かかる非対称性はかなり深く根をはっています。
それは、米国が唱道する「ルールに則った国際秩序」における中核的構成要素の一つです
(そのルールは、偶然にも、米国が定めました)。この国際秩序は、古くさいとされる国連
ベースの国際秩序に取って代わったものです。その国際秩序では、国際問題に関して「武力
による威嚇または武力の行使」を禁じていました。
この条件は、ならず者国家にとっては受け入れがたいものでした。彼らは、武力による威嚇
を用いる権利をたえず要求しましたし、思いのまま武力にうったえる権利も要求しました。
この重要な問題については、以前にも論じましたが。

このルールに則った非対称性を如実にあらわす事例で知っておくべきものは、フルシチョフが
キューバに核ミサイルを配備したことに対するケネディ大統領の対応です。
核ミサイルの配備は、そもそもケネディ政権がキューバへのテロ攻撃のクライマックスとして
侵攻する、その脅威に対抗するための手段でした。また、フルシチョフが攻撃用兵器の相互
削減を申し出たのに対してケネディ政権が大幅な兵力増強で応じたこと(攻撃用兵器に
関しては米国がはるかにリードしていたにもかかわらず)への対抗措置でもありました。
大惨事に至る戦争を招きかねなかったきわめて重大な問題は、ロシアに照準を定め、トルコ
に配備された米国の核ミサイルのあつかいでした。
キューバ危機がぶきみに戦争へと近づいていく過程で焦点となったのは、そのトルコの核
ミサイルが(フルシチョフの要請通り)おおやけに撤収されるべきか、それとも、(ケネディ
の主張通り)極秘にそれがおこなわれるべきかというものでした。
実際には、米国はすでに撤収を決定していました。代わりに、はるかに脅威的なポラリス
潜水艦を配備することになっていました。つまり、まったく撤収どころではない、事態の
深刻化に資するだけのふるまいです。

このような決定的な非対称性が思考の前提となっています。世界秩序における犯すべから
ざる原則となっています。そして、それはクリントン大統領がNATOドクトリンを推し
進める過程で、より幅広く根づきました。

ここで思い起こすべきは、このNATOドクトリンは、より広範な「クリントン・ドクトリン」
を構成するほんの一要素であるということです。
「クリントン・ドクトリン」は「重要な市場、エネルギー供給、戦略的資源への自在な
アクセスの確保」等のきわめて重要な国益を守るために、米国に「必要な際には一方的に」
軍事力を行使する権利をあたえるものです。
このような権利を主張できる国は他にありません。

ブッシュ大統領とベイカー国務長官が提唱した上記のヴィジョンのあつかいについては、
学者の間でさまざまに議論されています。
この2人の申し出は言葉の上だけのこと-----米国がすぐさま約束を反故にして東ベルリンに
軍を配備した際、その正当化のために持ち出した論がこうでした。
しかし、基本的な事実には、疑う余地はほとんどありません。

C・J・ポリクロニオ:
NATOが設立されたのは、西側民主主義諸国に対するソビエト連邦の脅威に対応するため
であると言われていました。
ところが、冷戦が終了してもNATOは姿を消すことはなく、それどころか、東方に拡大を
続け、実際上、現在のウクライナを将来の加盟国と考えています。
今日のNATOとは、いったいどんな存在なのでしょう。また、それは、ロシアとの国境に
おける緊張を高めていること、および、潜在的にあらたな冷戦を招き寄せていることに
ついて、どの程度責任があるでしょうか。

ノーム・チョムスキー:
東方への拡大-----それにともなっての定期的な軍事演習と脅威的な兵器システムの配備
-----は、明らかに緊張を助長する因子の一つです。ウクライナをNATO加盟にいざなう
ことは、これを上回る助長因子であることは言うまでもありません。すでに述べたように。

きわめて剣呑な現状況を考える上で思い起こすべきことは、NATOの創立と「脅威と
されるもの」についてです。
この話題については、言うべきことがたくさんあります。とりわけ、ロシアの脅威なる
ものが、政策策定者たちによって実際にどう受け止められていたか、について。
精査してみると、その脅威なるものは、「真実よりも判然とした」やり方で「米国民を
震え上がらせるために」用いられた激烈なレトリックとはかなり様相がちがったもの
であることがわかります(前者の表現はディーン・アチソン氏、後者のそれは上院議員の
アーサー・ヴァンデンバーグ氏のものです)。

よく知られていることですが、大きな影響力を持った政策策定者であるジョージ・ケナン
氏は、ロシアの脅威を政治的もしくはイデオロギー的なものと考えていました-----軍事的な
ものではなく。
ところが、ほぼ捏造と言ってよいパニックに同調しなかったために、同氏は早々に地位を
追われてしまいました。
ともあれ、ハト派中のハト派の側ではどのように世界がとらえられているかを知ることは、
いつもさまざまな示唆をあたえてくれます。

内務省の政策企画部のトップであったケナン氏は、第二次大戦後のロシアの脅威について、
1946年の時点で非常に懸念を抱いており、ドイツの分割が、戦時の協定に反するにも
かかわらず、必要であると感じていました。
その理由は、「東側の侵入からドイツの西側ゾーンを壁で守ることで救う」必要性でした。
これは、もちろん、軍事力による侵入ではなく「政治的な侵入」です。ソビエト側はこの点で
優位な立場にありました。
ケナン氏は、1948年に、こう助言しています。「インドネシアの問題は、われわれがソ連と
対峙する上で、目下、最重要の案件である」、と。もっとも、ソ連の影はどこにも見当たり
ませんでしたが。
それが最重要である理由は、インドネシアがもし「共産主義」の手に落ちたら、それが
「西方に吹き渡る感染症」となって、南アジア全体を席捲し、さらには中東における
米国の覇権をおびやかすおそれがあるということでした。

政府の内部文書には、同様の、漠然とした現実認識の例があちこちに散りばめられています
-----時にはきわめて明確な認識を示す例もありますが。
全般的に言って、米国の影響力のおよばないものは何であれ、それは「クレムリン」
(ソビエト政府)と結びつけられました-----1949年までは。それ以降は、時に「中ソの陰謀」が
要求を満たすべく持ち出されました。

ロシアはたしかに一つの脅威です-----東欧の一帯では。それはちょうど世界の多くの地域で
米国とその西側同盟国の脅威が認められているのと同じです。そのおぞましい歴史の具体的な
事例について今さら述べる必要はないでしょう。NATOはその中ではほとんど役割をはたして
いません。

ソビエト連邦の崩壊とともに、NATOの存在を公的に正当化する口実がなくなりました。
それで、何か新しい理由を案出しなければなりませんでした。もう少し広く言えば、
暴力と政府転覆のためのあらたな口実です。
その一つは、人々がすぐさま飛びついた、いわゆる「人道的介入」です。
この概念はほどなく「保護する責任」(Responsibility to Protect = 略称 R2P)という
教義の中に位置づけられました。
これには、2つの流儀が定式化されています。
1つの公的なそれは、2005年に国連が採用したものです。
これは、R2Pに無関係な状況を除いて国際問題における「武力による威嚇または武力の行使」
を禁じている国連憲章の厳しい枠組みに沿っており、ただ諸国家に人道法を遵守するよう
求めるだけのものでした。

これが「保護する責任」(R2P)の公式的な解釈です。
もう一つの流儀は、「保護する責任をめぐる、介入および国家主権に関する国際委員会の
報告書」(2001年)によって定式化されたものです。
元オーストラリア外相のガレス・エヴァンス氏の肝いりで発表されました。
それは、公式的な解釈とは一つの決定的な点で異なっていました。「国連安全保障理事会が
提案を拒絶するか、もしくは適当な期間内に対処しない」場合において、です。
かかる場合は、「憲章の第8章に基づき、地域のもしくは地域に準じる、組織の管轄区域内の
行動」(ただし、事後に国連安全保障理事会の承認を求めることを条件とする)に報告書は
権威をあたえています。

