「日本と南アの一番のちがいは何ですか?」
最近、南ア人の先生から、よくこの質問をされます。
見た目が違うし、話す言語も違う。
主食も違えば、物価も違う。
何を答えたらいいのかと、
いつも答えに迷うのだけど、
最近は、こう答えることにしています。
「南ア人は、他人に対して物乞いすることを当然のことと思うが、
日本人は、物乞いをすることを快く思っていない」
※誤解を招かないように補足すると、
これは単に違うということであって、
どちらが優れているかというような安易な優劣を言っていません。
ご注意ください。
さて、続けます。
この国に来てから、
特にKamhlushwa地区に来てから、
毎度のように、お金を要求される。
(私の巡回する他地区ではそんなにないのだが、kamhlushwaは、なぜか圧倒的に多い。)
子どもたちは、常に「Give me 50cents」とか「50cent」とか言ってくるし、
大の大人である先生たちも「Ask you Donation(寄付をくれ。)」と平気で言ってきます。
うちのホストマザーも、事あるたびに寄付を求められます。
(ホストマザーからは、さすがに困る。勘弁してほしい。)
当然ながら、私は、お金をあげません。
なぜなら、私は知っています。
彼らにお金をあげることは、彼らのためにはならないことを。
働かずして得た金は、一時的なものであり、
根本的な解決にはまったくもってなりません。
少なくとも、彼らの多くは、
その程度の額なら持っています。
つまり貧困ではありません。
実際、この地区の子どもたちは、私があげないというと、
「ならいい。」と言って、2、3分後に自分のお金でお菓子を買います。
「ほら、あるやん。」って言いたくなるのは目に見えているわけです。
そこで、以前、数少ない信頼できる南アの先生に、
理由を聞いてみました。
キリスト教の考え方では、
「お金を持っている人は、持っていない人に分け与えなければならない」ようです。
私はキリスト教徒ではないので、分かりませんが、
そうなんですか!?キリスト教徒のみなさん。
たしかに、アメリカなどの国では、寄付が当然のように行われているし、
それを堂々と公表しています。
日本だと、寄付の概念はあっても、匿名性の高い寄付が多く、
寄付した本人が「俺は寄付してまっせ」的な態度はとりません。
昔からよくある話に、
「おなかがすいている貧しい人に
魚を釣ってあげるか、釣り方を教えてあげるか。」という議論があります。
私のように任地でそれなりにいろんな人を見てきたものにとって、
この国の人たちが行っていることは、
「もうすでに魚をそれなりに持っているのだが、それを隠した上で、
もうなくなるからくれ。」的な発想にしか思えません。
私が思う問題は一つ。
ここ南アでは(少なくとも私の住む地域は)、多くの場合、
あげる側ではなく、もらう側にしかならなかったことなんです。
国単位では、サブサハラ以南のアフリカの盟主として、
周辺国に対して、優位に立っていますが、
それは、都会の儲かっている人の話で、
私の任地周辺では、その恩恵を享受するのみです。
だから、いつでもモノをちょうだいなわけです。
幸運なことに、この国は、
何もしなくても、諸外国から勝手に援助が入ってきます。
南アの、少なくともこの地域の多くの人は、
「それは南アが世界一魅力的な国で、優れているから」と平気で自慢してきます。
彼らは、何故、諸外国が
それなりに生活力のある南アに投資しているのかを、彼らは理解していません。
ほんの一部の学識があって、南アの将来を真剣に考えている人が、
『外国が南アに投資しているのは、
金とダイアモンド、レアメタルと言う希少金属を狙っているから』と警鐘を鳴らしています。
日本の格言に、「タダより高いものはない」とありますが、
まさに南ア人は、肝に銘じる必要があるのかもしれません。
最後に、
以前、南ア国内を旅行していたときに、
日本から来たであろうアジア人が、物乞いの人にお金をあげているのを見たことがあり、
結構、ショックを受けました。
彼らの行動を否定しませんが、少なくとも私は、理解に苦しみます。
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最近、南ア人の先生から、よくこの質問をされます。
