戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

迅衝隊VS永倉新八  板垣退助こぼれ話

2005年05月23日 | 板垣退助こぼれ話
かの新選組のなかでも永倉新八ほど土佐藩の藩士たちにその刃を向けたものはいないのではないか。
一躍新選組の名を天下に知らしめた池田屋事件では脱藩した土佐藩士たちに対して抜刀して戦う。

戊辰戦争では、近藤勇らが結成した甲陽鎮撫隊に加わり、勝沼の戦いでも土佐藩の迅衝隊と戦うが敗れる。

永倉新八は近藤勇らと別れて靖共隊の結成に加わる。その永倉新八ら靖共隊は旧幕府の歩兵第七聯隊と合流し、四月二十二日で迅衝隊の別働隊と安塚で戦い、抜刀隊を組織して奮戦する。永倉新八は二の腕を負傷している。

五月六日に大鳥圭介らが伝習隊らを率いて今市にいた板垣退助ら迅衝隊に襲撃するさいにも永倉新八はこれに加わる。
第二大隊に所属していた永倉新八らの遊軍隊は、この戦いで幹部矢田賢之進が眼の下を狙撃され戦死したさいに、永倉は銃弾を避けながら矢田の首を切り落として、戦闘を続け戦いが終えたのちに高徳寺に埋葬したという。

これ以後、永倉新八は戦闘に参加した形跡はない。その永倉新八にかわってに足首を負傷から回復した土方歳三が迅衝隊に立ちはだかろうとする。