実際のところは、介入する権利なるものは強国の専有物、今日の世界ではNATO加盟国の
専有物となっています。これらの国々はまた一方的に自身の「管轄域」を決定することが
できます。
そして、実際にそうしてきました。
NATOはおのれの「管轄域」には、バルカン、それからアフガニスタン、そしてまたそれ
よりもっと遠方の地域がふくまれると一方的に宣言しました。
NATOの2007年6月の会合において、事務総長のヤープ・デ・ホープ・スヘッフェル氏は、
こう指示しています。
「NATO軍は、欧州に向けて石油と天然ガスを移送するパイプラインを守護しなければ
なりません」。また、より広く言って、タンカーが航行する海路やエネルギー・システム
における他の「きわめて重要なインフラ」を守らなければなりません、と。
つまり、NATOの「管轄域」は世界を覆っているのです。

もちろん、賛同しない国もあります。とりわけ、欧州とその分家のありがたい指導を長年
受けて、被害をこうむってきた国々です。
これらの国々の意見は、決まって無視されるとはいえ、はっきりと表明されました。133ヵ
国による「南サミット」の第1回会合(2000年4月)においてです。
その宣言文では、明らかに直近のセルビアに対する空爆を念頭に置いて、「人道的介入の
『権利』と称されるもの」を拒否しました。それは「国連憲章、もしくは、国際法の一般
原則に法的根拠を有していない」からです。
この宣言文の言い回しは、同様の趣旨を述べたこれまでの国連の宣言を再確認するもの
であり、「保護する責任」(R2P)の公式的な解釈にも共通してうかがえるものです。

以来、一般的な行き方は、何がなされるにしても正当化の根拠として公式的な国連の解釈に
言及しながら、具体的な行動の決定についてはエヴァンス委員会の解釈に忠実にしたがうと
いうものでした。

C・J・ポリクロニオ:
さまざまな兆候から、ロシアがウクライナを攻撃する兵力を準備しつつあると言われています。
軍事アナリストの中には、年が明けて数ヶ月のうちに攻撃が始まる可能性があると主張する
人もいます。
ロシア・ウクライナ間の紛争にNATOが軍事的に介入する見込みは小さいと思われます。
ですが、ロシアによるウクライナ侵攻が世界の地勢を劇的に変容させることはまずまちがい
ありません。
この紛争を解決するもっとも現実的な方法はいかなるものでしょうか。

ノーム・チョムスキー:
それが示唆するのは、過酷で、あまりありがたくない展開です。
厳正なアナリストの大半は、プーチン大統領が侵攻に着手するかどうかを疑っています。
侵攻すると失うものが大きいからです。すべてを失うかもしれません-----もしアメリカが
軍事力で対応しようとするならば。この可能性は十分考えられることです。
プーチン大統領にとってみれば、のぞみ得る最良の展開でも、ロシアが過酷な「終わりの
ない戦争」に突入し、きわめて厳しい制裁措置やその他の強硬な手段にうったえられる
というものでしょう。
私が思うに、プーチン大統領の意図は、自分がロシアの国益と考えるものを欧米諸国が
軽視しないよう警告を発することです。これにはもっともな点があると言えます。

現実的な解決法はあります。アナトール・リーヴェン氏が輪郭を描いたものです。
同氏が論じているように、他の解決法を思い描くことは容易ではありません。そしてまた、
今のところ、提示されてもいません。

幸いなことに、この解決法は私たちの手の届くところにあります。
ことのほか重要なのは、一般市民の意見が昔ながらの手管で燃え上がらないようにする
ことです。それは、過去に大惨事へとみちびいたわけですから。


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[補足など]

■本ブログの以前の回で、チョムスキー氏がウクライナにふれた文章もぜひ参照してください。

・チョムスキー氏のコラム-----ウクライナ情勢にからんで
(2014年07月10日)
https://blog.goo.ne.jp/kimahon/e/a7e37143aebbdb44e97342e734ab5c09



同じく本ブログの以前の回の、ジェイソン・ハースラー氏による文章も。

・米国のメディア監視サイト・2-----ウクライナをめぐる英米メディアの偏向
(2014年05月14日)
https://blog.goo.ne.jp/kimahon/e/e941ac532b05425af3fe8fb07e2f38ce


米国政府後援の南米クーデターを礼賛する『ニューヨーク・タイムズ』紙

2021年07月24日 | メディア、ジャーナリズム

今回は本ブログ恒例の(笑)『ニューヨーク・タイムズ』紙批判です。
(もっとも、同紙は代表例として選ばれただけで、批判はほぼすべての英米大手メディアに
当てはまります)
初出は2年半ほど前の文章ですが、おもしろく読んだので、今回ここに訳出しておく次第
です。


原題は
Your Complete Guide to the N.Y. Times’ Support of U.S.-Backed Coups in Latin America
(米国後援の南米クーデターを支持する『ニューヨーク・タイムズ』紙の完全ガイド)

書き手は Adam Johnson(アダム・ジョンソン)氏。
ニューヨーク在住のジャーナリストで、『FAIR』(米国の著名なメディア監視団体)に
メディア批評をたびたび寄稿している方らしい。
初出の掲載元はオンライン・マガジンの『トゥルースディグ』誌。


原文サイトはこちら↓
https://www.truthdig.com/articles/your-complete-guide-to-the-n-y-times-support-of-u-s-backed-coups-in-latin-america/


(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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2019年1月29日 『トゥルースディグ』論説


Your Complete Guide to the N.Y. Times’ Support of U.S.-Backed Coups in Latin America
米国後援の南米クーデターを支持する『ニューヨーク・タイムズ』紙の完全ガイド




この金曜、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、長年おなじみとなった同紙の伝統-----米国
政府による南米のクーデターを支持するという伝統-----にあらたな一ページを加えた。
その論説で、ベネズエラのマドゥーロ大統領を失脚させるというトランプ大統領の企てに
対して、称賛の言葉を送ったのである。
これは、CIAが約70年前に創設されて以降、同紙の支持したこの種のクーデターで、10番
目の例ということになろう。

『ニューヨーク・タイムズ』紙の過去記事に当たってみると、同紙の編集委員会が、米国
政府の後押しした南米のクーデター12例のうち、10例を支持したことがわかる。
支持していない2つの例の論説は、1983年のグレナダ侵攻と2009年のホンデュラスの
クーデターをあつかったもので、前者については不得要領のおもむきを持ち、後者は渋々
ながらの反対を表明するものであった。
これら過去記事における内訳は以下の通りである。

---------------

[クーデター、クーデターに対するクーデター、未遂クーデター、クーデターに対する未遂
クーデター、および、これらに対する『ニューヨーク・タイムズ』紙の論説の態度]

・1954年-----グアテマラのクーデター-----支持
・1961年-----キューバのピッグズ湾侵攻-----支持
・1964年-----ブラジルのクーデター-----支持
・1965年-----ドミニカ共和国侵攻-----支持
・1973年-----チリのクーデター-----支持
・1976年-----アルゼンチンのクーデター-----支持
・1983年-----グレナダ侵攻-----不支持もしくは態度が不明確
・1989年-----パナマ侵攻-----支持
・1994年-----ハイチ侵攻-----支持
・2002年-----ベネズエラの未遂クーデター-----支持
・2009年-----ホンデュラスのクーデター(ただし、CIAの関与は不明)-----態度が不明確
・2019年-----ベネズエラの未遂クーデター-----支持

---------------

上記の事象における米国政府の水面下の関与は-----それがCIAの働きであろうとその他の
諜報機関のそれであろうと-----、『ニューヨーク・タイムズ』紙の論説においては、いっさい
言及されない。
米軍による白昼堂々たる、否定し難い軍事侵攻(ドミニカ共和国、パナマ、グレナダなど
の事例)でないかぎり、南米諸国での争乱はまったくその国自身の問題であるかのよう
であり、外国の勢力については、『ニューヨーク・タイムズ』紙の論説ではまずふれられ
ない。
これらの事象の直後であれば、たしかに「立証可能」なことはかぎられている(いわゆる
「隠密介入」は、定義上「隠密」、すなわち表にあらわれることはないからである)。
しかし、米国その他の帝国主義国家が水面下で混乱をあおり、反対勢力に資金拠出し、
武器売買にかかわっている等々の可能性については、けっして考察がおよばないのである。