見た目が違うし、話す言語も違う。
主食も違えば、物価も違う。
何を答えたらいいのかと、
いつも答えに迷うのだけど、
最近は、こう答えることにしています。
「南ア人は、他人に対して物乞いすることを当然のことと思うが、
日本人は、物乞いをすることを快く思っていない」
※誤解を招かないように補足すると、
これは単に違うということであって、
どちらが優れているかというような安易な優劣を言っていません。
ご注意ください。
さて、続けます。
この国に来てから、
特にKamhlushwa地区に来てから、
毎度のように、お金を要求される。
(私の巡回する他地区ではそんなにないのだが、kamhlushwaは、なぜか圧倒的に多い。)
子どもたちは、常に「Give me 50cents」とか「50cent」とか言ってくるし、
大の大人である先生たちも「Ask you Donation(寄付をくれ。)」と平気で言ってきます。
うちのホストマザーも、事あるたびに寄付を求められます。
(ホストマザーからは、さすがに困る。勘弁してほしい。)
当然ながら、私は、お金をあげません。
なぜなら、私は知っています。
彼らにお金をあげることは、彼らのためにはならないことを。
働かずして得た金は、一時的なものであり、
根本的な解決にはまったくもってなりません。
少なくとも、彼らの多くは、
その程度の額なら持っています。
つまり貧困ではありません。
実際、この地区の子どもたちは、私があげないというと、
「ならいい。」と言って、2、3分後に自分のお金でお菓子を買います。
「ほら、あるやん。」って言いたくなるのは目に見えているわけです。
そこで、以前、数少ない信頼できる南アの先生に、
理由を聞いてみました。
キリスト教の考え方では、
「お金を持っている人は、持っていない人に分け与えなければならない」ようです。
私はキリスト教徒ではないので、分かりませんが、
そうなんですか!?キリスト教徒のみなさん。
たしかに、アメリカなどの国では、寄付が当然のように行われているし、
それを堂々と公表しています。
日本だと、寄付の概念はあっても、匿名性の高い寄付が多く、
寄付した本人が「俺は寄付してまっせ」的な態度はとりません。
昔からよくある話に、
「おなかがすいている貧しい人に
魚を釣ってあげるか、釣り方を教えてあげるか。」という議論があります。
私のように任地でそれなりにいろんな人を見てきたものにとって、
この国の人たちが行っていることは、
「もうすでに魚をそれなりに持っているのだが、それを隠した上で、
もうなくなるからくれ。」的な発想にしか思えません。
私が思う問題は一つ。
ここ南アでは(少なくとも私の住む地域は)、多くの場合、
あげる側ではなく、もらう側にしかならなかったことなんです。
国単位では、サブサハラ以南のアフリカの盟主として、
周辺国に対して、優位に立っていますが、
それは、都会の儲かっている人の話で、
私の任地周辺では、その恩恵を享受するのみです。
だから、いつでもモノをちょうだいなわけです。
幸運なことに、この国は、
何もしなくても、諸外国から勝手に援助が入ってきます。
南アの、少なくともこの地域の多くの人は、
「それは南アが世界一魅力的な国で、優れているから」と平気で自慢してきます。
彼らは、何故、諸外国が
それなりに生活力のある南アに投資しているのかを、彼らは理解していません。
ほんの一部の学識があって、南アの将来を真剣に考えている人が、
『外国が南アに投資しているのは、
金とダイアモンド、レアメタルと言う希少金属を狙っているから』と警鐘を鳴らしています。
日本の格言に、「タダより高いものはない」とありますが、
まさに南ア人は、肝に銘じる必要があるのかもしれません。
最後に、
以前、南ア国内を旅行していたときに、
日本から来たであろうアジア人が、物乞いの人にお金をあげているのを見たことがあり、
結構、ショックを受けました。
彼らの行動を否定しませんが、少なくとも私は、理解に苦しみます。
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