戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

日光東照宮を「戦火」から救え 板垣退助こぼれ話

2005年05月11日 | 板垣退助こぼれ話
日光東照宮の玄関口にあたる神橋脇には板垣退助の銅像がある。板垣退助が日光を戦火を救ったということで昭和四年に建てられたもので、
颯爽とした武人板垣退助を象徴的に表現している銅像である。
日光を戦火から救ったのは、板垣退助一人の功績でないことは、明治になって谷干城がよく主張している。
板垣退助は飯塚村の台林寺の僧厳亮に命じて、旧幕府を説得させようとするが、その厳亮は松原の関門で番人に捕縛され、日光山内に監禁される。
厳亮は日光山内にいた知人に頼み大鳥圭介に板垣退助伝えたといわれているが、大鳥圭介が後に書いた「幕末実践史」にはそれについては触れられていない。
谷干城は厳亮は「日光山内をして速やかに官兵に帰順せしむる」ためとしており、大鳥圭介がこの時点において非現実的な内容を伝えたこととなり、日光の戦火を逃れるにはほど遠い内容である。
日光に入った谷干城が偵察をしていると、日光山内の僧道純と慈立が谷干城と面談し大鳥圭介との戦争回避を訴えると、谷干城は両僧に、
「日光を下って決戦するか、日光より離れるか、大鳥圭介にそのように伝えるよう」と命じる。この谷干城と日光の両僧の交渉は大きく作用していたようで、旧幕府軍の幹部
朝田惟季の日記によると、両僧の奔走している停戦和議に同意したとある。
一方、板垣退助と敵対すると大鳥圭介側では宇都宮城を奪われたことで、旧幕府の兵士たちの戦意も低下し、脱走も出てきていた。
また、日光では肝心の兵糧や武器弾薬が無く、またその補充のあてもなかった。とどのつまり、日光で旧幕府軍がその戦線を維持することは困難だったとえる。
こうなれば、板垣退助の単独の力でもって日光東照宮を戦火から救ったというのは、疑問符が出てきそうだが、日光にまつわる板垣退助のエピソードはことかかない。
彼でなくとも、旧幕府の精神的な象徴である日光東照宮を戦火に焼失してしまうと、北関東で旧幕府や会津藩に同情する世論が出てくることは容易に察しえるだろう。
板垣退助が甲州で姓を「板垣」と変えてでも、その民心掌握をしようとしたように、日光付近の「進駐軍司令官」として日光付近の統治に特に腐心していたというから、
それらを背景に板垣退助が日光を戦火から救ったという「伝説」が出てきたのではないだろうか。