これらの事象をめぐる同紙の論説を読むと、たいていの場合、読者は「暴力の連鎖」と
いう、人種差別的で、父親的温情主義の目線による常套句に逢着することになる。
「やれやれ、南米ではいつもこんな調子だ」というニュアンスである。
読者は、下に引用する同紙の論説の一節を読む際に、当該国の政治指導者を最終的に殺害
するに至った勢力に物資を供与し、資金を拠出したのは米CIAであった事実を頭のスミに
置いていてもらいたい。

・1964年のブラジルのクーデターについて。
「ブラジル国民は、建国以来ずっと、優秀な指導者の不在に苦しんできた」。

・1973年のチリのクーデターについて。
「チリのいかなる党もしくは派閥も、同国の悲惨な状況に関して、何らかの責任を追及
されずにはすまない。しかし、大きな責任はあわれなアジェンデ大統領自身に帰せられ
なければならない」。

・1976年のアルゼンチンのクーデターについて。
「多くのアルゼンチン国民が自国政治に抱く不信感を考慮すれば、ブエノス・アイレスの
住民の大半が、軍部によるイサベル・ペロン大統領の追放劇よりも火曜の夜に放映される
サッカー試合に関心があるらしく思われるのは、いかにもの話であった。クーデターは
かなり前から予想されていたから、出来事の展開におどろく要素はなかった」。

(この論説は「ほら、たいした問題じゃなかったんですよ!」といわんばかり。
ちなみに、次の事実は言い添えておく価値があろう。米CIAの工作によるクーデターの
おかげで権力を掌握したこの軍事政権は、1976年から1983年にかけて、1万~3万人の
アルゼンチン市民を殺害したのである)

おどろく要素のない出来事の展開とは、次のようなものだ。
米CIAおよびそのパートナーである米国企業が登場する、経済戦争をしかける、現行政権
の反対勢力に資金や武器を提供する、作戦の標的たる人物やグループを激しく非難する
...... という具合である。
もちろん、当該国に対する『ニューヨーク・タイムズ』紙の批判のいくつかに妥当性が
まったくないなどと言うつもりはない-----1973年のチリについても、あるいは、2019年の
ベネズエラについても。
しかし、それは問題の急所ではない。
CIA、米国防総省、そして、そのパートナーである民間企業群がこれまで南米のさまざまな
政府を標的にしてきた理由は、これらの政府が資本や戦略の点で米国の利益と対立的で
あったからである。反民主主義的であったからではない。
であるから、これら政府の反リベラル的な行状をめぐる『ニューヨーク・タイムズ』紙の
数々の申し立ては、ときに真実をついているとしても、現に起こっていることの実態を
解きほぐしてみると、たいがいは無理のある論ということに落ち着くのである。

はたしてアジェンデ大統領は、『ニューヨーク・タイムズ』紙が1973年に同大統領の暴力
的な排除を支持した際に述べたように、「チリ国民の信任」なしに「広範囲にわたる社会
主義計画をかたくなに推し進めた」のであろうか。
アジェンデ大統領は、はたして同紙が主張したように、「この目的を達せんがために、
いかがわしい手段-----議会と裁判所の双方を迂回する工作など-----に訴えた」だろうか。
そうかもしれない。
しかし、同大統領のいわゆる「独裁体制」は、米CIAがその打倒を画策した理由ではない。
同大統領による再分配の政策を追求するそのやり口が、CIAとそのパートナーである米民間
企業の意向に反したからではない。
再分配をめぐる政策そのものが問題であったのだ。

アジェンデ大統領の政策遂行時の反民主的な性格について嘆き、その際に、反対勢力を
活気づけているのは大統領の手法ではなく政策そのものであることにふれないのは、権力
者層が実際にかわしている議論の領域からはずれることになる。
『ニューヨーク・タイムズ』紙はいったいどうして米国が介入する際のリベラル的な理由
づけを毎度毎度あっさり受け入れるのであろうか-----ほかにもっと現実的な要因が働いて
いる可能性を深く検討することなしに。

その答えは、愚劣なイデオロギーが大前提としてしっかり根をすえているからだ。
米国が人権と民主主義に突き動かされているという考え方は、『ニューヨーク・タイムズ』
紙の論説委員にとって当たり前のことであり、同紙の創業当初から一貫してそうであった。
このような信念のおかげで、非常に骨の折れる仕事をやり遂げることができるのだ。その
結果、大多数の人間は-----南米をめぐる米国の思惑に漠然と不信感を抱いているリベラル派
の人間でさえ-----、巧妙な工作がおこなわれていることに気づかないのである。
「ここ数十年の間」、と2017年の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、ロシアを叱責する
論説で切り出す。「軍事力を行使した米大統領を動かしたものは、自由と民主主義を推進
するという意欲であった。そして、それは、時にめざましい成果を上げた」。
いやはや、まったくそれならけっこうな話である。

そもそも米国の軍とその秘密機関による他国への不当な介入について論じられるべき
であるのに、それがすみやかに当該国の道徳的性向について是非を問うものに移行して
しまう。
理屈の上では、それはのぞましい議論である(そしてまた、当該国の一般市民の間や当局
において、まちがいなくかわされている議論である)。
しかし、当初の公理-----米国のニュース番組解説者と政府の国家安全保障当局が他国の
善悪を決定する生得的な権利を有しているという理屈-----の根拠について議論することが
なければ、道徳性うんぬんの話は実際的な目的のためには国内でほとんど意味をなさない。
見せかけのポーズということでなければ。
そして、しばしば、現実問題としては、この道徳性うんぬんの話は、介入自体を正当化
する、より広範な言説を強化する方向に働くのである。

米国とその同盟国は、ベネズエラの今後の政治を決定する道徳的もしくは倫理的な権利を
有しているだろうか。
この問いはただちに黙殺され、次の問いに移行してしまう。つまり、上記の、米国とその
同盟国にとっての自明の権利がいかにうまく行使できるか、という問いに。
これが、『ニューヨーク・タイムズ』紙、それどころか、実質上、米国メディアのすべて
でおこなわれる議論の中身である。
「厳正な人間が外交政策を厳正に議論する」というカード・ゲームにおいて、人は賭け金
をつり上げるべく、「米国政府認定の悪玉国家に対する公然たる非難」という記録を計上
しなければならない。
これはすべての人間が心得ていることであるから、米国のレジーム・チェインジ(体制
転換・政権転覆)の核となる諸前提は、うのみにされてしまう。レジーム・チェインジが
反対されるのは、実際的もしくは法的な観点からであるにすぎない。
このカード・ゲームはおもしろみのない、しんどい営みであって、その意図するところは、
議論の軸を、米国政府による恣意的で暴力的な他国政府の打倒の歴史からそらし、米国が
当該の「米国政府認定の悪玉国家」にいかに適切に対抗するかの争論に移すことである。
米国のリベラル知識人たちは、これら「米国政府認定の悪玉国家」に関する成績通知表を
作成し、随時更新することになっている。
そして、これらの国が、反民主主義的なふるまいや人権問題等のあいまいな観点から、
たとえば「60点」を下回った場合、「不適法」と認定され、したがって、「擁護に値
しない」ことになるのである。

南米の話ではもちろんないが、イランのモハマド・モサデク大統領に対する、米CIAが
支援した1953年のクーデターを『ニューヨーク・タイムズ』紙が礼賛した事実も、ここ
でふれておく価値があろう。
モサデク大統領失脚の2日後に掲載された論説では、同紙のお家芸とも言える、被害者
たたきと「おやおや、これはどうしたことか」的長広舌の組み合わせを披露していた。

・「先に失脚したモサデク大統領はロシアに取り入ろうとしていた。議会下院の解散を
求めて、ツデー党(イラン共産党)の力を借り、インチキな直接投票に勝利した」。

・「モサデクは退場し、今は裁判待ちの囚人である。
この獰猛で利己主義的なナショナリストが、一文の値打ちもないような命の持ち主で
ある時に、その身の安全を守られていたとしたら、それはシャー(訳注: イラン国王の
尊称)のおかげであり、ザヘディ首相のおかげである(モサデクはシャーに対して
きわめて不忠であったが)」。

・「シャーは ... この危機において称賛に値する。 ... シャーは自国の議会制度につねに
忠実であった。モサデク政権時代のナショナリストたちが示したすさまじい狂信的
ふるまいのさなかにあって、緩和的な影響力を発揮していた。社会的な面では進歩派
であった」。

例によって例のごとく、CIAの関与についてはいっさい言及がない(今ではCIA自身が関与
を認めているが)。たしかに当時、『ニューヨーク・タイムズ』紙はそれに関して情報を
得ることはできなかったかもしれない(それは隠密の軍事作戦の要諦である)。
結局のところ、モサデク大統領はさらりと悪者あつかいされ、米国民は、自国政府が
どれだけモサデク政権の打倒にかかわっていたかを、何十年も経ってようやく知ること
になる。
『ニューヨーク・タイムズ』紙は、のみならず、イランの人々を「東洋人」のカテゴリー
にくくるような描写を挿入する。それによって、強権的なシャーの存在が必要である
ゆえんを暗示するのである。

「[一般のイラン国民は]うしなうものがない。
彼らは永遠の忍耐、突出した魅力と厚情の持ち主である。が、一方で、彼らはまた、
われわれがこれまで見てきたように、気まぐれな気質の持ち主でもあり、ひどく感情に
動かされやすく、相応の刺激を受けた場合、暴力的にもなる人々でもある」。

上述のさまざまな事象には、言うまでもないことながら、大きな相違点がある。つまり、
モサデク、アジェンデ、チャベス、マドゥーロは、それぞれ、かなりことなった時期に
活躍し、ことなった政策を推し進めた。程度のさまざまなリベラル的政策と腐敗を
示していた。
しかし、彼らには、共通点が一つあった。すなわち、彼らが「取り除かれる必要がある」
と米国政府-----そして、政府に恭順的なメディア-----が断を下し、この目的を達成すべく
あらゆる手を使った、ということである。
根本的な傲慢さを秘めた、かかる裁断は、当然米国メディアで議論されてしかるべき問題
であると誰でも思うであろう(たとえば米国メディアの亀鑑とされる『ニューヨーク・
タイムズ』紙の論説欄で)。
ところがどっこい、例によって例のごとし。このような判断は当然のことと見なされるか、
あるいは、うるさそうに手をふって見向きもされないか、のどちらかである。
そうして、われわれは別の論題に移行する-----いかにして、また、いつ、われわれは当該
の悪玉国家をもっともうまく打倒することができるか、という問いに。

ベネズエラの民主的制度をなし崩しにするマドゥーロ大統領のふるまいをひどく心配
している人々がいる(同大統領は批判者を獄につなぎ、陪審員の選定を自分に都合よく
おこない、見せかけの選挙を開いた、等々のかどで非難されている)。しかし、彼らに
対しては、次のことを指摘しておく方がいいであろう。
同国で自由民主主義的な性格が際立っていた2002年においてさえも(同国は当時、世界
各国から経済制裁を受けており、米NGOのカーター・センターが長年にわたって同国の
国内状況を注視していた。それに、チャベス大統領の統治が違法であると見なす人間は
誰もいなかった)、米CIAは依然としてチャベス大統領に対する軍事クーデターを
うべなったし、『ニューヨーク・タイムズ』紙もやはりクーデターに賛辞の言葉を
惜しまなかったのである。
同紙は当時、次のように書いていた。

「チャベス大統領の昨日の退位をもって、ベネズエラの民主制は、もはや未来の独裁者に
おびやかされる心配はなくなった。
破壊的な扇動家であるチャベス氏は、軍部の介入後、大統領を辞し、権力の座を、著名な
経済人のペドロ・カルモナ氏にゆずった」。

同氏の排除に抗議するため、何百万もの人々が街頭にくり出したおかげで、チャベス大統領
はほどなく政権に復帰することができた。だが、疑問は解かれずにそのまま残っている。
『ニューヨーク・タイムズ』紙が2002年にベネズエラ国民の正真正銘の意思を進んで無視
したのであれば、いったいどうして同紙が2019年にそれをおおいに気にかけていると人に
信じさせることができようか。
もう一度言うが、ホワイトハウス、米国務省、そしてその帝国主義的な官僚たちが異議を
となえるのは、再分配政策そのものであり、米国の意向にさからうことである。その際の
やり方などではない。
たぶん『ニューヨーク・タイムズ』紙やその他の米国メディア-----この帝国主義アメリカの
中核に腰をすえ、おそらくはまた、それに影響力をふるってもいる彼ら-----は、かかる現実
にしっかり焦点を置いてみてもいいのではないか-----帝国主義アメリカの暴力的で不法な
気まぐれに左右される国々の道徳的性向について、毎度毎度、裁定を下すのではなく。


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[補足など]


あらためて言うまでもないことながら、結局、『ニューヨーク・タイムズ』紙をはじめと
する英米の大手メディアは、米国の帝国主義的支配を肯定している-----言い換えれば、結局
のところ、推進している-----わけです。

大手メディア批判は、このブログでは毎度のことですが、今回のテーマと特に密接に関係
している文章は、以下のものです。こちらもぜひ一読を。

・圧政者を好む米国とそれを擁護する大手メディア
https://blog.goo.ne.jp/kimahon/e/09ad622ccda3d811d3e9047f9dae4b5d

・圧政者を好む米国とそれを擁護する大手メディア(続き)
https://blog.goo.ne.jp/kimahon/e/44d89eaa822e801ee92cba27a77f398c

左翼知識人批判の一例

2021年06月26日 | メディア、ジャーナリズム

今回は、左翼に属する人物による左翼知識人批判です。
併せて、アメリカの近年のリベラル派・左派の動向と当事者による感慨が語られていて
興味深い。


原題は
Leftwing Pokemon
(左翼のポケモン・ゲーム)

書き手は、ヴィンセント・エマニュエル氏(末尾の「訳注・補足など」を参照)。


原文サイトはこちら↓
https://www.counterpunch.org/2021/03/05/leftwing-pokemon/


(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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2021年3月5日


Leftwing Pokemon
左翼のポケモン・ゲーム


BY VINCENT EMANUELE
ヴィンセント・エマニュエル




私は2006年、ワシントンD.C.で開かれた大きな反戦デモに参加した。通りは何万人もの
デモ参加者であふれて、見通しはきかない。いくつかのオフィス・ビルや大きな記念碑
だけが自分の位置を把握できる貴重な手がかりだった。
その頃は大きなデモはめずらしくなかった。ブッシュ政権によるイラクへの違法で
非倫理的な戦争に反対するため、何百万もの米国市民が街にくり出した(アフガニスタン
の時には、それほど多くの人々をデモに誘い出すことはできなかったけれども)。

それから何年かして、私はメリーランド州シルバー・スプリングで開かれた「冬の兵士」
の公聴会(訳注・1)で証言することになった。この公聴会では、多くの帰還兵たちが、
イラクやアフガニスタンでおこなわれた戦争犯罪について報告しあった。
会場に到着すると、自分より年長の、ベトナム戦争に従軍した退役兵士が近寄ってきて、
こう言った。
「ヴィンセント、この戦争を終わらせるぞ。ホワイトハウスのあのクソッタレ野郎どもは
俺たちの声を無視するわけにはいかない。やつら[メディアと政治家たち]は、俺たち
帰還兵の声に耳をかさないわけにはどうしたっていかない」。
この人は、「語り」の力、象徴的な抗議行動の力の有効性をいまだに信じていた。1968年
以降の左派の政治文化に囚われたままだったのだ。

不幸なことに、そして、ふり返ってみれば当然と思われることであるが、この「冬の
兵士」の公聴会を権力者層はまさしく無視した。公聴会が開かれたこと自体をさっぱり
知らない99パーセントの米国民と同様に。
何万ドル(おそらくは何十万ドル)も費やしたあげく、そして、左派系メディアもあれ
これありながら、その結果はというと-----新規の寄付者とメンバーが多少増えただけ。
戦略はといえば-----まったくのゼロ。公聴会全体は「語りのポイントを変える」ことを
ねらった、仕事ぶりと指標としての役割りを誇示するためのショーにすぎなかった。
典型的な「NGO与太話」である。

それから数年経って、今度は「オキュパイ(占拠)」運動が登場した。が、やはり同じ
力学が展開した。
何万人もの米国人が街にくり出し、「予示的な政治」(訳注・2)にたずさわった。
当時は、「合意による意思決定」だとか「一般参加型の~」とかが熱狂的に持てはや
された。
が、むろん、この運動のピーク時においても、われわれが達成できたことはわずかだった。
われわれはあいかわらず「動員モード」にはまっていて、進歩派や急進派を自称している、
自分と似たような心性の持ち主としか話をしなかった。われわれの支持基盤が広がること
はみじんもなかった。
たしかに「語り」のポイントは「緊縮(財政)」から「格差」へと移行した。けれども、
現実に政治権力を有する側(連邦政府、資本家階級、裁判所)は右に傾いたのである。

2010年には、「ティー・パーティー(茶会)」運動がきっかけとなって、共和党が下院で
多数派となった。米国各地で共和党所属の知事が反労働組合的な「「労働権」法案を成立
させるとともに、公務員組合の団体交渉権を制限する動きに出た。連邦最高裁は保守派の
判事が多数派となった。地方裁判所や州議会も似たような状況におちいった。投票権は
奪われつつあり、何十万もの黒人が選挙で自分の意思を伝えられない。内部告発者は迫害
を受け、獄につながれた。NSA(国家安全保障局)による監視プログラムはいよいよ規模
を拡大した。ICE(移民税関捜査局)の権能はより強化された。CIAも同様である。ドローン
攻撃計画もいっそう拡充された。テロとの「終わりのない戦争」もいっこうに減速する
気配はない。フラッキング(水圧破砕法)、 海洋掘削、タール・サンド、等々の言葉も
広く世の中に浸透した。そして、2014年には共和党が上院を奪還し、2016年にはドナルド
・トランプが大統領に選出された。
このような展開を示した月日は、左派にとってけっして好ましいものとは言えない。
そうは思わない左派も一部にいるけれども。

実際、私の友人の幾人かは、同時多発テロ以降、左派の盛り返しが見られたと主張する。
たしかにある程度まで、それは事実である。つまり、1980年代もしくは1990年代において
よりも、現在の方がさまざまな組織化や運動がより活発におこなわれ、あるいは左派系の
選挙運動が増えたし、民主党は10年ほど前よりも確実にネオリベラル色を薄めている。
しかし、これはあまりにハードル設定が低いというものだ。これらの取り組みの多くは
実質的な価値がうつろであり(一般市民の参加はたいしたことがない)、本当の影響力を
ふるうには至らない。労働組合はダウン寸前である。「ブラック・ライヴズ・マター
(BLM)」運動は、よくいっても、明確な形態をそなえないままである。
DSA(アメリカ民主社会主義者党)、アワ・レボリューション、緑の党、国民党、その他、
さまざまな進歩派・左派系のNGO組織は、自分の意思で選択した政治団体が規模のいかん
にかかわらずかならず直面する課題にやはり突き当たっている。すなわち、構造をそなえ
ない様態のままで、いかに影響力を構築し、それを行使するかという問題である。

このような戦略的、方法論的欠如の中で、多くの左派は政治に関し、現実から乖離した
アプローチを採っている。
ここで私が思い浮かべているのは、その政治活動がわれわれの目下の政治的、社会的構造
や物質的状況をまったく反映していないアナルコ・サンディカリスト(訳注・3)、反文明
主義の運動家、ネット左翼その他のさまざまな人物やグループのことである。
それは、まるで人々があまりに社会的に疎外された状態で長く過ごしすぎたために、自分
が現実に社会に暮らしていること-----サッチャー首相の馬鹿げた所感(訳注・4)とは
うらはらに-----を忘れてしまったかのようである。社会というものは現にあるシステムや
制度、人脈、人間関係などによって形作られるものなのだ。

多くの左派が政治活動をロールプレイング・ゲーム(RPG)と同然のように考えている。
RPGでは、プレーヤーは固有の規則、設定、規範、等々で縛られた非現実の世界の中で
行動する、虚構のキャラクターをあやつる。
アンドルー・ローリングス氏とアーネスト・アダムス氏は、その著書『ゲーム・デザイン
について』の中で、次のように書いている。
「(RPGという)ゲームの世界は、たいていの場合、思弁的虚構であり(換言すれば、
ファンタジーもしくはSF)、プレーヤーに現実世界では不可能なことをやらせることが
できる」。

革命だとか反乱だとか、あるいは民衆蜂起だとかを称揚する左派の人々がいる(これら
の言葉は、現実の労働者階級の人々を組織した経験がまったくない左派コメンテーター
たちがきまって持ち出す類いのものだ)。この手の左派たちは無責任であり、物事を深く
突き詰めず、政治的様態のRPGにいそしんでいるだけにとどまらない。危険で、むしろ
有害な存在なのだ。

政治は、究極的には、権力をめぐるものである。そして、権力は武力、強制力、もしくは
社会的統制を通じて発揮される。
既存の左派勢力はこういったアプローチのどれも採用することができないので、労働者
階級に属する米国国民に「街頭にくり出す(街頭デモに参加する)」よう呼びかけた
ところで、あまり意味をなさない。
くり返し言わせていただくが、「民衆のレジスタンス」に参加するよう呼びかける声は、
現実の労働者階級の政治組織とはほとんどかかわりがないコメンテーターから発せられる
のが一般である。
例として、最近のクリス・ヘッジズ氏の文章から引用させていただく。

「しかしながら、行動-----ここでいう行動とは、巨大な機構を粉砕すべく、大がかりで
辛抱強い、非暴力的な市民的不服従にいそしむことである-----を起こさないことは、精神
的な死を意味する……道徳的自立をつらぬき、巨大な機構と手を組むことを拒否し、それ
を破壊する力をそなえることは、われわれの個人的自由および意味のある人生を獲得する
ために残された唯一の可能性を提供してくれる。反逆はそれ自体が正当化事由たり得る。
それは、たとえ意識されないにせよ、抑圧の構造を浸食してくれる。共感と慈悲心、それ
に公正の残り火を静かに燃やし続けてくれる。これらの残り火はけっして取るに足らない
ものではない。それらは人間であるべき能力を維持させてくれるものだ。それらは、
たとえぼんやりしたものであるにせよ、われわれの社会的な死を主導しているさまざまな
力を阻止する可能性を絶やさないようにしてくれるものだ。
要するに、われわれは反逆を歓迎しなければならぬ。それによって成し遂げられるであろう
もののためだけではない、反逆によってわれわれが到達し得る存在のあり様のためである。
われわれがどんな存在になり得るか、そこにわれわれは希望を見出す」

このヘッジズ氏の言う「大がかりで辛抱強い、非暴力的な不服従」にいそしむことは、
小手先の戦術であって、長期的・大局的展望をそなえた戦略とは言い難い。また、
「巨大な機構を粉砕」することはヴィジョンの名に値しない。
このような訴えかけは、抵抗するための精神を鼓舞するかもしれないし、文章においては
見栄えがする。しかし、実際には、たいして意味をなさない-----もし、われわれが、自分
の築きたいと願っている社会について明確なヴィジョンを持ち合わせていないならば。
われわれのヴィジョンを成功裡に実現するために必要な戦略を欠いているならば。そして、
このような戦略を実行するために求められる組織や体制を整えていないならば。
再度、念を押すが、こうしたものの欠如が、次々と襲いかかる重層的な危機への対処法に
ついて人々に高説を垂れるコメンテーター諸氏の問題点なのである。ご高説を垂れること
は組織化の努力と同じではない。講評をおこなうことは戦略を練ることとイコールではない。

同様に、宗教左派の過度の道徳性追求の姿勢は、前進を手助けすることにはならない。
いったい、「道徳的自立をつらぬく力」をそなえるとは、正確には何を意味しているので
あろうか。ストライキ、あるいは、ヘッジズ氏の言う「(巨大な機構と)手を組むことを
拒否」することは、たしかに奨励されてしかるべきであろう。
しかし、これらを実践するには、支持者の、非常に統制のとれた、組織化された基盤が
欠かせない(シカゴ教員組合に尋ねてみることだ)。その支持者とは、活動に深く関与し、
権限をあたえられ、広く事情に通じて、その結果、集団が共有するアイデンティティを
身につけるに至った一般の人々を意味する。
こうした状況を生み出すためには、人々がたんに「街頭にくり出す」だけでは十分ではない。
2020年には、何百万もの米国人が街頭デモに参加した。その結果はといえば-----バイデンが
僅差でかろうじて大統領におさまった。民主党は地方選挙等で敗北を喫した。右派の抗議者
たちがクーデターをもくろんだ、等々である。
また、ジョージ・フロイド事件を契機に数々の抗議活動が展開されたが、その中から明確、
直截で、高度なヴィジョンをかかげる、永続的な政治組織が誕生したと思わされるような
証左は一つも見出せない。

米国人は長い間、「個人の自由」、そして「意味」、という概念に取りつかれてきた。21
世紀において「個人の自由」がどのようなものであるか、われわれは真摯に議論する必要
がある。
しかし、急速に増大する世界人口、および、制御し難い気候変動と生態系の荒廃を勘定に
入れると、その答えを見つけるのは容易ではない。
加えて、私は「意味」を追求することについては懐疑的であって、哲学教授のアヴィタル
・ロネル氏の意見にうなづいてしまう。すなわち、意味の追求には往々にしてファシスト
的な含意がつきまとう、と。
ここにおいて、宗教左派とファシスト右派の間には、イデオロギー上、共通の志向が
見出せる。
われわれのうちの何人かは、われわれの存在や生には本来的な意味など何もないという
想定の下で、申し分なくうまくやっていける。一方、「意味のある生」をわき目もふらず
追求する、しかもしばしば道徳的正しさという独りよがりの感覚を擁しつつ追求する人々
もいる。
「正しいことをおこなうのはわれわれの義務である」と彼らはのたまう。いや、そうでは
ない。人間には本来的な「道徳的義務」などない。そしてまた、集団的に決定された
「道徳的義務」などというものもまったくないのだ(私が会議を欠席したという場合を
除いて)。

一般の労働者階級の人々に対して左派が提供するものが、崇高な道徳的感情、反逆への
あいまいで戦略を欠いた呼びかけ、らちもない希望の示唆、等々でしかないとすれば、
一般市民はただ傍観者としてとどまり、腐敗したシステム全体が崩壊する時まで自分個人
の享楽にふける方が理にかなっていよう。確固とした戦略がないとすれば、これが、現在
われわれが耐え忍んでいるシステムとわれわれが生きている状況に対する、唯一の合理的
対処法ということになろう。
反逆は、それ自体では、正当化事由にはならない-----むろん、人間がこの地球上で何らかの
目的を持っていると信じているなら、話は別であるが。私はそうは信じていない。きちん
とした、持続可能な、戦略的な計画を有しない反逆は、政治的自殺行為もしくは空想的な
ロールプレイング・ゲームである。
「エクスティンクション・リベリオン(絶滅への反逆)」運動は、政治的実践・政治的
動員のための、この種の子供らしい、戦略を欠いたやり方のみごとな見本である。

物質的現実と深いつながりを有するヴィジョン、あるいは、目下、われわれの政治的、
経済的、文化的、社会的な諸制度を支配し、構成しているさまざまな力と深いつながりを
有するヴィジョン、を明確に打ち出せないこと-----これが、何十年といわないまでも、
少なくとも私が政治活動とその組織化にかかわってきた間(すなわち、15年間)、アナルコ
・レフト(無政府主義左派)や宗教左派が直面してきた問題であった。
「抑圧の構造を浸食せよ」という訴えかけは、紙の上では映えるけれども、現場で戦略を
練っている運動の組織者や労働者階級の人々にとってはまるで無意味である。
また、この訴えかけは、アナルコ・レフトが何年にもわたって説いてきた「反政治」と
同じカテゴリー-----失敗したカテゴリー-----に属する。絶えまなくこれを「廃止」したり、
あれを「撤廃」したりすることを求め、あるいは「抵抗」する。この地球に暮らす78億人
のために、持続可能なヴィジョンをはっきりと提示することはけっしてなく、何かを構築
したり、勝ち取ったりすることはいっさいなく、ただただ守勢にまわる。かくして、つねに
破壊に焦点を置くことになる。

資本家やボスたち、狂信的右翼やファシスト-----われわれは、われわれの敵や標的とする
人間たちの名をはっきりとかかげるべきである-----の伸張を食い止める「可能性を維持する」
ための唯一の方法は、実際に彼らの伸張を食い止めることである。
そして、彼らの伸張を食い止める唯一の方法は、「ディープ・オーガナイジング」(訳注
・5)に力をそそぐことである。
政治に対する左派の現行の取り組みはうまくいっていない。同一の手法を芸もなくくり返す
ことは、いよいよ無関心や冷笑的態度をはびこらせるだけである。道徳的説教は実効に
とぼしい。左派の「美徳シグナリング」(訳注・6)は人を困惑させるのがオチである。
影響力を有する左派の人間は、路線を転換する責任がある。

クリス・ヘッジズ氏はもう少し分別があってしかるべきなのだ。同氏は知的な方面で怠惰
というわけではないのだから。
同氏は労働運動の組織者と話をすることはないのか。同氏は動員することと組織を構築する
ことのちがいがわかっていないのか。ヴィジョンと戦略は勝利に至る必須の要素であるとは
考えていないのか。勝利とはいかなるものであるかに思いをはせることはないのか。同一
趣旨のエッセイを飽くことなく書き続けて、それに何の鬱屈も感ぜずにいられるのか。
ウォーリン、カミュ、コンラッド、フロイド、アーレントなどなどから引用し、社会の惨状
について語る。ナチスを持ち出す。締めにかすかな希望を提示し、抵抗を漠然と呼びかける。
同じ文言のループ。永遠回帰。

ヘッジズ氏の、かわりばえしないエッセイを私はもう10年間も読み続けてきたような気が
する。
25歳の時に読んだヘッジズ氏の文章は刺激的、挑発的で、関心をそそるものだった。今と
なってはもう退屈で、内容は予想がつくし、心を揺り動かされることはいっさいない。

私はまた、選挙政治に嫌悪感を抱いていると見なされているヘッジズ氏が、緑の党の候補者
として議会選挙に出馬表明したことを、非常におもしろく思っている。
どうして本格的な独立系左派メディア媒体の構築に手を貸そうとしないのだろうか。ユー
チューブで個人として活動し、自分の名前をブランドにすることに懸命な、あの一群の
バカ者どもを手助けする代わりに。
どうして「大がかりな市民的不服従」を実践するために、労働者階級の人々と手を組んで、
ことを起こそうとしないのか。
結局は、これらの取り組みはむずかしいからだ。結局は、労働者階級をめぐるヘッジズ氏の
理念や想定が、現実の試金石で試された時、たちまち溶解してしまうであろうからだ。

政治について語るのはたやすい。実際に政治をおこなうことはむずかしい。
そのむずかしい領域には踏み込まず、ヘッジズ氏は抵抗を説くおなじみの文言をくり返し
たり、選挙制度に基づいて公職に立候補したりする。その一方で、同氏は、実際に改革を
実現させている組織(DSAなど)や政治家(バーニー・サンダース氏など)について、
ふんぞり返ったような態度で悪口を言う。
そのやくたいもない雑言は、家でじっとしている人間には目が覚める思いがするかも
しれないが、現実の組織化にたずさわっている私たちのような人間にはちっとも響かない。

要するに、私は希望だの道徳的義務だのを信じていない。そしてまた、正義、公正という
概念についても、かなり疑わしいと思っている。そのような概念は、結局のところ、人を
一種の懲罰的な政治にみちびくもの、そして、その懲罰が往々にして見当違いの人々に
向けられるもの、ではなかろうか。
私が信じているのは、ふつうの人々の力である。ふつうの人々が自分の職場で、自分の
属する地域社会で、そして、自国政府を介して、力をふるうその能力である。私は国家
権力を利用する価値を信じている。現実の世界における具体的な結果の価値を信じている。
私は精神性を気にかけない。私が気にかけるのは、計画であり、規律であり、個人と集団
の説明責任である。私は勝利の価値を信じている。私は生きることの価値を信じている。

これら以外のすべては私にとって「左翼のポケモン・ゲーム」にすぎない。 そして、
そんなものに費やす時間的余裕は、私にはない。また、道学的訓示やスローガン連呼では
なく、戦略を練ることに日夜かかわっている、運動の組織者である私の知人たちも、一人
としてそんな暇は持ち合わせていない。
われわれは生きるか死ぬかの闘いに従事している。そして、銘々が自分の持てる力をすべて
出し切り、総力をあげて取り組むことが必要だ。それは、つまり、世界の惨状をことこまか
に描出してくれる人間ではなく、革命のための戦略を立ててくれる人間をより多く必要と
するということである。


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[訳注・補足など]

■訳注・1
「『冬の兵士』の公聴会」については、以下のサイトの文章が参考になります。

冬の兵士 - 岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b262670.html



■訳注・2
「予示的な政治」については、以下の2つのサイトが参考になります。

個人ブログのややくだけた解説として、

https://n-yuki.net/772
予示的政治(Prefigurative Politics)?欲しい未来は自分で

やや学問的な解説は、

http://gendainoriron.jp/vol.15/rostrum/ro05.php
「否定的な集合的記憶を乗り越えるために」日本学術振興会



■訳注・3
「アナルコ・サンディカリスト」はもちろん「アナルコ・サンディカリズムを奉ずる人」
の意で、その「アナルコ・サンディカリズム」とは、「無政府組合主義」とも訳され、
「労働組合運動を重視する無政府主義」または「無政府主義の影響を受けた労働組合至上
主義」を指します。



■訳注・4
サッチャー首相のいわゆる「社会はない」発言を指します。これについては次のサイトが
参考になります。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-05-24/2020052401_05_1.html



■訳注・5
原語の deep-organizing は日本語の定訳がないようです。職場だけでなく、地域社会までも
視野に入れた広範で長期的な(運動の)組織化の取り組みを意味するようです。



■訳注・6
元々は学術用語のようです。言い換えれば「自己の道徳性の誇示」ぐらいでしょうか。
ネットで検索すると、「自分が倫理的であることを過度にアピールするような行為」など
の説明があります)



■補足・1
書き手のヴィンセント・エマニュエル氏は、日本ではまだ知名度が高くないようです。
一応、原文サイトにある紹介文を訳しておきます。

ヴィンセント・エマニュエルは著述家で、兵役経験を有する戦争反対論者。ポッドキャスト
の配信もおこなっている。『PARC』(Politics Art Roots Culture Media)および『PARC
コミュニティー・カルチュラル・センター』(インディアナ州ミシガン・シティ)の共同
設立者。『ベテランズ・フォー・ピース』(平和を求める元軍人の会)および『OURMC』
(Organized & United Residents of Michigan City)の一員。『コレクティブ20』にも名を
連ねている。メールは vincent.emanuele333@gmail.com まで。



■補足・2
今回の一文は、現場の生(なま)の声が聞けたという感触があって、非常におもしろく
読みました。

また、文章の中ごろの、アメリカの近年のさまざまな出来事や事件、現象などが左派に
とっていかなる意味を持つものであったかが簡潔に述べられていて、勉強になりました。

なお、この一文は、「近年の左派の勢力と運動の退潮を、左派に属する人間自身が嘆く話」
という側面もあります。
そういう面では、以前のブログでも、もう少し客観的、俯瞰的な視点で書かれた、同趣旨
の文章を訳出しました。(厳密に言えば、左派ではなくリベラル派を軸とした話ですが)

米国メディアの現状・その2(リベラル派の苦境)
http://cocologshu.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/2-3ff0.html


英国のメディア監視サイト・8・続き-----前回の後半部(BBC批判)

2021年05月15日 | メディア、ジャーナリズム

(前回の文章の後半部)-----(BBC批判)

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「グランド・ウィザーズ(大魔術師たち)」と御用ジャーナリズム

企業メディアに所属するジャーナリストがイデオロギー上の純潔をきびしく要求される
さまは、ときおり、むき出しの形で明らかになる-----たとえほんの何ミリか規定ライン
から外れただけであろうと。
たとえば、BBCのテレビ番組の司会者であるナガ・マンチェッティ女史はツイッターで
謝罪を余儀なくされた。保守党政権の大臣ロバート・ジェンリック氏がBBCの朝の情報
番組『ブレックファスト』に登場した際、背後にユニオン・ジャック(英国国旗)を
麗々しくかかげていた点で、大臣を子ばかにしたツイートがあり、それに女史が賛同の
意をあらわす「いいね」ボタンをクリックしたからであった。

女史は次のようにツイッターに書いている。

「わたくしは、英政府・担当大臣との今朝のインタビューの際、背後に英国国旗がかかげ
られていた件で、人の感情を害する性質のツイートに本日、「いいね」を付しました。
これらの「いいね」は現在、取り消しております。今回の件はわたくしもしくはBBCの
見解をあらわすものではありません。人々の感情を害したことについておわび申し上げます。ナガ」。

この文章は、BBCの階層構造における上層レベルの人間から申し渡されたような類いの
ものだ。もし自分がBBCに属する著名人であったとしたら、「愛国主義」のしるしに
あえて疑問を呈するようなまねをした場合、ツイッター上に謝罪の言葉を書き込まざるを
得ないであろう。
しかし、BBCに籍を置くジャーナリストのいったい誰が、自国政府のプロパガンダに表現の
舞台をあたえたこと(その結果、悲惨な結果をまねいたこと)を理由に謝罪の言葉を述べた
だろうか-----たとえば、イラク、リビア、シリア、NHS(英国の国営国民保険サービス)、
いわゆる「緊縮」政策、好戦主義、王室、等々に関して。
このような例は数え上げればキリがない。

ツイッターでは、ロシアのニュース・メディアである『RT』のツイートに対して、
「ロシア政府系メディア」という注釈がつく。
BBCという名の「英国政府系メディア」に勤める、奴隷根性のしみ込んだジャーナリストの
重鎮たちは、西欧諸国政府のプロパガンダを伝えたことで謝罪するどころか、政府に対する
異議申し立てを極小化するかポイントをずらすべく、表面を取りつくろったゴマカシの
ツイートをひねり出す公算の方がずっと高い。
BBCの政治担当エディターであるローラ・クンズバーグ女史を例にとってみよう-----この
重要なプロパガンダの機能を発揮したかっこうの例として。
英国で初めて新型コロナ対策のロックダウン(都市封鎖)が開始されてから1年が経った、
今年の3月23日、ボリス・ジョンソン英首相は、保守党議員たちとの私的な会合で、こう
自慢した。

「ワクチンが成功したのは資本主義のおかげ、強欲のおかげだよ、諸君」。

この発言をめぐって、ソーシャル・メディアでは激しい非難の声が上がった。
感染症が爆発的に広がる中、政府の対応に歯に衣着せぬ批判をあびせていた緩和医療の
専門家であるレイチェル・クラーク女史は、このジョンソン首相のひどく無神経で自己満足
的な発言に、ツイッターでこう反応した。

「残念ながら首相はまちがっています」、と。

「首相はご存じないかもしれませんが、人間の生まれつきそなえている資質はもっと豊か
で、もっと優れており、もっと品位と優美に満ちているのです」。

賢明で、情のこもった言葉である。

これとは対照的に、BBCのクンズバーグ女史は、すぐさま「ダメージ減殺」モードを全開に
して、次のようにツイートした。

「首相の『強欲』発言について少し。
出席者の一人はこう言っています。ジョンソン首相は院内幹事長のマーク・スペンサー氏に
向けて冗談を言っていたのだ、と。スペンサー氏はちょうどその時、ワクチンを話題に
しながら、チーズ・アンド・ピクルス・サンドイッチを次々と口に運んでいたそうです。
『あのゴードン・ゲッコーと同じとはとても言えないよ(訳注・2)』……院内幹事長への
『軽口だったんだ』、ということらしいです」。

(訳注・2: ゴードン・ゲッコーは、映画『ウォール街』に登場する、『強欲は善だ』と
うそぶいた悪玉の辣腕投資家)

たしかに一理ある。「あのゴードン・ゲッコーと同じとはとても言えない」。
つまり、多くの英国人の心の中で、14万9000人もの同胞の死がまごう方なくジョンソン首相
の責任であると感じられる、ロックダウンの節目のこの日、資本主義と強欲の美点について
ジョークを飛ばすとは、たとえゴードン・ゲッコーであってもあえてしないことでは
なかろうか。

新聞の風刺漫画家であるデイブ・ブラウン氏が、この節目の日がどんな意味を持つはずで
あったかをみごとに描いている。
すなわち、ジョンソン首相が立っている後ろに鏡があって、その鏡像が死に神の姿になって
おり、その死に神の手にしている大鎌の刃には149000という数字が刻まれている絵である。

独立系シンクタンク『オートノミー』で支援活動部門の長を務めるカム・サンドゥ女史は、
ツイッターで自分のフォロワーに対して、以下の事実を思い出させた。
2019年に英国のEU離脱賛成派の議員たちがチェッカーズ(英首相の公式別荘)につどった
際、自分たちのことを「グランド・ウィザーズ(大魔術師たち)」(訳注・3)と呼んだ
ことが明らかになったが、クンズバーグ女史はこの件をまじめに取り上げることはなかった
のである。
クンズバーグ女史はこうツイートしていた。

(訳注・3: 原文は the Grand Wizards で、その単数形の the Grand Wizard(大魔術師)は
クー・クラックス・クラン(白人至上主義をとなえる秘密結社)の最高幹部を指す。
したがって、上の発言は、発言者の白人至上主義、人種差別的偏見をあらわすものと解釈
され得る)

「書き込みに追いつくべく急いで。取りあえず誤解を避けるために一言。
内部関係者の何人かが仮名で内々に教えてくれました。あの言葉に他意はみじんもない、と」。

クー・クラックス・クランの、白人至上主義をあらわすこの悪名高い言葉を使ったことも、
おそらくは単なる「軽口」とみなされることになったのだ。
クンズバーグ女史が保守党のプロパガンダをこだまのようにくり返したり、あるいは増幅
させたりする一方で、党への批判をそらす動きを示した例は、ほかにも枚挙にいとまがない。
思い出す方もおられようが、1年前、遅すぎた最初のロックダウンが開始された時に、
クンズバーグ女史は政府を擁護するふるまいに出た。
女史は一般公衆をまちがった方向にみちびいた-----そう、リチャード・ホートン氏は指摘
する。同氏は著名な医学雑誌『ランセット』の編集者で、昨年の3月に次のように書いている。

「ローラ・クンズバーグ女史はBBCで『医学は変化した』と発言しました。これは真実では
ありません。医学は1月からずっと同じです。変化したのは、政府への助言者たちが中国で
実際に起こったこと、今現在イタリアで起こりつつあることをようやく理解したという点
です。事態ははっきりしていたのに」。

どんな話題であれ政府の言説をたえず擁護しようとする、女史の悪辣な役回りは、いわば
「礼節」ということになるのかもしれないが、「客観・公正」をかかげるBBCの政治担当
エディターが、ことジェレミー・コービン議員の報道、また、なかんずく英労働党における
構造的な反ユダヤ主義というでっち上げられたスキャンダルの報道に際しては、この
「礼節」の欠如が逆に際立ってめだってしまう。

クンズバーグ女史は、2019年の11月26日、つまり、12月12日の総選挙を間近にひかえた
時点で、保守党を支持している首席ラビのエフライム・マービス氏の主張-----ジェレミー・
コービン氏は「公職には不適格とみなすべき」とする-----について、24時間のうちに23回も
ツイートした。
この時こそ、報道の公平性がもっとも求められる時であったのは、あまりにも明白であった
にもかかわらず。

BBCにおいて、クンズバーグ女史だけが例外というわけではない。ただ、女史が突出して
注目をあびる地位にあるから、他のジャーナリストはそれほどいつもやり玉に挙げられる
わけではないというだけの話である。
たとえば、外交担当のジェイムズ・ランデイル記者を取り上げてみよう。この人物もまた、
クンズバーグ女史と同類の「常習犯」である。
ランデイル記者が3月16日にBBCの看板ニュース番組『ニュース・アット・テン』で視聴者
に提供した内容は、自称「公平な」ジャーナリズムが「政府認定の敵」の脅威を-----そして、
平和を愛する欧米諸国がこれらの敵に対抗する必要性-----を声高に言いつのる、近年ますます
増え続けている例に、あらたにまた一例をつけ加えたにすぎない。

ランデイル記者は、「防衛」に関する英国政府の新しい報告書に沿う形で、中国とロシアを
脅威と描出し、この脅威に関して、「わが国が海外での軍事展開能力を有することを
はっきり示す」必要があると示唆した。
その戦略の一環として、英国政府は、建造費約31億ポンドの新空母「クイーン・
エリザベス」を今年後半、インド・太平洋地域に派遣し、同盟国と合同演習をおこなわせる
ことになっている。
「でも、それで十分でしょうか」、とランデイル記者は重々しく問う。世界各地に向けた
英国の「軍事力の展開」を「客観・公正」に後押ししたのである。

実質的に政府の報道官と化している役柄をなおも続けて、ランデイル記者はこう述べる。

「そして、英国の核弾頭保有数の上限は引き上げられるでしょう。報告書の言う『安全保障
環境の変化』のためです」。

英国の核兵器増強の見込みが何気なく言及される-----まるで今気がついたとでもいうように。
今年初めに核兵器禁止条約が批准されたからには、国際法の見地からすると核兵器の保有は
禁じられている。この点についてはいっさいふれられなかった。

同条約は「核兵器に関わる行為に参画することを包括的に禁止する諸事項」をかかげている。
そして、「これには、核兵器の開発、テスト、製造、取得、保有、貯蔵、使用、使用の示唆
による威嚇、をおこなわないことがふくまれる」。

2017年7月に120超の国がこの条約の採択に賛成票を投じた。2020年10月には50番目の国が
批准し、これにより2021年の1月22日に発効する運びとなり、国際法となったのである。
これを報じたBBCのニュース見出しはあっただろうか。

ネット・ニュース・サイトの『ダブル・ダウン・ニュース』が報じた言葉を借りると、
「ボリス・ジョンソン、核弾頭の40パーセント増強を目指す-----看護士増員のための財源
なしも、アルマゲドン(世界最終戦争)のための財源はアリ」なのである。

これらの事情はいっさい、ランデイル記者の心から抜け落ちていたにちがいない。
それとも、おそらくは伝える時間がなかった-----ランデイル記者もしくは上司の編集者たちが
たいして重要ではないとみなしたせいで。
しかし、一方で、同日夜の『ニュース・アット・テン』では、大きな話題をめぐって報道の
時間がたっぷりあった。タイトルは「エディンバラ公、退院」である。
エディンバラ公フィリップ殿下が一月ほど心臓病の治療を受けて退院し、ウィンザー城に
戻ったことを伝える内容であった。
どうしてこれが、報道に値する「ニュース」としてBBCで大見出しになったのか。
それは、BBCが頑固な王室支持派であり、熱心な体制擁護派であり、英国の不当な階級構造
の守護者だからである。

以上の事柄のいっさいが示すのは、BBCが実際には世界でもっとも洗練された「政府の
プロパガンダ機関」であるということである。
BBCの創設者であるジョン・リースは、1926年のゼネラル・ストライキの際、日記にこう
記している。

「彼ら(政府)は、われわれが実際には中立・公正ではないことを当てにできるとわかって
いる」、と。
(『リースの日記』(チャールズ・スチュワート編、コリンズ社、1975年刊)の1926年5月
11日の日記記述より)

今日でも事情は変わらない。

この「終わりのない戦争」、核によるアルマゲドンの脅威、破滅的な気候変動の時代に
おいて、英国その他の欧米政府のプロパガンダ機関と化した企業メディアが、その報道様式
によって世界中で人々を犠牲者にしている。その代価は計り知れない。


デイヴィッド・クロムウェル


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[その他の訳注と補足など]


このブログで最初にこの英国のメディア監視サイト『メディア・レンズ』を紹介した
のは、2013年の8月でした(下記を参照)。もうずいぶんになりますね。
その時もBBC批判でした。しかし、BBCの報道様式は現在でもまったく変わっていない
ようです。

英国のメディア監視サイト-----(BBC批判)
2013年08月06日
https://blog.goo.ne.jp/kimahon/m/201308